第四話 継ぐ者の席
斗真は、先導の者の背を追って、廊下を下った。
夜の社の奥。
広間のさらに下へと続く石段を降りるうちに、地上の気配は完全に消えた。
石の壁は湿りを帯び、時折、水の滴る音だけが遠くで響いた。
足音は、反響しない。石が音そのものを呑んでいるようだった。
(あの広間で、五羽の烏に会った夜から、まだ数夜しか経っていない)
それなのに、斗真の上着の内側には、すでに別の時間の重みが積もっていた。
問いを口にした夜。
灯りの中で初めて姿を現した五羽の烏。
そして、届いた報せ。
そのすべてが、今夜、一つの間に収まるという。
先導の者は、石段の途中で一度も振り返らなかった。
だが、斗真が一歩でも遅れれば、必ず待ってくれていた。言葉では、一度も言わなかった。
(ここでは、言葉は最小限でいい。そういう場所なのだ)
やがて、視界が開けた。
「評定の間です」
先導の者が、一本の太い梁の前で足を止めた。
梁の下に、引き違いの扉がある。框には、三本の足を持つ烏の紋が彫られていた。
八咫烏。千年、この国の裏側で火を守り続けてきた者たちの証。
先導の者は何も言わず、扉を押した。
評定の間は、先の広間よりも奥深い空間だった。
天井は高く、壁は生苔を帯びた巨石の積み上げだ。都心の地下のはずの空間に、山奥の匂いがした。
灯りは床に低く置かれ、五つの座を淡く照らしていた。
火は、揺れない。空気の動きまで遮断されたような、澄んだ炎だった。
斗真は、扉の内側で立ち止まった。
ここから先は、招かれなければ足を踏み入れてはならない領域だ。あの夜、先導の者にそう言われた記憶があった。
やがて、物音もなく景信が入ってきた。
柔らかな足取り。まっすぐな背筋。そして、烏たちを従える者だけが持つ静けさ。
景信が上座に着くと、五羽の烏は音もなく頭を下げた。
斗真の席は、一段下の景信の斜め後ろに設えられていた。
座布団の色は、五羽のそれよりもずっと淡い。まだ、色を持たぬ者の色なのだろう。
「継ぐ者の席です」
先導の者が、低く言った。
斗真は、言われた通りに腰を下ろした。
(見る。聞く。覚える。今夜の役目は、それだけだ)
五羽の名を、斗真はまだ、すべてを知った訳ではない。
ただ、広間で一度だけ顔を合わせた時、それぞれが異なる気配を纏っていたことは覚えている。
数を数える者。刃を持つ者。倉を守る者。宮中に立つ者。そして、言葉を運ぶ者。
五羽は、五つの異なる役割を、座の位置だけで主張していた。
景信は、五羽の横顔を一度だけ見渡し、口を開いた。
「始める。報告は順に。短く、核だけを」
声は低かった。だが、その後の間の静けさが、一言の重さを代わりに語っていた。
最初に書付を広げたのは、沙耶だった。
西の窓辺の座に座る、若い女の烏。数の烏だ、と先導の者から聞いている。
その指は、書付の頁をめくるたびに、音もなく動いた。
「冒頭に申し上げます。市場の下振れは、当座の想定を三割超過しています」
間が置かれた。
「正確には二割七分ですが、語弊を避け、三割と申します」
数字が続いた。
円は安く、国債から外国の買い手が離れ始めていること。
借り替えの利子が上がり、税は増え、物価は季節をまたいで何度も変わっていること。
一つ一つの数字を、沙耶は飾らずに並べた。
だが、その並べ方には順序があった。原因から結果へ。確かなものから、まだ怪しいものへ。
(ただ読み上げているのではない。判断の順番に並べているのだ)
斗真は、小さく息を呑んだ。
同じ数字でも、並べ方で意味は変わる。人を安心させる順序も、人を覚悟させる順序も、数字そのものではなく、その並びの中にある。
