第七話 裁可
平六年十月、平安京。宇多天皇は数値の文書と朝議の要約を受け、遣唐使の派遣停止の裁可を下す。随員の任官は解かれ、船は海に出ない。烏たちは節目を見届ける。場面は現代(2026年)に移り、四季景信が894年の決断を語る。決めたことは、時代が変わっても中止しない。894年の帝の決断を讃え、決められない現代を憂う。
登場人物
宇多天皇/菅原道真(参議・遣唐大使)/藤原時平(中納言)/四季公衡(八咫彦・宗家)/鷲尾峰依(図の烏)/四季景信(当代の八咫彦)/斗真(当代の数の烏)/文官(太政官の実務官人)
【場面①】 寛平六年十月 平安京・内裏の御堂
内裏の御堂に、宇多天皇は座っていた。
机の上には、文の写しと、朝議の要約と、数値の文書が三つ、並んで置かれている。
御堂の障子は片側だけ開けられ、十月の朝の光が畳の上に斜めに入っている。
宇多天皇:「この三通の文書は、同じ内容をいっているのか」
藤原時平:「数字と文書と議の内容は、同じ事を言っています。
数値は事実であり、文は事実を並べ、議はその事実の前で議論されました」
宇多天皇:「文書にある、帰らなかった船の行は」
藤原時平:「空白のままでございます。数字が、どこにも書かれていません」
宇多天皇:「この空白の行は、船を出すたびに続く。
船を出さなければ、空白の行もなくなるか・・・。藤原朝臣。今日、裁を下す」
藤原時平:「御意」
宇多天皇:「遣唐使の派遣は、停止する。随員の任官は解く。
水手の徴集は止める。船は、難波に留め置く」
藤原時平:「御意。裁は、今日の内に宣旨として太政官へ伝えます」
宇多天皇:『朕は、決める前に材料を求めた。
数を集めさせる勅を、内々に出した。
決断のために力を求めたのは、あれが初めてだ。
数値は、事実として朕に届けられた』
藤原時平:「前例を絶つ不安は誰もが抱きます。
だが、数字の前では、誰しも納得せざるを得ません。」
宇多天皇:「前例は、守るものではない。
続ける意味があれば続け、なければ止める。
止めることを恐れて、損害を負い続けることは、国の為ではない。
今日の裁は、数字が示した。朕は、数字に沿って裁を下したまでだ」
藤原時平:「御意。使に任じられた者には、どうお伝えしますか」
宇多天皇:「この文書は、帝の許に残す必要はあるか」
藤原時平:「残す旨は、決まっておりません」
宇多天皇:「では残すとしよう。数字は、朕の裁の根拠だ。根拠は、残さねばならぬ」
藤原時平:「御意。数字の文書は、太政官の棚へ納めます」
宇多天皇:「随員の任官は、今日解く。任じられた者への伝えは、穏やかに伝えよ」
藤原時平:「穏やかに、承ります。裁は、帝の御判断そのままでございますか」
宇多天皇:「そのままだ。数字が示したまま、朕が下した」
宇多天皇:「朕の言葉を伝えよ。朕は、上表文の事実を信じた。文書を書いた者を責めない」
時平は頭を下げ、御堂を出ていった。
帝は一人、御堂の畳の上の光を見ていた。
光は朝の内から移り始め、畳の上の影がゆっくりと動いていた。
【場面②】 同日 平安京・太政官詰所
宣旨は、その日の内に太政官へ伝えられた。
遣唐使の派遣停止。随員の任官解除。水手の徴集停止。船の留め置き。
四つの条が、詰所の広間で読み上げられた。
文官:「大使殿。裁が下りました。遣唐使の派遣は、停止でございます。
随員の任官は、今日で解かれます」
菅原道真:「分かった」
庭の木々は秋の色に変わり、午後の光が砂の上に影を落としている。
文官:「大使殿は、遣唐大使に任じられながら、自ら停止を進言されました。
後の世は、このことをどう書くか、私には分かりません」
菅原道真:「文書を届ける者の判断だ。私は、文書を書いただけだ。
文書は事実を並べ、事実は裁に用いられた。ただそれだけのことだ」
文官:「遣唐使は、この年を最後に派遣されないのでしょうか」
菅原道真:「それはわからない。しかし、唐の書は船を変えて運ばれてくる。
商船が運び、僧が運ぶ。道は変わっても、書は止まらない。
書が止まらぬ限り、道は続く」
文官:「御意」
文官は頭を下げ、廊を去っていった。
道真は一人、庭の砂の上の影を見ていた。
影は午後の光の中で長く、木々の先まで伸びている。
遣唐使は、この年を最後に派遣されない。
道真はそのことを、庭の影を見ながら受け止めていた。
