第三話 勅
寛平六年九月初旬、平安京。宇多天皇は道真の文に触れ、遣唐使の進止を公卿に議らせるかどうかで悩む。継続派の言い分にも理由がある。帝は決断のために力を求め、判断材料を集めさせる初めての勅を内々に下す。宗家・四季公衡は五羽を評定に集め、烏は第三者の立場で数値を集めることを定める。八咫烏の意思は反映させない。
登場人物
宇多天皇/四季公衡(八咫彦・宗家)/十文字穂積(数の烏)/鷲尾峰依(図の烏)/諏訪清忠(刀の烏)/瀬戸成房(蔵の烏)/八重樫文継(言の烏)/内侍A(内裏の内侍)/影の者・壱(子安家の所属)
【場面①】 寛平六年九月初旬 平安京・大内裏・内裏の御堂
内裏の御堂の奥に、宇多天皇は座っていた。
帝は今年二十八だ。御堂の障子は片側だけ開けられ、
秋の午後の光が畳の上に斜めに入っている。
帝の前に、机が置かれ、その上に文が一通と、
数値の文書が一通、並んでいる。
宇多天皇:「数値の文書は、差出人の欄が空欄か」
内侍A:「左様でございます。中には船と米の数値が
項目ごとに並んでいます」
帝は文を開いたまま、しばらく動かなかった。
宇多天皇:「遣唐使を止める。その判断には、朕も賛成だ。
唐は乱れ、海は険しく、数値の文書が示す損害は大きい」
内侍:「公卿の中には、継続を言う者もいます」
宇多天皇:「唐との正式な関係を切ることは、前例を絶つことだ。
異国との窓口を閉じれば、開け直せるかどうかは分からない。
継続派の言うことにも、一理ある」
帝は数値の文書を開いた。
船四隻。水手百八十人。米は千八百石。帰らなかった船の行は
空白のままだ。
宇多天皇:「この空白の行は、何だ」
内侍:「帰らなかった船の行でございます。
数値が、どこにも書かれていません」
宇多天皇:「継続派の公卿は、この数値を知っているか」
内侍A:「知らない者ばかりでございます。
数値を知らないまま、前例と名誉で船を出すことを言っています」
宇多天皇:「停止派は、数値を持っているか」
内侍A:「唐の乱れを口にしますが、数値は持っていません」
宇多天皇:「そうか、少し一人にしてくれるか」
内侍A:「御意」
宇多天皇:『どちらの言い分も、自分の側の事実だけを述べている。
遣唐使の進止を、公卿に議論させるかどうか、まだ決められない。
決める前に、見えていない数値が要る。唐の内乱、海路の険しさ
船と人の損害、船を出さない場合の損と得。これらを、集めさせる。
そのための勅を出すか』
帝は窓の外を見た。
庭の木々は秋の色に変わり始め、風が畳の上の光を動かしている。
宇多天皇:『朕が決めた後に出す勅ではない。
決める前に、材料を集めさせるための勅だ。
これまでにない形の勅だな。』
帝は八咫烏への勅を発したのちしばらく数値の文書を開き
空白の行を再び押さえた。御堂の外では、日が落ちて、
回廊に灯りが灯される足音が順に近づいてきた。
帝は数値の文書を閉じ、机の引き出しに収めた。
宇多天皇:『しっかり数値が揃うまでは裁を下さないでおこう』
宇多天皇:「皆には考えるゆえしばし待てと伝えよ」
内侍:「御意」
【場面②】 翌日の夜 熊野三山の奥・八咫烏の社
翌日の夜、熊野三山の奥
人里離れた山間に建つ小さな社の奥の間に
四季公衡は座っていた。
公衡は八咫彦と呼ばれる八咫烏の頭領で宗家にあたる。
今年七十だ。奥の間は三方を簾で囲まれ
中央に灯りの火が一つ灯されている。
公衡の前に、五人の者が座っている。
四季公衡:「昨日、帝より勅の伝が下った。
遣唐使の停止か継続か。帝はまだ決めておられない。
決める前の材料を集めよとのお言葉だ」
十文字穂積:「今回の勅は異例な勅ですね」
四季公衡:「いつもは帝がお決めになったことが勅で届き
我らの評定を経て動くのだが、今回は判断する材料が
欲しいそうだ。よほど悩んでおられるに違いない」
鷲尾峰依:「材料とは、どの範囲ですか」
四季公衡:「唐の内乱、海路の険しさ、船と人の損害、
船を出さない場合の損と得。この四つを集める。
紙には、帝の言葉が書き取ってある。
書き取ったのは伝令を受けた子安家の者だ。」
鷲尾峰依:「公卿の朝議は、前例と名誉で動いています。
数値を持ち込めば、議の形は変わります」
