第五話 「三方面」
承久3年5月19日、挙兵の情報が鎌倉へ届く。北条政子が御家人たちを簾下に招き、頼朝以来の御恩を訴え、御家人を結束させる。東海道軍は22日に第一陣が鎌倉を出発し、25日までに三方面の軍勢が揃う。十文字 倭の社では、影の者(伍)(緋色)が東海道の橋と宿の動きを報告し、幕府軍の進発の速さが社に届く。帝への返事の期日の十日が過ぎ、文は読まれても動かなかったことが確定する。
登場人物 十文字 倭(情報と分析)。鷲尾 為景(政務と均衡)。諏訪 之忠(実力行使と戦)。瀬戸 嘉衛(財と物流)。八重樫 詞房(外交と交渉)。八咫彦(宗家)。北条政子(尼将軍)。安達景盛(御家人)。影の者(伍)(緋色)。影の者(七)(藍色)。
【場面①】 承久3年5月19日 鎌倉・北条政子の邸・簾下
朝。鎌倉の比企ヶ谷から吹く風が、邸の庭の松を鳴らしていた。
簾の下には、御家人たちが順に座り、簾の内には北条政子が座っていた。
宣旨の話が鎌倉へ届いた朝、京へ付くか鎌倉へ付くかで
御家人たちの間に声が交わされていた。
幕府では、御家人たちの動揺が、邸の外の廊下まで響いていた。
御家人の中の一人が、義時に付く者は
朝敵に連なるのではないかと、席の内で声を上げた。
安達景盛が、簾の前に立って政子の言葉を代読した。
頼朝が東国の武士を集め、四十余年の間、その所領と身分を認めてきたこと。
御家人たちが今日の身分にあるのは
頼朝の恩に報いるために他所の国で戦ってきたからであること。
今、讒言によって朝敵とされた義時を、御家人たちはどうするのか。
恩を忘れて帝に付くか、恩に報いて鎌倉に付くか。
それだけを、簾の内から声は外に伝わった。
御家人たちは、各自の所領と身分を守る仕組みが鎌倉にあることを
あらためて声には出さず、その場で決めた。
落伍者は一人も出なかった。
涙を流す者まで現れ、御家人同士の結束が図られた。
簾の外の庭には、戻る御家人たちの足音が順に響き、邸の馬場には、各家の名代が馬を進めた。
西国の武士の中には、京の使と縁故で繋がる者もいたが
東国の武士は、幕府を守ることが自分の家を守ることだと、その場で決めた。
【場面②】 同じ日の昼 鎌倉・北条義時の邸・評定の間
評定の間には、義時の下に幕府の主要な御家人が集まっていた。
義時は、泰時と時房に兵を預け、三方面に分けて上洛する方針を示した。
東海道には泰時と時房が大将として進み、東山道には武田信光が大将として進む。
北陸道にも大将が置かれて三方面から京へ向かうことになる。
評定の間には、東国の御家人が兵を出す人数の申告が幾つも置かれ
各家の名代が順に席を立ち、戻ってきた。
北条義時:「宣旨は、私一人を討つものではない。
守護と地頭を、院が取り上げる命令だ。
鎌倉が倒れれば、御家人の所領は、みな院のものとなる。
それを、御家人はもう決めた。兵を西へ向ける。
泰時は、京へ向かう途中で京の事情を収集する。時房は泰時と進む。」
北条泰時:「承知しました。手勢は十八騎で先に進発し
途中で各大将の軍勢を収集します。
ただ、京へ向かう途中の橋と宿の様子は、院の方が押さえています。
兵の進みを止めないため、事前に確認します。」
北条義時:「それでよい。京には、我々の動きが届く前に、兵を進めます。」
評定の間の机の上には、東国の御家人からの兵の申告が積まれ
泰時はその一部を取り、袖に収めた。
室町の庭では、馬が集められ、蹄の音が邸の垣の外まで響いていた。
【場面③】 承久3年5月22日 鎌倉・馬場
朝。馬場には、東海道軍の第一陣が集まっていた。
泰時の手勢は十八騎で、鎌倉を出発する順を待っていた。
時房の軍勢はその後を追い、東海道の街道を西へ向かうことになる。
馬場の周りには、出発を見送る御家人たちの姿が幾つも出ていた。
北条泰時:「では、先に出発します。京までの道のりは、遠い。」
北条時房:「道中、宿は順に確定していき、兵が宿として利用する村には
兵の数の分の食料を利用する村々に用意するように
兵の数を知らせておきます。」
北条泰時:「お願いします。道中で、各大将の軍勢と合流します。」
馬場には、出発の合図が置かれ、泰時の十八騎が西の口を向けて進発した。
蹄の音が、鎌倉の谷から、由比ヶ浜のほうへ遠ざかっていった。
道の先では、東海道の街道が尾張のほうへ伸び
朝の光が街道の土を白く照らしていた。
送る御家人たちは、各自の所領へ戻り、兵を率いて西へ向かう支度を始めた。
【場面④】 承久3年5月25日 熊野三山の奥・八咫烏の社・評定の間