【場面③】 翌日の夜 熊野三山の奥・八咫烏の社
翌日の夜、熊野三山の奥、人里離れた山間に建つ小さな社の奥の間に
四季公衡と鷲尾峰依が座っていた。簾の内に灯りの火が一つ、机の上に
帝の裁の伝が書いた紙が一枚、置いてある。その傍らに、墨色の符が一枚、置いてある。
四季公衡:「数字は、帝の目に届いた。数字は、裁の根拠になった。
我々の意思は、数字に含まれていなかった」
鷲尾峰依:「唐を写す国から、この国の形を作る国へ。
数字は、その節目の数字でございました」
四季公衡:「節目は、数字では動かない。数字の上で、判断が下るだけだ。
帝は、決める前に数字を求められた。その形の勅は、初めてだった」
鷲尾峰依:「初めての勅が、初めての裁を支えました」
四季公衡:「数字は、無名の文書の形で運ばれ、帝の目に届き、裁の下に置かれた。
歴史は、上表文だけを書く。それでいい」
鷲尾峰依:「我らの任は名を残さない。ただ事実だけがある」
四季公衡:「そうだ。遣唐使は、この年を最後に派遣されないかもしれない。
前例は、今日で絶えた。前例を絶った裁は、後世まで語り継がれる。
語り継がれる裁の中に、我々の名はない」
鷲尾峰依:「次の節目にはまた、烏は飛びますか」
四季公衡:「飛ぶ。だが名を残すのは、表の家の者だ。
烏は、歴史にも文書にも残らない。それが八咫烏の定めだ」
公衡は立ち上がり、簾の外の暗を見た。
暗の中に、秋の虫の声だけが聞こえている。
灯りの火が揺れ、簾の内の影が動いた。
【場面④】 2026年 熊野三山の奥・八咫烏の社
社の奥の間の窓の外は、十月の雨だ。
四季景信は机の前の椅子に座り、眼鏡を外して、目を擦っていた。
机の上には、白紙が一枚と、筆が一本、置いてある。
白紙の傍らに、墨色の符が一枚、置いてある。
壁には、歴代の宗家の位牌が並んでおり、位牌の前には香が一本
灯されている。景信は今年六十二だ。
斗真:「遣唐使停止の話は終わりですか」
四季景信:「そうだ。894年の裁だ。今年は、丁度、千百三十二年目だ」
斗真:「千百三十二年、ですね」
四季景信:「斗真。この話で、おまえに伝えたいことがある。
894年、帝は決める前に、材料を集めさせる勅を出された。
決断のために力を求められたのは、あれが初めてだった。
数字は、無名の文書の形で帝の目に届いた。
帝は数字に沿って裁を下された」
斗真:「遣唐使は、あの年を最後に、一度も再開されていないですね」
四季景信:「一度も。時代は変わった。環境は変わった。
唐は滅び、世の中は変わった。それが、あの年の裁だ」
景信は窓の外の雨を見た。雨は窓の面を流れ、外の闇を縦に長く滲ませている。
四季景信:「今の世の中は、どうなっている。
数字を求めても自分の都合のいいように数字を並べる。
何の意図もなくただ数字を並べることはしない。
結論ありきの数字だけが並ぶ」
斗真:「国会の在り方と似ていると思いますね」
四季景信:「違う。似ているのは形だけだ。
決めないことを決めた政治と、決めるために数字をそろえる政治は、違う。
894年の帝は、決める前に数字を求め、数字が揃えば決められた。
中止の判断をあの年の帝ほど明確に下した者はいない」
斗真:「現在、決めたことは時代や環境が変わっても、中止しないですね」
四季景信:「そうだ。あの年の決断を、私は大いに讃えたい。
そして、中止を決められない今の世の中を、大いに憂う」
景信は眼鏡を掛け直し、机の白紙に指を置いた。白紙には、何も書かれていない。
斗真:「空白の行は、今も続いています」
四季景信:「続いている。船を出せば、必ずこの行が続く。
数字の書かれていない行が、最も大きな損害を示す行だ。
894年の帝は、その損害を確かめられた。
今の世の中は、その損害を確かめる前に、議論だけが積み上がる。
積み上がった議論は、裁にならない」
斗真:「千年経っても、数字は数字ですね」
四季景信:「数字を見て判断を下す者がいない限り、烏は飛び続ける。」
雨は続いている。社の奥の間の灯りの下で
白紙が机に置かれたまま、894年の裁が
2026年の灯りの下で語り終えられた。
考資料
藤家礼之助『日中交流二千年』吉川弘文館、一九八八年
『菅家文草』『新日本古典文学大系』岩波書店、一九八六年




