第七話 施行の年
【場面①】 大宝元年十二月末 藤原京・民部省
十二月の末、筑前の課税台帳が民部省に届いた。
荷物は三つ。紙の束はむしろで包まれ、むしろの外に国司の印が押してある。
影の者(壱)がむしろを解くと、乾いた紙の匂いが部屋に広がった。
外は雪で、庭の砂は白くなっている。
大録Aは立ったまま、届いた荷を見ていた。
影の者(壱):「筑前の分、そろいました。西海道は、あと二か国です」
大録A:「台帳を点検する。十文字の主、同じ机で見てくれ」
影の者(壱)は机の反対側に座り、台帳を一枚ずつ送った。
指で端から押さえる。里の名前、戸の数、口の数。
三つの里の数は、前の年と同じ形で並んでいる。
減った三十七人の欄には、二十六人分が「寺の田を耕す者」と書かれ
十一人分が「死亡」と書かれていた。
影の者(壱):「書き方が、もう変わっております」
影の者(壱)は紙を一枚、窓の光にかざした。
紙は薄く、向こうの雪の白が透ける。透けた所に、墨の濃い所と薄い所があった。
薄い所は、後から書き足した欄である。
影の者(壱):「足した者が、本文と同じ濃さで書いていれば、
後から足したとは分かりませんでした。急いで書き足したのです」
統真:「足した欄は、紙の端にあるか」
影の者(壱):「ございます。細い字で一行田の場所を書く
欄が足してあります。本文より小さい字でございます」
大録A:「誰が変えた」
影の者(壱):「筑前の郡家が、自分で変えたのではありません。
国司が、台帳を点検する時に欄を足したのです。
足した欄は、紙の端に小さく書いてあります」
大録Aは紙の端に目を寄せた。端の余白に、細い字で一行、
田の場所を書く欄が足してある。足した字は、本文より小さい。
大録A:「国司が、勝手に欄を足したことになる」
影の者(壱):「足さなければ、数が合いませんでした。
合わない台帳を出すより、欄を足して合う台帳を出した方が、責任は軽い」
大録A:「その判断を、誰が支えた」
影の者(壱):「支えた者はいません。国司が、郡から上がった
内容を見て決めたことです」
大録Aはしばらく黙り、それから筆を取った。
上申書の紙を取り、書き出しの一行を書いた。
書いたのは、筑前国から上がった台帳の様式に、田の場所を書く欄を加えること。
加える理由は、里の数と戸の数を同じ台帳で突き合わせるため。
筆の穂が紙に触れる音がした。
大録Aは一行ごとに間を置き、書いた行を指で押さえてから次を書いた。
大録A:「この上申書に、名を書くのは私だけだ」
影の者(壱):「それで構いません。私は、数の根拠を机の上に置いただけです」
根拠の紙は、筑前の郡家の台帳と、浜の倉の写しでございます。
どちらも、もともと国にある紙でございます」
【場面②】 大宝二年正月 藤原京・朝堂院の外
正月の朝、宮の外には人が集まっていた。
位の高い者が先に立ち、下の者が後に続く。
雪は上がったが、石畳は凍っていて、歩く者は足元を見て進んだ。
統真は群れの外側、松の陰に立っていた。
官職がないので、列に入る場所がない。景親は、その半歩後ろに立っていた。
景親:「上申書は、今日、奏されます」
統真:「通ります」
景親:「なぜ、そう言える」
統真:「数が合っているからです。
合っている数を退けるには、別の数が要ります。
別の数を作るには、もう一度数えなければなりません。
数え直せば、寺の田を耕す者が見つかります。
見つかれば、寺が困ります。寺が困る数を、誰も作りません」
景親:「通れば、台帳の書き方が変わる」
統真:「変わります。来年の戸籍作りは、新しい書き方で作られます。
筑前の三つの里の二十六人は、寺の者として書かれ
田の場所も一緒に書かれます。浮浪とは書かれません」
景親:「では、あの者たちは里へ戻るのか」
統真:「戻りません。戻さなくても、台帳に書かれます。
書かれれば、税も労役も、田のある場所で決まります。
寺の田を耕しながら、寺の者として書かれます」
景親は松の幹に手を当てた。幹は凍っていて、手のひらが張り付く冷たさだった。
景親:「私が筑前で数えた数は、どこにも残らない」
統真:「残りません。残ったのは、筑前の国司が紙の端に足した一行と
大録が書いた上申書です。どちらも、あなたの名はありません」
景親:「それでいい」
統真:「それでいい、では済みません。あなたが数えなければ
