第九話 始動
夜半、広間が、昼よりも深い灯りに満たされた。
五つの座に、五羽の烏が座った。
数の烏の沙耶は、いつものように背を伸ばし、書付を膝に置いていた。
図の烏の鷲尾は、目を閉じて、席の空気を測っているようであった。
刀の烏の諏訪だけが、僅かに、前傾であった。
蔵の烏の瀬戸は、湯呑みを手にしたまま、飲みもせず、置きもしなかった。
言の烏の八重樫は、その横で、今日初めて、座り方が落ち着かなかった。
勅を、初めて目にする烏であった。
斗真は、いつもの一段下の席である。
ただし、今夜は、その席が、昼とは違って見えた。
昼の席は、聞く席であった。今夜の席は、聞くのみならず、担う側の席である。
同じ座り方でも、畳の冷たさが、違って感じられた。
「勅が下った」
景信は、紙を床に置いた。五人は、その紙を見た。
誰も、読まなかった。
読まねばならぬ文字が書いてあることは、紙を見るまでもなく、分かっていた。
八重樫が、息を呑むのが、見えた。
「陛下は、我らに国を委ねられた。……これより、三つの矢の対策を考える」
広間の空気が、変わった。評定の空気から、始動の空気へ。
「まず、現状を。短く」
沙耶が、書付を広げた。
「数の報です。市場の下振れは、止まっておりません。
島の測量は、今月に入って三度目です。どちらも、静かなまま、進んでいます。
数字は、毎週、下がっております。下がり幅は、まだ、騒ぎにならぬ幅です。
騒ぎにならぬ幅のまま、下がり続ける。それが、今の形です」
「その島の数字は」と瀬戸が言った。
「わしの算盤でも、出る。便が一つ減る。店が一つ減る。診療所が減る。学校が減る。全部、赤字の消除だ。表の理屈では、整っておる。整った理屈で、国の端が消えていく。それが、いまの戦の、戦い方だ」
「まずは、進行を止めることだな」と景信は言った。
図の烏の鷲尾が、続いた。
「図の報です。名義の書き換えは、表の席で進んでおります。
署名の期日は、まだ決まっておりません。決まる前に、外から止めるか、内から止めるか。
……要は、刀の使い所です」
「席を整えよう」と景信は言った。
「延期を、もう一段、掛けられる余白を、表の手続きの中に探しておく。止めるにしても、止めたと分からぬ形で止める。それが、図の仕事だ」
「刀で言えば」と諏訪が言った。
「刀を使うなら、相手に先に使わせなければ、味方はいなくなる」
「海の話は、それだ」と景信は頷いた。
「旗を立てさせてはならぬ。立てた瞬間に、立場が逆になる。
向こうは、我らが旗を立てるのを、待っている」
「蔵から申します」と瀬戸が言った。
「今なら、まだ、十分に余力があります。ただし、使い切るなら、先が長く持つ使い方に限ります。
一箇所に注げば、他が渇く。注ぐ場所は、評定で決めていただく」
「言の報です」と八重樫が言った。
「向こうの実務者は、まだ港におります。私が、もう一度会います。
今度は、私から、一つだけ申します。……何を申すかは、今宵は言いません」
「言の烏が、頭領に隠し事を申すのか」と諏訪が尋ねた。
「隠し事では、ございません」と八重樫は言った。
「言葉には、有効期限がございます。申すべき時に、申せば、刃になる。早く申せば、ただの音に終わります。期限は、私が見ます」
景信は、それを止めなかった。
言の烏の言葉には、渡す時が、決まっておる、ということである。
景信は、五人の顔を見た。それから、斗真を見た。
「斗真」
「はい」
「お前の問いを、覚えているか。千年の務めには、失敗もあるのでは、という問いだ」
「覚えております」
「あれの答えは、この部屋にはない」と景信は言った。
「正しく言えば、答えは、いま、この部屋の外にある。
この国の、いまの姿の中にある」
斗真は、息を呑んだ。
「白村江の火の話は、いずれ語る。
壬申に烏が動けなかった話も、承久も、応仁も、黒船も、二・二六も、聖断も語る。
千年の失敗の記録を、一つも残さず、順に語る」
「なぜ、失敗を、残しておくのですか」
「失敗だけが、教える」と景信は言った。
「手柄は、傲らせる。失敗は、謙らせる。千年続く組織に要るのは、謙りだ。だから、失敗の記録を、口伝で繋いできた。名もない者たちの、名もない失敗をな」
「ですが、いま、その時では」
「そうだ」と景信は言った。
「順がある。まず、矢を折る。国を守る。それから、語る」
彼は、灯りの芯を、いちばん高くした。
「そして、よく聞け。これを、過去の話と思うな。この国は、いまなお、負け戦の中にいる。
終わったのは、戦だけだ。敗戦は、終わっていない。いまなお、続いている」
広間に、沈黙が下りた。
負け戦の続き――それは、戦場の話ではない。
市場が削られ、島が細り、名義が書き換わる。旗は立たない。烽は燃えない。
だが、負けは、積もっている。それが、景信の言う、いまなお続く敗戦である。
斗真は、その言葉の中で、立ち止まった。
勝った戦だけが、歴史に載る。負けた戦は、載らない。
載らぬ負けが、千年、積もってきた。その積もりの上に、いまの国がある。
五人の烏は、動かなかった。動かぬことで、五人は、その言葉に同意していた。
灯りの芯が、一度鳴った。誰かが、水を注ごうとして、やめた。
今夜の灯りは、注ぐ水さえ、まだ決まっていない。
やがて、景信は、静かに言った。
「数は、数字を置く。図は、席を整える。刀は、鞘に居ろ。蔵は、算盤を回せ。言は、言葉を一つ、選べ。……散る」
五羽の烏は、音もなく立ち上がり、それぞれの支へ下っていった。
斗真は、床に置かれた紙を、見ていた。
一行だけの、あの紙である。
国を、頼む。
頼まれた国の、いちばん細い一本の線――ある島の船便が、週に二度から、一度へ変わる。
その一本の線を、斗真は、思い浮かべていた。
八咫烏は、いまなお続く敗戦の中で、動き始めた。