四季公衡:「変わるであろう。だが、数値の集め方を決める。
大宰府の台帳、兵部省の記録、難波の積出しの記録、
唐の商船の伝聞。数値は出所ごとに分け、事実だけを並べる」
十文字穂積:「我々の意思は、数値に反映させないのですか」
四季公衡:「反映させない。帝の決断を支えるための数値だ。
停止を勧めるための数値ではない。
継続を勧める数値でもない。
第三者の立場で集める。これが今回の定めだ」
十文字穂積:「損害の数値は、過去の渡航の記録から出します。
船を失った渡航の件数、帰らなかった人数。
いずれも記録にあるものだけを並べます」
瀬戸成房:「大宰府の数値は、既にこの手元にあります。
船四隻、水手百八十人、米千八百石。
先月、京へ送った数値です」
四季公衡:「その数値を基準に使え。他の数値は、その周りに並べる」
十文字穂積:「基準とは、項目の順ですか」
四季公衡:「順だ。船。人。米。損害。唐の内乱。
順は、帝が読む順に並べる」
鷲尾峰依:「帝は、数値の文書を既にご覧になっています」
四季公衡:「ご覧になっている。だが、数値は足りていない。
四つのうち、唐の内乱と、船を出さない場合の損と得が、
まだ揃っていない」
八重樫文継:「唐の内乱の様子は、商船と寺の伝聞から集まります。
香の商人と僧に当たってみます」
諏訪清忠は終始、口を閉ざしていた。公衡は最後に諏訪を見た。
四季公衡:「刀は今回出番はないな。今回の集めは、数値の集めだ。」
諏訪清忠:「影の者の数値は、評定に掛けるか」
四季公衡:「掛ける。影の者が確かめた数値も、
事実として並べる。烏の評定は、数値をまとめる場だ。
数値が揃えば、まとめるだけだ」
諏訪清忠:「分かった。何もなければ、動かない」
四季公衡:「各々、分かった家の数値を集めよ。
数値が揃い次第、ここに持ち寄る。」
五羽の烏は頭を下げ、順に奥の間を出ていった。
灯りの火が揺れ、簾の内の光が揺れて、また静かになった。
公衡は一人、机の上の帝の言葉の紙を見ていた。
名は書かず、日だけが書いてある。
公衡は紙を閉じ、簾の内で静かに座っていた。
【場面③】 九月八日 熊野三山の奥・八咫烏の社
九月八日の夜、
十文字穂積の座る机の上には、各所から集まった数値の写しが九通、
重ねて置かれている。部屋の隅には、影の者・壱が座り
写しを取っている。灯りの火は二本で
机の上の九通の写しを等しく照らしている。
机の傍らに、藍色の符が一枚、置いてある。
十文字穂積:「兵部省の記録は、ここまでか」
影の者・壱:「ここまでです。船を失った渡航の数値は
過去の記録から十一通確かめました」
十文字穂積:「帰らなかった人の合計は」
影の者・壱:「記録に残っている分だけでは三十七人。
名簿から消えて、確かめられなかった者は、それ以上います」
十文字穂積:「その数値は、どうする」
影の者・壱:「並べません。記録にあるものだけを
事実として並べます。確かめられないものは
確かめられない事実として、書き添えるだけです」
十文字穂積:「それが正しい。項目は十五になった。
船を失った渡航の件数。帰らなかった人数。
船の造船と補修に要した米と銭。
水手の徴集で耕作が遅れた田の面積。
唐の内乱の伝聞の件数」
影の者・壱:「唐の都の伝聞は、どう並べます」
十文字穂積:「話は数値ではない。数値には入れない。
事実として、行に並べるだけだ。長安の都の大半が焼けた話。
官の道が止まり、学者が都を離れた話。
話は五つあり、互いに出所は違うが、言うところは同じだ」
影の者・壱:「出所は、五つとも添えます」
十文字穂積:「添えよ。事実だけが並ぶと、
船を出す場合の損害と、船を出さない場合の損害を
帝が数値を見比べて、損害を比べる。それが今回の定めだ」
穂積は紙を閉じ、九通の写しとともに木箱に収めた。
箱には鍵を掛け、鍵は懐に収めた。
十文字穂積:「壱。明日の夜、京へ発て。この箱を、文を書く者の許へ運べ」
影の者・壱:「はい。数値が揃いました。あとは、京へ運ぶだけです」
壱は頭を下げた。穂積は灯りの火を見た。
火は静かに燃え、机の上の影を動かさない。
参考資料
藤家礼之助『日中交流二千年』吉川弘文館、一九八八年
『日本三代実録』『新日本古典文学大系』岩波書店、一九九一年