あの一行は足されませんでした。足されなければ、上申書は書かれませんでした」
景親:「誰も知らないならいいではないか」
統真:「誰も知りません。それが、我らの仕事です」
景親:「筑前へ数えに行ったのは、私ではありません。
我らの者です。私がしたのは、戻ってきた数を受け取ることだけでした」
統真:「受け取る者がいなければ、数えに行く者も出ません。
渡す先が決まっているから、数える者は紙を持ち帰らずに済みます」
【場面③】 大宝二年二月 八咫烏の社
二月に入り、氷が緩んだ。庭の池の縁が欠け、水が音を立てて流れた。
奥の座敷には五人が集まった。
火の器の灯は、この冬で一番明るい。
蓋は開け放され、五人の影が天井まで伸びている。
家の者は朝から溝を浚い、泥を掬ってむしろの上に置き
むしろごと庭の隅へ運んでいた。泥の中から木の葉と
小さな貝が二つ出てきた。この土地は、昔は海だったと聞いている。
清詞:「神祇官から、絹布の数が例年どおりになったと聞きました。
寺の分は、台帳に書かれたままで、絹布の数は変わっておりません」
昌秀:「難波の倉の台帳は、古い様式のものを三年分残しました。
新しい台帳と並べれば、里の数が出ます。出る限り、台帳は書き換えられません」
成忠:「刀は、一度も抜かなかった」
統真:「抜かなくて済みました。抜けば、この話は罪の話になり
郡司が替わりました。替われば、港の名も、道の名も、里の名も
次の郡司の覚えた名になりました」
成忠は刀の柄から手を離し、膝の上で組んだ。
刀は鞘に収まったままで、鞘の先が畳を少し押している。
景親:「私は筑前へ行きました。数えて、焼いて、帰りました。
紙は一枚も残っておりません」
統真:「残っていません。私の手元にも、写しはありません。
写したのは里の名前と数だけで、その紙も先月、焼きました」
清詞:「上申書は、大録の名で出ました。
神祇官の誰が受け取ったかも、書いておりません。
紙だけが残りました」
統真:「紙が残れば、後から読む者がいます。
読む者が、同じ数を必要とする時に、その紙を使います。
使う者が替わっても、数は同じです。
それが、我らが国に残せる唯一のものです」
五人はしばらく黙った。火の器の油が減り、芯が一度だけ大きく燃えた。
障子の外では、緩んだ氷がまた崩れる音がした。
統真:「法令が施行される年に、台帳を作れない国が出ませんでした。
出なければ、法令は使われます。
使われる限り、この国の者は、自分がどこに書かれているかを知ることができます。
知ることができれば、書かれていない者を、書かれた者として置き直せます」
景親:「来年は」
統真:「来年は、次の戸籍作りがあります。
六年ごとに、同じことが起きます。
起きるたびに、誰かが数えに行きます」
清詞:「誰が行くかは」
統真:「その時に決めます。」
八咫彦:「しばらくはその動きが必要になるだろう。
この大きな体制の確立には天皇陛下の威信がかかっております。
そういう意味でもしっかり機能するように見張るのも我らの仕事だ」
五人は立ち、それぞれ戸へ向かった。
統真は最後に残り、火の器の蓋を閉じた。
部屋が暗くなり、庭の水の音だけが聞こえた。
戸を閉めた後、統真は民部省から持ち帰った紙を一枚、火の器の上で焼いた。
書いてあったのは、三つの里の戸の数と、口の数。
名は書いていない。灰は器の底に落ち、油の表面に薄く浮いた。
統真は指で灰を押さえ、器の縁で拭った。
翌朝、器の油は新しいものに替わっていた。
翌朝、民部省の机の上には、筑前の台帳が三巻、元の位置に戻されていた。
どの巻にも、統真の名前はなかった。
その年の春、筑前国嶋郡から上がった戸籍の下書きには
三つの里の戸主の名前の隣に、田の場所が書かれていた。
寺の領地の中と外が、一行ずつ分けて書いてある。
書き方の欄は、前の年より一つ増えていた。
この話では「民部省」の戸籍と税務の話に焦点を絞って書いています。
中央 → 天皇と太政官 地方 → 国郡里管理
祭祀 → 神祇官 基盤 → 戸籍と計帳で把握
という体制が出来上がり
中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の8省で
役割分担をした。現在の礎を定めた本格的な律令制度です。
その中でも骨格となる「土地や税」「戸籍や土地」といった部分に焦点をあてて
執筆しました。