評定の間には、五羽の烏がそろった。
机の上には、影の者(伍)からの報告の紙が数枚、順に置かれていた。
間の外の廊下には、影の者(伍)が東海道から戻り、泥のはねた旅装のまま立っていた。
八咫彦:「帝からの返事は、まだ来ません。文を政務の机に届けてから
十日の期日が、間近に迫っています。返事が来なければ
文は読まれても我らの意は受け入れられなかったと考えます。
どちらであっても、返事のないこと自体が、返事になります。
東国の報告から、始めます。」
十文字 倭:「影の者(伍)の報告です。鎌倉では、政子が御家人を簾下に招き
頼朝様以来の御恩を訴えました。
御家人は簾下で決め、落伍者は一人も出ませんでした。
泰時と時房が東海道を進み、武田信光が東山道を進み
北陸道にも大将が置かれました。三方面から京へ向かうことになります。
東海道の第一陣は、二十二日、泰時の十八騎が鎌倉を出ました。」
影の者(伍)の報告の紙には、東海道の橋と宿の動きが書かれていた。
兵の数は、宿から次の宿へ先に知らされ、兵が通る先の村には
兵の数の分の食料が置かれていく。
兵の動きは、京の宣旨が出た後、東国の各家へ伝わり
各家の兵は、馬場から順に西へ向かい始めていた。
諏訪 之忠:「兵の数と速度が、出ました。東国の兵は、三万か、それ以上か。
京の守りは、数日で破れます。橋と宿を押さえながら進む兵の動きは
鎌倉の文と申告が、京の宣旨より速く動くことの証拠です。
我々が文で訴えた動員の速度の読みは、帝の読みより、実の動きが速い。」
鷲尾 為景:「京は、宣旨が出れば東国が動くと読んでいます。
だが、東国は鎌倉の文と申告で動き、宣旨とは別の速度で進んでいます。
帝の読みと、東国の動きの間に、差ができています。
この差が、開いていく可能性があります。」
瀬戸 嘉衛:「財の面から言います。三方面の兵が西へ向かえば
街道の村の食料は、兵の数の分だけ動かされ、税と労役の道は、先に乱れます。
京の物価も、数日の内に上がり始めます。」
八重樫 詞房:「京は宣旨の効果を、東国の動揺に求めています。
ですが、東国は政子の訴えで結束し、宣旨は東国で届いた形を変えています。
宣旨が京を出た速度と、兵が西へ向かった速度を並べれば
どちらの網が実であるかは、はっきりします。」
八咫彦:「我々は、動きません。三原則の通り、国の為に動く。
今の戦は、国を乱す戦です。帝の判断が国を誤らせている。
だから、動かず、見続けます。東海道の報告は、続けてください。
兵の進みと、京の対応を、一段深く見ます。影の者(伍)。」
影の者(伍):「承知しました。東海道の橋と宿の様子を、引き続き見てきます。」
評定はそれで終わった。五羽は順に間を出ていった。
倭は最後に残り、報告の紙に東国の兵の数の申告の列を書き込んだ。
兵の数は、各宿ごとに集まり、馬場から西へ向かう兵の列は、日ごとに長くなっていた。
【場面⑤】 同じ日の夜 八咫烏の社・十文字 倭の詰所
夜。詰所の窓には雨戸が嵌められ、机の上の燈明が報告の紙を照らしていた。
倭は、京の報告と東国の報告を並べ、宣旨の写しが東の街道へ出た日付と
泰時の十八騎が鎌倉を出た日付を、紙の上に並べて書いた。
宣旨の使者が京を出たのは、泰時の進発より先だった。
だが兵の動きは、鎌倉の申告の網が先に動き
東海道の宿を順に押さえながら西へ向かっていた。
十文字 倭:「文は、読まれても動かなかった。
次は、我々の読みと、東国の動きの差を、読み続ける。」
入口で二度、ノックの音がした。影の者(七)だった。
影の者(七):「京の追加の報告です。宣旨の話は京を走り
院の側に付く武士は増えています。
ですが、東国からの返事は、まだ京に届いていません。」
十文字 倭:「そこに置いておいてください。」
倭は報告に目を通した。
京の夕に宣旨の写しを携えた使者が東の街道へ出たこと
問屋の前には馬が集まり、京を出る荷が増えたこと。
その報告の向こうでは、東国の兵は、既に西へ向かい始めていた。
京の見えない内に、兵は街道を西へ進む。
倭は報告の紙を机に置き、窓の外の山の暗さを見た。
山の向こうの京では、宣旨の話が走り、街道の宿では
兵の数が順に置かれていく。
季節の変わり目の風が、詰所のすき間から入る度に
燈明の火が揺れて、壁に下げた報告の紙に影を動かしていた。
参考資料
・『吾妻鏡』承久三年五月条(幕府側の記録。十三世紀後半に成立)。
・『承久記』(乱の経過を記す軍記。室町時代




