第八話 桐の箱
同じ夜、景信と斗真は、御所へ向かう支度を整えていた。
「お伺いを立てる」
景信は、衣の襟を正しながら言った。
「御所への道は、一つしかない。名を残さぬ者が、名を残さぬ者へ、文を預ける。
千年、それだけで通してきた道だ。今夜、それを使う」
「父上は、その道を、これまでに何度」
「使ったことはない」と景信は言った。
「私の代では、一度もない。
先の聖断の時は、陛下の方が先に御口を開かれ、我らはそれを受けただけだ」
斗真は、灯りの前で立ち止まった。
「我らからお伺いした例は」
「数えるほどだ」と景信は答えた。
「しかも、そのどれも、よい結果にはなっていない」
「それでも、伺うのですか」
「下りてこないなら、伺う。間に合わないから、伺う」
景信は、斗真の顔を見た。
「待って間に合わないのが、この千年でいちばん重い失敗だ。
陛下は、いま、御一人で苦しんでおられる。
表では動けず、裏では名を残せず、それでも国を思っておられる。
そのお姿を、我らだけが知っている。知っていて待つのは、務めではない」
「伺う、というのは、何をしに参るのですか」
「願い出るためだ。言葉を、乞うためだ」と景信は言った。
「ただし、口に出して願うのではない。文を置く。
読まれるかどうかは、陛下の御心だ。読まれなければ、それまで。千年、そういう往復だ」
「答えが下りなかった例は」
「三度ある」と景信は言った。
「三度とも、我らは、何も言わずに退いた。……いいか、斗真。
願いが通らぬことを、恥と思うな。ただ、今夜は、通らぬ願いの話はしていない」
「三度とは、いつのことですか」
「語る順がある」と景信は言った。
「ひとつは、武家が世を担うことになった時代。
ひとつは、海の向こうから黒い船が来た時代。
ひとつは、いまから百年ほど前。……いずれも、願いは通らなかった。されど、国は、続いた。
願いが通らぬまま、国が続く。それが、ふだんの千年だ。今夜は、ふだんではない」
あの夜、父は言っていた。――掟だけで担わせるつもりはない、と。
斗真は、その言葉を、思い出していた。
墨を磨る音だけが、部屋に満ちた。景信は、文を書いている。
文は、短かった。挨拶の言葉で始まり、何事も書かず、ただ、日付だけが入っていた。
宛名もなければ、署名もない。読む者には、読めるとされる文である。
文が書き上がり、乾くのを待つ間、景信は、筆を置いたまま、目を閉じていた。
斗真は、その間、ただ座っていた。聞いてはならぬ時に、聞かぬ。
見てはならぬ時に、見ぬ。支度の一部は、動くことではなく、在ることである。
それを、斗真は、幼い折から教わってきた。
その時、斗真は、気配を感じた。
外だ。社の方だ。
社の幣殿に古い桐の箱が置かれた気配がし、景信の手が止まった。
誰も、運ぶ姿を見た者はいない。ただ、幣殿の板の間に、桐の箱が、置かれている。それを、知る。
千年、そうやって、知ってきた。音もなく、足跡もなく、ただ、箱が、ある。
「……勅だ」
「陛下が、お決めになった」
斗真には、まだ意味が分からなかった。
勅は、山奥の小さな社の幣殿に届く。それが、歴代のかたちであった。
誰が運ぶのか。いつ運ぶのか。それは、問うてはならぬことであり、問いようもないことであった。
景信は、立ち上がった。
幣殿までの道を、二人は、灯りを持たずに歩いた。月が、僅かに、道を照らしていた。
幣殿の板の間に、古い桐の箱が、一つ、置かれていた。
四隅の金具は、磨り減っていた。縁は、代々の掌の脂で、黒ずんでいた。
書庫に置かれているあの箱よりも、少し、古かった。
斗真は、箱に触れることはなかった。
触れてよい箱は、一つしかない。
景信は、箱の前に跪き、手を拭い、蓋を開けた。
中に、紙が一枚。
景信は立ち上がって紙を受け取り、目を通した。
長いこと、動かなかった。
月明かりでも、読めぬほどの暗さではなかった。
だが、景信は、読み終えても、動かなかった。
読み終えると、紙を斗真へ渡した。
そこには、一行だけが書いてあった。
――国を、頼む。
斗真は、その一行を、声に出して読んだ。
背筋に何か冷たいものが走った。
声に出したことで、その一行は、初めて重さを持った。
目で読んでいる間は、ただの短い文であった。声に出した途端、その短さが、凄みを帯びた。
「これが……」
「勅だ……」
景信は言った。
「八咫烏が、千年のうちに受けた勅は、数えるほどしかない。その一つが、これだ」
「陛下は、我らの伺いを、お待ちですらなかった」
「そうだ」
景信は言った。
「我らが御所へ着くより、陛下の方が先にお決めになった。……これが、陛下の苦悩の答えだ」
苦悩の答え――斗真は、その言葉を、反芻した。
陛下の三つの苦悩を、斗真は、まだ、すべてを聞いてはいない。だが、この一行が、何かの答えであることだけは、分かった。
「なぜ、一行なのでしょう」
「筆を走らせれば、勅は、長くなる。長い勅は、細かい指示になる。
細かい指示は、我らを縛る。陛下は、縛られなかった」
「この一言を、どう受ける。兵なら命令として受ける。
だが、我らにとっては命令ではない。我らは、陛下の兵ではないからだ。
……勅は、命令ではない。お委せである。国の行く末を、この一行で、我らに委ねておられる」
「委ねられた、ということは」
「考えよ、と言うことだ」と景信は言った。
「どうするかは、我らが考える。陛下は、答えを下さらなかった。
答えを、我らに下させる、という形の勅だ。だから、重い。
命令なら、従うだけでよい。委せられた者は、答えを出さねばならぬ」
斗真は、紙を見た。短い一行しかない。
その一行が、いま、この国の裏の重さになっていた。
「評定を開く」と景信は言った。
「今夜ですか」
「今夜だ。五羽の烏は、もう屋敷にいる。……いや、評定ではないか……」
景信は、広間の灯りを、順に高くしていった。
「始動だ」




