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導きの火 ー千年を語り継ぐ八咫烏  作者: 忍びでござる
第一章 天皇陛下の苦悩と八咫烏の始動
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第六話 国が割れた

最後に、言の烏である八重樫が、口を開いた。


「表の外交の筋からは読めない交渉の痕跡。それに触れます。相手の名は出しません」


向こうの実務者らしき者と、第三の港で二度会ったという。

船室の話だった。通訳は一人。記録は取らない。


「記録を取らない交渉というのは」


と斗真が訊くと、八重樫は静かに答えた。


「記録が残れば、痕跡になる。痕跡が残れば、他の誰かが後から使う。

私たちは、痕跡を残さない場所で相手の本音を聞きます。

表の外交が言葉で作られるなら、裏の外交は、沈黙で作られるのです」


「向こうの言い分は、穏やかです。あの海を、共同で管理したい。

資源は分け、警備は分担する。表向きは、友好の提案です」


「だが、共同の管理とは、我らが管理を手放すという意味です」


「名目は柔らかく、実は土地の名義を書き換える話なのです」


「名義を、書き換える」


と斗真が呟くと、沙耶が静かに補った。


「表の政府は、それを知っているのか」 と鷲尾が訊いた。


「知らされています。ただ、知らされ方が柔らかいのです。

『地域の安定に資する枠組み』という名で」

「署名の席に着く閣僚の誰かが、その一行の意味を全部理解しているかは、保証できません」


「一行の名前で、海が変わる」 と諏訪が呟いた。


「昔は、旗を立てて奪った。今は、その土地を自分のだと宣言すのじゃな」


と瀬戸が続けた。


「変わっておらん。筆の方が、刀より速いだけだ」


「それで、お前はどう答えた」と景信が訊いた。


八重樫は、少し間を置いてから言った。


「何も答えませんでした。聞くだけでした。ただ、別れ際に一つだけ言いました」

『島に人が住んでいるうちは、話は続けられます』と。

「……向こうは笑いました。私には、その意味を解せませんでした」


鷲尾が、低く呟いた。

「住んでいる人間がいなくなれば、交渉の相手がいなくなる。そういうことだ」


斗真は、その言葉の意味を、ゆっくりと理解した。

島に人がいなくなれば、そこはただの島になる。

ただの島になれば、名義の書き換えは、もはや交渉ですらない。

届け出の一行で済む。

あの船影が測っているのは、水深や航路だけではない。

人が減る速度まで、測っているのかもしれなかった。


「笑い方まで、計算のうちだ」

と瀬戸が、苦々しく言った。


「相手は、我らが答えに詰まることまで見込んでおる。

穏やかな提案は、最も安い刃じゃ。拒めば非難される。受ければ海を失う。

返事をしなければ、先に進めておる」


沙耶の数の報。諏訪の離島の報。そして八重樫の言の報。

三つの報は、別々の席から語られながら、一本の道に繋がっていた。

暮らしが消える。島が名だけになる。そして、海の名義が、静かに書き換わる。

(経済。領土。外交。三つは、別の問題ではない。一つの流れなのだ)


斗真は、その構造が初めて見えた気がして、背筋が冷えた。

評定の間が、静かになった。

灯りの火は、いまだ一度も揺れていなかった。


(私は、今夜ここで、何を覚えた)

斗真は、自分の内側を、静かに確認した。


数字の下振れは、三割。消えゆく島は、百人足らず。

そして、署名の席に着く一行の名前。

どれも、明日の自分の生活には、まだ何も変わらない数字と言葉だ。

だが、それらが一本の道に繋がって見えた時から、斗真の見る街は、もう昨日の街ではなかった。


(表の国が、あの海に名前をつけずにきた年月の分だけ、今夜この間が開いたのだ)

ならば、八咫烏が動くべき時も、もう近い。

景信は、ゆっくりと口を開いた。


「つまり、この国は三つの問題を同時に片づけねばならん」

「経済の問題。領土問題。外交問題」

「どれも単独なら防げる。同時に来るから、防げない」

「一つを直せば、他が進む。騒げば市場が揺れ、静かにすれば島が捕られ、話せば言葉ごと呑まれる」

「この三者の間に、表の政治は今、立っている」


斗真は、五羽の烏の横顔を見た。

誰もが、景信の言葉を否定しなかった。

誰もが、否定する材料を持っていなかった。

沙耶の数字は、正確だった。諏訪の刀は、間違いなく研がれていた。

八重樫の耳は、確かに本音を聞いていた。


それでも、三つの報は、今夜ここで止まっていた。

(紙の上では、どれも解ける。だが、紙の上の解は、動かない)

斗真は、それは表の政治のことだと思った。

同時に、八咫烏のことも、そうなのかもしれないと思った。


鷲尾が、最後に一つだけ訊いた。


「この危機、陛下はご承知なのか」


間が置かれた。


「……陛下には、こちらからは知らせない。ただ、憂慮されていると思う」

「知らせない、とは」

「勅が下るのを待つ。それが八咫烏の務めだ。ただ、時間がかかるようだと、我らの独断で対処するしかあるまい」


斗真は、その言葉の端に、初めて「刃」の気配を感じた。

千年、火を守り続けてきた者たちの務めは、待つことだ。

だが、待てなくなった時、彼らは動く。その時、動く先に何があるのか。

誰も、次の問を発しなかった。


「八咫烏が動くのは、ここからだ」

と景信は言った。


「表に任せておけば失うものを、裏の道で止める。千年、それが我らの務めだ」

「父上」

と斗真は言った。


「千年続いてきた務めなら、中には失敗もあるのでは」

間が置かれた。

景信は、すぐには答えなかった。

火を見つめたまま、しばらく沈黙していた。

やがて、短く言った。

「ある」

「一度ではない」

「……では、その一つだけ、いま言っておく」

「烏は、一度、動くのが遅れた。それだけで、国が割れた」

「動くのが、遅れた」

「そうだ。時は、待ってはくれぬ」


斗真は、その一言を、まだ意味の分からぬまま、胸に置いた。

(国が割れた。その言葉は、どこかの昔の話だろうか。それとも)

答えを聞くのは、まだ早い。


だが、いずれ聞かねばならない。継ぐ者の席に座った以上、それは避けられないと、斗真は感じていた。

千年前の失敗の記憶が、第二部で語られる日が来るのか。それとも、この言葉は、もっと別の意味を持つのか。斗真には、まだ分からなかった。

灯りの火が、ふと一度だけ、小さく搖れた。

斗真は、その火を見た。

(今夜、初めてだ)

理由は、分からない。だが、その一拍だけの搖れが、評定の間の空気を、少しだけ緩めた気がした。

千年の務めを語る間の火が、搖れる時がある。

それは火が生きていて、その結び方も、時に迷っているのかもしれなかった。

その時、廊下の遠くで、足音が止まった。


静かな評定の間に、その止まり方だけが、はっきりと響いた。

景信の眼が、障子の外へ向いた。

五羽の烏も、同時に顔を上げた。

誰も、何も言わない。

ただ、全員が、同じ方向を見ていた。

「……今夜は、ここまでだ」

それ以上は、語られなかった。


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