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導きの火 ー千年を語り継ぐ八咫烏  作者: 忍びでござる
第五章 遣唐使停止 ー時代の転換ー
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第一話 空白の行

寛平六年七月、大宰府。遣唐使の費用と物資を調べる蔵の烏・瀬戸成房は、大宰府で台帳の写しを開く。遣唐使一回に要する費用と、船の実態。影の者・壱と弐が、大宰府の役人、唐の品を扱う商人、観世音寺の僧から聞き取った言葉が、社に届く。商船の往来を知った成房は、国家使節として船を出す意味があるのかどうか、疑いを持つ。。

登場人物

瀬戸成房(蔵の烏)/影の者・壱、影の者・弐(蔵の烏の下、未森家の所属)/役人A(大宰府の実務者。影の者・壱が応対する)/商人A(唐の品を扱う商人。影の者・弐が応対する)/僧A(観世音寺の僧。影の者・弐が応対する)


 第一話 空白の行


【場面①】 寛平六年七月 大宰府

大宰府の西、松の林の奥に小さな社がある。

檜の板葺きの屋根、礎石の上の細い柱、扉は板一枚。

蔵の烏の瀬戸成房は、社の内に座っていた。

卓の上には、大宰府が保管する台帳の写しが六冊並んでいる。

台帳は、官司が保管する帳簿だ。

窓は南に開け放たれ、西の海へ抜ける風が入っている。

梅雨が明けて間もない、大宰府の七月の空気だ。

社の内には蝋燭が二本ともされ、火が風に揺れて、卓の上の頁に影を落としている。


瀬戸成房:「壱。寛平元年の造船の記録を持ってきてください」

影の者・壱:「はい」


壮年の男が立ち上がった。男は腰に符を下げている。

符は檜の薄木札に漆を施したもの。

地色は蔵の烏の山吹色、中央に黒い一枚の羽を置く。

蔵の烏の下に属する影の者は、皆この色の符を持つ。

符には、壱の番号が刻んである。

成房は蔵の烏だ。財と物流を司る。


台帳の写しは、影の者が官司から受け取る。

成房は宮司の前に出ない。

壱が木箱を抱えて戻ってきた。箱の中には巻子が三巻入っている。


影の者・壱:「寛平元年の造船と出航の記録です。

  大宰府の文書庫から、写しを取ってまいりました」

瀬戸成房:「卓の左に置いてください」


壱は箱を置き、社の入口の板敷きに下がった。

成房は巻子を開き、数値の書かれた行に朱で丸を付けていく。


瀬戸成房:「材木の切り出し、桶の個数、帆布の反数

  水手に配る米の石高。数字は、頁の行に沿って並んでいます」

影の者・壱:「朱の丸が、頁の上で増えていきます」

瀬戸成房:「役人は、何と申しました」

影の者・壱:「水手百八十人の徴集は、筑紫の諸国で行うとのことです。

  米は各国の税から引き、船の食料は調達します。

  兵部省と大宰府の連名の牒を以て徴します。

  牒は、来月の初めに出ます」


牒は、上位の官司が下位の官司へ出す文書だ。


瀬戸成房:「徴集の人足は、代わりの労役で埋まりますか」

影の者・壱:「埋まりません。船に上がる者は

  田の草取りの時期に国府へ集められます。

  その年の稲は手遅れになります。国司は毎回、嘆くそうです」

瀬戸成房:「船が戻らなかった年、亡くなった水手の家に

  弔いの品(死者の家に贈る米や布と銭)は下りましたか」

影の者・壱:「下りません。名簿から名が消えるだけです。

  見舞いの米も、弔慰の銭も、下りた例はありません」

瀬戸成房:「水手の家には、何の知らせも行かないのですか」

影の者・壱:「国府から村の長へ、消えた旨だけが伝わります。

  理由は、誰も言いません」

瀬戸成房:「今の言葉を、全部書き取っておいてください。

  水手の徴集、稲の手遅れ、名簿の名消え。

  三つとも、報告の行に加えます」

影の者・壱:「はい。懐の紙に、書き取っておきます」

瀬戸成房:「兵部省の記録にある、船を失った渡航は、いくつありますか」

影の者・壱:「過去の記録で、十一通です。

  帰らなかった人の合計は、記録に残っている分だけでは三十七人」

瀬戸成房:「その数値も、京へ運ぶ文書に入れます」

影の者・壱:「三通の写しに、全部入れておきます」


成房は確かめ終わった巻子を閉じ、別の紙に合計を書いた。


瀬戸成房:「遣唐使一回の費用は、これで出そろいました。

  船四隻の造船と補修。水手百八十人の米。

  随員の食と衣。港の荷下ろしの人足。項目は十一あります」

影の者・壱:「この数値の写しを、三通作っておきます」

瀬戸成房:「頼みます。」

壱は卓の傍らに座り、写しを取り始めた。


【場面②】 寛平六年七月 大宰府


夕刻、影の者・弐が社の庭に入ってきた。

弐の衣の袖から、香の匂いがした。

西の空が朱に染まり、松の枝の間からその色が見える。

弐は戸口の板敷きに膝を突いた。


瀬戸成房:「観世音寺は、どうでした」

影の者・弐:「南大門の前に、唐の品を積んだ車が三台止まっておりました。

  笹の葉で覆った箱の上に、藁の縄が掛けてあります。

  荷下ろしの人足が四人、車の脇に待っておりました」

瀬戸成房:「商人は、何と言いました」

