第六話 朝廷の会議
寛平六年九月下旬、平安京・大内裏。宇多天皇の命により、遣唐使の進止を巡る公卿の朝議が開かれる。継続派の公卿は前例と名誉と異国との窓口を、停止派は唐の内乱と海路の険しさを述べ、議は二つの言が並んだまま動かない。道真は上表文の提出者として議に加わり、事実を述べるのみだ。藤原時平は均衡役として議を収め、帝の裁を待つことになる。
登場人物
宇多天皇/菅原道真(参議・遣唐大使)/藤原時平(中納言)/
公卿A・公卿B/文官(太政官の実務官人)
【場面①】 寛平六年九月下旬 平安京・大内裏・太政官詰所
太政官の詰所の広間に、公卿たちが着座していた。
広間の南は障子に隔てられ、その外は太政官の庭だ。
庭の木々は秋の色に変わり、障子の紙に薄い影を落としている。
広間の床には畳が敷かれ、秋の午前の光が畳の上に斜めに入っている。
着座した公卿は九人だ。上座には、中納言の藤原時平が座っている。
時平は今年二十四だ。
藤原時平:「参議菅原朝臣道真の上表文に基づき、遣唐使の進止を諮る。
まず、継続を言う者から述べよ」
公卿Aが口を開いた。年配の公卿で、唐との関係を長く司ってきた家の出身だ。
公卿A:「遣唐使は、先代までの帝が守ってきた制度だ。
制度は二百年を超えて続いてきた。二百年を超えて続いた制度を
一代で止めることは、前例を絶つことだ。前例を絶てば、後の世の者が
同じ判断を繰り返す。止まった制度の再開は簡単ではない」
藤原時平:「続けて」
公卿A:「唐との正式な関係は、書と僧と品だけでは支えられない。
正式な関係は、正式な使だけが支える。
使を止めれば、唐との道は、商人の道だけになる。
国の道を、商人に委ねることになる。それは、国の姿ではない」
藤原時平:「次に、停止を言う者から述べよ」
公卿Bが口を開いた。
公卿B:「唐は今、乱れている。都は焼け、関所は増え、官の道は止まっている。
乱れた国への使は、書を求める使ではない。命を賭ける使だ。
先年の渡航では、船が沖で沈み、水手の多くが戻らなかった。
海は、ずっと変わってない」
藤原時平:「実数についてはどうか」
公卿B:「上表文の写しに数値がございます。
船を失った渡航が十一通。帰らなかった人数。
船四隻の造船と補修に要した米と銭。数値は事実です。
数値が示す損害は、国が負う損害です。
国の損害を、書を求める名目で負い続けることは、国の為ではありません」
公卿A:「その数字の出所はございますか」
公卿B:「文の行の端に出所がございます。
大宰府の台帳。兵部省の記録。難波の積出しの記録。京の市の商いの値。
出所は四つでございます」
公卿A:「その数字は、誰が集めたのですか」
公卿B:「文書には、集めた者の名はございません。出所だけがございます」
公卿A:「誰が集めたかわからないものを、裁に使えるのか」
公卿B:「数字そのものは、台帳の記録から出ています。
名がなくても、出所が確かなら、数字は事実です」
【場面②】 同日 太政官詰所
議は午後まで続いた。継続派の公卿は、前例と名誉と窓口を述べた。
停止派の公卿は、唐の内乱と海路の険しさと損害の数値を述べた。
議は午前と同じ位置で並び、どちらの言も議の上で変わらなかった。
藤原時平:「菅原道真。上表文の提出者として、述べよ」
菅原道真:「私の文書は、意見を述べた文ではありません。
事実を並べた文です。唐の内乱は事実であり、海路の険しさも事実
船と人の損害の数値も事実です。事実は、事実です。
文書は事実を並べるだけで、止めるか続けるかは言っていません。
判断は、この議と、帝の裁に委ねます」
藤原時平:「文の出所は、四か所でよいか」
菅原道真:「四か所です。いずれも、確かな出所です」
藤原時平:「付け加えて述べることはないか」
菅原道真:「付け加えて、私から述べます。
使に任じられた者として、使の内実を知っています。
随員の選定には、今年、志願の数値が足りません。
先年は百人を超えた志願が、今年は五十に届きません。
任官の朝に列した随員の顔には、海を見る目がありました。
だが、志願しない学生の顔には、海を恐れる目がありました。
使は、志願する者の数字で成ります。志願が足りない使は、名目だけの使です」
公卿A:「志願の数は、事実ですか」
菅原道真:「太政官の記録にもある記録で事実です」
公卿A:「任官の朝に、私も列しておりました。
随員の声には、張りがありました。
志願しない学生の顔は、私は見ていません」
菅原道真:「文章院の名簿に、数値として残っています」
