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導きの火 ー千年を語り継ぐ八咫烏  作者: 忍びでござる
第一章 天皇陛下の苦悩と八咫烏の始動
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第七話 三つの苦悩

評定を閉じた夜、御所の灯りは、遅くまで消えなかった。


護衛の交代が、一度、済んだ。

廊下の足音が遠ざかり、やがて、御所には水の音ほどの静けさしか残らなかった。

陛下は、御文書を読んでおられた。

並んでいる言葉は、どれも穏やかである。

景気は緩やかに回復の途上にある。

地域の安全は保たれている。

漁業の扱いは、関係者の間で協議中である。

想定の範囲を超える事態は、確認されていない。


陛下は、その最後の一行を、二度お読みになった。

確認されていない、という言葉には、二つの意味があり得る。

事態が無いのか。確認する者が無いのか。文を書いた者は、おそらく、前者のつもりであろう。

されど、後者であったなら――その可能性が、御文書には、いつも沈んでいた。

どの一行も、誤りはない。

どの一行も、嘘でもない。

ただ、書かれていないことが、行と行の間に、静かに積もっていた。


陛下は、それを一つずつお読みになり、読み終えてから、いちばん下の一枚を御手に取られた。

そこには、飾りのない数字だけが並んでいた。


一つの島の人口。週に二度だった船の便。昨年、閉じた診療所の数。

今年、閉じる学校の数。三年分が、縦に並べてある。

数字は、穏やかな言葉とは、違うことをしていた。

言葉は、読む者の都合に沿って並べられる。だが、数字は、そうしない。

数字は、ただ、そこにあったものを、そのまま並べる。

本文には、こう書いてあった。

「離島の振興は、着実に進捗している」。

陛下は、その一行を、長く御覧になっていた。

進捗は、している。着実に。どちらも、嘘ではない。

だが、その一行の下に並ぶ三年分の数字は、進捗とは、逆の方を向いていた。

臣下が、陛下一人のお心を推し量るのは、本意ではない。


されど、その夜のことを、八咫烏のうち一人が語り継いでいる。

この語りは、その口伝に拠る。


陛下の苦悩は、三つあった。

一つは、見える苦悩である。国が、静かに削られていくこと。

騒ぎにならぬ速さで、島が細り、港が減り、国の名義が書き換えられていくこと。

騒げば、政治は動く。叫べば、人が集まる。

だが、削られる速さが、騒ぎの閾を、いつも少しだけ下回っている。

気づいたときには、手遅れになっている速さで、確実に進む。

そういう削られ方である。

陛下は、そのすべてを御承知だった。

御文書の穏やかな言葉の裏に何があるか。

この国でいちばんよく知っておられたのは、陛下であった。

毎朝、勤めの初めに、各地の報せに目を通される。

表の国が知らせてこないことを、陛下は、それと知らされぬまま、御覧になってこられた。

二つは、動けぬ苦悩である。表の国には、陛下が御手を下す道が定められていない。

国の形を変えるのは、選ばれた者たちの務めであり、陛下は戦後、象徴として置かれた。

よき治めを願うことはできても、手を下すことはできぬ。

その道は、陛下ご自身が、いちばんよく御存じだった。

御存じであればこそ、御手は、どこにも伸びなかった。

静かに削られていく国を、陛下は、いちばん高い場所から、何もできぬまま御覧になっていた。

高さとは、時として、距離である。

いちばん高い場所は、いちばん遠い場所でもあった。

手の届かぬ高さから国を御覧になる年月は、長ければ長いほど、重くなる。

三つは、誰にも言えぬ苦悩である。

八咫烏のことを、代々の陛下だけがご存じである。

即位の日の、ある段取りのうちに、それとなく伝えられる。

説明はない。書物もない。ただ、あるということだけを、知らされるのである。

それは、この国でただ一人、名を残さぬ者たちを知る、ということでもあった。

そして、彼らを動かす言葉は、この国にただ一つ、陛下の御口から出る一言だけである。

一言は、一度きりである。戻せない。誤れば、国が割れる。


陛下は、その一言を、言葉として持っておられた。

だが、口にされることはなかった。口にすれば、もう、引き返せぬからである。

かつて、先の代の陛下が、一度だけ、それを口にされた。

国を滅ぼさぬという聖断である。

あの一言が、どれほどの重さでその後の国にのしかかったか。

先の代の陛下が、その一言を口にされた夜のことを、八咫烏の口伝は、わずかに伝えている。

御所の灯りは、その夜も、遅くまで消えなかった。

先の代の陛下は、表では、何もおっしゃらなかった。

ただ、翌朝、御目の下に、深い影ができておられた、と。

名を残さぬ者たちが、その影を見て、国の重さを測った。

尺も、秤もない。影の深さでしか、測れなかった。

戦は、終わった。

だが、あの一言の上に、戦後の国は、積み上げられてきた。

積み上げた者たちの多くは、その下に一言があることを、知らぬままである。


陛下は、若い日から、その重さを御存じだった。

だから、陛下は、言葉にされなかった。長い間、言葉にされなかった。

言葉になれば、勅になる。

勅になったものは、表の法のどこにも載らない。

載らぬまま、国の行く末を決める。

そして、それを決めた御方の名は、どこにも残らない。

残るのは、ただ結果だけである。

歴史は、結果だけを書く。誰が火をつけたかは、書かない。

火が渡った山の名前だけが、残る。

陛下は、御硯の蓋に、手をかけられた。

かけて、そのまま、動かされなかった。

墨は、まだ、磨られていなかった。

磨れば、筆が走る。筆が走れば、言葉になる。言葉になれば、勅になる。

硯の蓋は、閉じられたままだった。

灯りの芯が、一度だけ、軽く鳴った。

陛下は、数字の並ぶ一枚を、机の上に、静かに伏せられた。

それから、御窓の方を御覧になった。空には、月がなかった。

雲が低く、海の方角を覆っていた。

海の向こうの、あの島の上空も、同じ雲に覆われていたはずであった。

そして、夜のいちばん深いところで、お独りにお尋ねになったように、こう呟かれた。


「……国のためとは、何か」


その問いに答える者は、その部屋には、いなかった。

答えを知っている者たちは、千里の山の奥にいた。

同じ夜、山の奥の屋敷では、灯りが、まだ消えていなかった。


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