影の者・弐:「唐の港では、商人は皆、品の数量を取る木札を腰に刺すそうです。

  明州と揚州から、今年の春に着いた船は二隻。香、染料、紙、筆。

  いずれも京で買手がつく品だとのことです」

瀬戸成房:「香の種類は何ですか」

影の者・弐:「沉香が三貫目、乳香が五貫目。寺の注文だそうです」

瀬戸成房:「官の船を使わずに、商船だけでこれだけの品が入るのですか」

影の者・弐:「入ると申しておりました。十年前より船の隻数は増えています。

  唐の港は乱れていますが、商人は商いのために動きます」

瀬戸成房:「その商船は、一回に何隻で唐を出るのですか」

影の者・弐:「一隻か二隻だそうです。積む品の分量で決まります。

  官の船ほどの大船は、商人は使いません」

瀬戸成房:「大船を使わずに、海を渡るのですか」

影の者・弐:「渡ると申しておりました。沈む船もありますが、商人は、それでも動くそうです」

瀬戸成房:「僧は、何と言いました」

影の者・弐:「唐の寺からこの一年に届いた書状は、十一通。

  いずれも民間の船で運ばれています。

  官の船が来ない五十年、途切れた年はないとのことです」

瀬戸成房:「書状の他に、唐の経巻や書は入っていますか」

影の者・弐:「春には新しく刷った経が百巻届きました。寺で確認しております」

瀬戸成房:「唐の都の様子は、書状に何と書いてありますか」

影の者・弐:「長安は乱れており、寺の塔が焼けたという書きもあります。

  学者が都を離れ、各地に散ったという書きもあります」

瀬戸成房:「商人の船の隻数は、年ごとにどう変わっていますか」

影の者・弐:「十年前より増えているそうです。

  港が乱れても、商人の船は減りません」

瀬戸成房:「その数値は、誰が確認していますか」

影の者・弐:「港の問屋が確認しております。

  官が確かめたものではありません」

瀬戸成房:「聞いたことを全部、書き取っておいてください。

  香の目方、船の隻数、書状の通数も」


弐は紙を差し出した。成房は庭の松の枝を見た。

西の空の朱が、梢の上で薄れていた。


【場面③】 寛平六年七月 大宰府


夜、成房は社の灯りの下で、日中に書いた数値を並べて見ていた。

遣唐使一回の費用。船四隻の造船と補修。水手百八十人の米。

随員の食。海に沈んだ場合の損害。項目ごとに数字が並んでいる。

頁の端には、渡航のたびの船の隻数と、戻った船の隻数が

年ごとに記されている。戻らなかった船の行には

墨が置かれたままで埋まっていない。


瀬戸成房:「壱。おまえは船に乗ったことがありますか」

影の者・壱:「ありません。ただ、寛平元年に難波で積出しを見張りました。

  その時の船は四隻で、水手は百八十人ほどでした」

瀬戸成房:「海に出た船が無事に戻る率は、台帳にどこまで書いてありますか」

影の者・壱:「渡航のたびに船を失った記録があります。

  帰路に船が途絶え、水手の多くが戻らなかった頁もございます」

瀬戸成房:「沈んだ船の分は、誰が誰に賠償しましたか」

影の者・壱:「頁には、朝廷が損害を計上したことだけしか書いてありません。

  賠償の言葉は見当たりません」

瀬戸成房:「この文書は、誰の目に届きますか」

影の者・壱:「文を書く者の許です。その先は、私どもは知りません」

瀬戸成房:「それでよいのです。数値は、帝の目に届く形まで運ばれます」


成房は窓の外を見た。海は暗く、波の音だけが聞こえる。

社の外の松の林は風で鳴り、遠くの政庁の方から更を知らせる

太鼓の音が聞こえた。音は海風に消え、波の音だけが聞こえた。

成房は筆を取り、紙の余白に三行書いた。


瀬戸成房:「船を出す場合の費用と損害。船を出さない場合の損害と得。

  商船の往来だけで維持できる文物の数量。三行とも、数値で埋める行です」

影の者・壱:「必要なのは、船でも米でもないのですか」

瀬戸成房:「判断に必要な値です。京の公卿は、船と米の数値を誰も知りません。

知らないまま、船を出すかどうかを決めます。これでは決まりません」


壱は何も言わず、写しの筆を進めた。

成房は今夜の数値を見直した。船四隻。水手百八十人。

米は千八百石。帰らなかった船の行は、頁に記されたままの空白だ。

空白の行が、最も大きな損害を示す行だと成房は思う。

数字がないのは、確かめる相手がもういないからだ。


瀬戸成房:「この数値を、平安京へ送る文書の形に整えます。

  数値は事実として並べます。船を出すか止めるかを

  数値の上で比べられる形にします」

影の者・壱:「文書の名前は、どうします」

瀬戸成房:「付けません。差出人の欄も、空欄のままにします。

  名を残さないのが定めです」


成房は一行書いては、朱で数値を確かめ、次の行に移った。

灯りの火が大きく揺れ、社の内の影が伸びて、また元に戻った。



参考資料

藤家礼之助『日中交流二千年』吉川弘文館、一九八八年

『日本三代実録』新訂増補国史大系、吉川弘文館、一九六六年

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