公卿B:「志願の数値は、どの年と比べた数値ですか」
菅原道真:「先年と比べた数値です。その前の年も、記録には残っています」
公卿A:「先年より前は、志願は足りていましたか」
菅原道真:「足りていました。足りなくなったのは、この二年です」
藤原時平:「二年の差は、何を示す」
公卿A:「学生が、航海を恐れる、ということか」
菅原道真:「数字は、恐れを示しません。
数字は、足りなくなったことだけを示します。
恐れるかどうかは、顔を見た者が量るものです」
藤原時平:「顔は、数字にはならない」
菅原道真:「そうですね。だからそういう様子を書かず、数字だけを並べます」
藤原時平:「文書は、帝の御許へ既に届いている」
公卿A:「数値の文書も、届いていると聞いています」
藤原時平:「届いている。帝は、数値を見た上で
今日の議の要約を見られる。裁は、その後だ」
藤原時平:「志願の数値は、太政官の記録にもある。数値は、事実だ」
広間は静かになった。公卿たちは、上表文の写しを見ていた。
藤原時平:「議は、ここで止める。継続と停止の言は
議の上で並んだままだ。このままでは、裁は下らない。
文書の数値と事実は、帝の御許へそのまま報告する。
裁は、帝が下す。帝の御許へは、私から文書の写しと
今日の会議の要約を報告する」
公卿A:「裁は、いつ頃になりますでしょうか」
藤原時平:「帝がいつ下されるかは、私にも分からない。
数値が帝の目に届いている以上、裁は早いであろう」
公卿たちは順に立ち、広間から退いていった。
道真は最後に立ち、上表文の写しを卓に残した。
午後の光が畳の上で斜めに移り、卓の上の文の三紙を等しく照らしている。
道真は広間を出て、回廊を南へ歩いた。
回廊の床は西日を受け、板の面が赤い色に染まっている。
【場面③】 同日夕刻 平安京・太政官詰所の外廊
夕刻、時平は太政官詰所の外廊に立っていた。
廊の外は太政官の庭で、庭の木々は秋の色に変わり
夕方の光が庭の砂の上に赤い色を落としている。
時平の傍らには、文官Aが立っている。
藤原時平:「文書の写しと、議の要約は、既に準備ができているか」
文官A:「できています。帝の御許へは、時平様がお運びになると承っています」
藤原時平:「今日の議は、継続の言と停止の言が並んだまま止まった。
並んだままの議を、帝はどう受けられるか」
文官A:「帝は、数値の文書を既にご覧になっています。
数値の文書は、議の前に帝の御許に届いています」
藤原時平:「数値が先か、文が先か。帝の御許には、数値が先に届いている。
数値を見た帝が、議の要約を見る。
数値と議が同じ事実を言えば、帝の裁は揺れない」
文官A:「数値は事実でございます。
その数値が損害かどうかは、見る者の判断でございます」
藤原時平:「そうだ。帝が量られる。我々は、帝が量るための材料を並べるまでだ」
時平は庭の夕方の光を見た。
藤原時平:「議は、継続の言が勝っていた。
前例と名誉は、議の場では強い。
だが、数値は、議の場の外にあった。
数値は、事実として議の隣に並んだ。
帝は、その数値をどう読まれるか」
文官A:「文の写しの最後の行に、参議のお名前がございます」
藤原時平:「名を残した文書だ。遣唐大使に任じられた者が
自ら使の進止を問う文だ。文書は、帝の御許に先に届いた数値と
今日の議の要約と、同じ事実を表す。数値と文と議が
同じ事実を証明する。三つが同じ事実を言えば、帝の裁は、事実に沿って下る」
時平は廊を歩き始めた。
文官Aは文の写しと議の要約を抱え、時平の後ろに付いた。
廊の先は帝の御許の御所であり、夕方の光が廊の床を赤く照らしている。
廊の先に、帝の御所の灯りが既に灯されていた。
その灯りが夕方の赤い光の中に、点々と並んで見えている。
文官A:「灯りが、帝の御許まで続いています。今
日の議の要約は、その内で開かれます。
数値の文書と、文の写しと、要約の三つが、同じ机の上に並ぶことになります。
三つの文が同じ事実を言えば、帝の裁は、その事実に沿って下ります。
我々が並べた材料は、今夜、帝の御許で揃います」
二人は廊を歩き続けた。
西日が床の赤い色を深くし、廊の柱の影が一本ずつ床の上に伸びていった。
帝の御所の灯りは、廊の先で点々と並び、
夕方の光の中で点々と明るさを増していた。
二人の足音は、廊の上で一定の間隔で響いていた。
参考資料
『日本三代実録』『新日本古典文学大系』岩波書店、一九九一年
藤家礼之助『日中交流二千年』吉川弘文館、一九八八年