沙耶は、迷いなく後者を選んでいた。
「街では、賃金の話より値札の話が先になります」
「人々は悪化を感じながら、まだ日常を営んでいます。暴動も、叫びもありません」
沙耶は、そこで一度言葉を切った。
「……それが、いちばん恐ろしい」
「なぜだ」
と諏訪が問うた。
東の座の、寡黙な男。腰元には、刃を布で包んだ長い刀が置かれている。刀の烏だ。
「静かな崩壊ゆえに、誰も気づいていないです」
「騒げば政治は動きます。国民が静かだと、政治は見送ります」
「政治とは、騒ぎの大きさで動くものなのですか」
と斗真は、思わず口にした。
五羽の視線が、静かに斗真へ向いた。
(聞いてはいけないことを、聞いてしまったか)
だが、誰も咎めなかった。
沙耶は、微笑んで見せた。
「歴史は、たいてい騒ぎの大きさで動いてきました。ただ、今回の騒ぎは、まだ誰にも見えていないだけです」
「見えていない、のではなく」
と、鷲尾が静かに訊いた。
「見ようとしていない、ということか」
宮中の烏。五羽のうち、いちばん静かな声の持ち主だ。
「その通りです。そして、見ようとしない理由は、いつも同じです。見てしまったら、何かをしなければならなくなるからです」
「見て、動けないなら、見ない方が楽だ、ということか」
と斗真が言うと、鷲尾は小さく頷いた。
「楽ではなく、安いのです。見ないことは、いちばん安い政治です。ただ、後でとんでもない利子が回ってくる」
その時、うつむき加減の男が、無精ひげを触りながら口を開いた。
瀬戸。蔵の烏だと、先導の者から聞いている。古い言葉を使う、年配の男だ。
「蔵から見れば単純なことじゃ。歳入が減っているが、歳出は減らない。むしろ増えておる」
「払う期日だけが、近づいておる」
「国も、家計と同じことだ。畑が痩せたら、まず倉を開ける。倉が尽きたら、借りる。借りた米の利子が、翌年の畑をさらに痩せさせる」
「それを、何十年も続けてきたのが、この国じゃ」
斗真は、息を呑んだ。
家計の話に聞こえるほど単純なのに、それが国家の規模で、何十年も繰り返されてきた。
「違うのは、破綻のあとに取り立てに来るのが、他家ではなく他国である、という点だけだ」
瀬戸の言葉に、評定の間の空気が一度だけ、沈んだ。
灯りの火は、相変わらず揺れていなかった。
「それを止める手立ては」
と鷲尾が訊いた。
「もう、金ではない」
と沙耶は静かに言った。
「時が解決する訳でもない。この静かなる崩壊を止める手立てをもっている方が、まだ一人だけ残っておる。その名は、ここでは言わぬ方がよい」
残っておる、という言葉遣いは、瀬戸のそれだった。
だが、言ったのは沙耶だ。
二人の報は、すでに一つに繋がっている。
瀬戸は、それを訂正しなかった。むしろ、無精ひげに触れたまま、小さく頷いて見せた。
「一人、とは」
と斗真は訊いた。
誰も、答えなかった。
景信だけが、火を見ていた。
その横顔には、答えを隠す者の顔ではなく、答えを守る者の顔があった。
(言えない、のではない。言えば、その方が消えると、そう思っているのか)
斗真は、二度目の問いを胸の中へしまい込んだ。
(今夜の自分は、まだ、答えを聞く席ではない)
継ぐ者の席とは、聞く席ではなく、覚える席なのだ。それだけは、今夜ここへ来るまでに、体で分かるようになっていた。
沙耶が頷いた。
「数の報は、以上です」
景信は、次を促した。
「離島の報を」
沙耶は、書付の次の頁へ、手をかけた。
頁をめくる音が、静かな間に、はっきりと響いた。




