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導きの火 ー千年を語り継ぐ八咫烏  作者: 忍びでござる
第四章 大宝律令  ー敗戦の起点 その参ー
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第四話 帰りの船

【場面①】 大宝元年十一月 筑前国那の津・浜


朝の浜は晴れていた。潮が引いて、砂の上に貝と木片が残っている。

影の者(壱)は倉の前に立ち、荷物をむしろの上に広げた。

墨、筆、紙十四枚、火打ち石、鉄の皿。

広げた荷物を、蔵人Aが一つずつ手に取って見た。

景親は倉から離れた桟橋の側に立っていた。荷には触れない。


蔵人A:「紙が減っております。来た時は二十枚でした」

影の者(壱):「六枚使いました。書いた紙は、ここにはありません」

蔵人A:「どこへ」

影の者(壱):「焼きました。灰は松の根元に埋めました」

蔵人Aは紙の束を置き、しばらく影の者(壱)の顔を見た。

浜の向こうで網を引く男たちの声がしている。

網は浜の半分ほどの長さで、引くたびに砂を擦る音がした。


蔵人A:「都の者は、たいてい写しを持って帰ります。

  焼いて帰る者は、初めてです」

影の者(壱):「写しを持って帰れば、写しが誰かの手に渡ります。

  渡れば、この浜の者が名を書かれます」

蔵人A:「名を書かれると、何が起きますか」

影の者(壱):「国が調査に来ます。調査に来れば

寺の田を耕している者も露見します。露見した者は、里へ戻されます」


蔵人Aは黙って、むしろの端を折った。折り目から砂が落ちた。

蔵人A:「あの三つの里の者は、戻ってきますか」

影の者(壱):「戻ります。ただし、戻り方が変わります。

  台帳に書かれたまま戻ります」

蔵人A:「書かれたまま、というのは」

影の者(壱):「寺の者であることも、一緒に書きます。

  二重に書かれた者は、消されません。

  消されなければ、浮浪とも書かれません」


蔵人Aはうなずいた。うなずいた後で、倉の戸を閉めに行った。

戸は重く、閉めるときに軋んだ。錠は下ろさなかった。

昼の間は開けておく約束になっている。

船は浜の桟橋に着いていた。

船頭Bが帆の綱を直している。

船は小さく、櫓が二本、船尾に付いている。

影の者(壱)は荷物を船に上げ、桟橋の板を踏んで乗った。

板は水を含み、踏むと沈んでから戻った。

景親は最後に乗り、船尾の側に座った。


船頭B:「難波まで五日を見ておいてください。

  風が東から出れば、四日で着きます」

影の者(壱):「水は積んでありますか」

船頭B:「樽が二つ。食料は、干した魚と粟です」

影の者(壱):「それで足ります」


船頭Bは樽の栓を抜き、水を一杯くれた。

水は冷たく、少し塩の味がした。

樽の水は積んだ日に汲んだもので、日が経つと塩気が立つ。

影の者(壱):「この水は、どこで汲みました」

船頭B:「難波の井戸です。井戸の水は、三日で塩気が出ます。

  四日目からは、飲む前に一度沸かします」

影の者(壱):「沸かすための薪は」

船頭B:「島で拾います。拾った枝は、数に入れません」


船は昼前に岸を離れた。浜の倉が小さくなり、宿の屋根は松に隠れた。

蔵人Aは桟橋に立ったまま、手を上げなかった。

景親も手を上げなかった。手を上げれば、見ていた者が覚える。


【場面②】 三日目 瀬戸内・船中


三日目は風が弱く、帆は半分しか張れなかった

。海は灰色で、島と島の間が白くかすんでいる。

景親は船尾に座り、櫓の音を聞いていた。

音は一定で、しばらくすると船頭Bが水を一杯飲んだ。


船頭B:「島の名前を、ずっと覚えておられますな」

景親:「覚えておきます」

船頭B:「この先は、右が小さな島、左が大きな島です。

大きな島には、港が二つあります」

景親:「港の名は」

船頭B:「名を聞いても通じません。

 この海の者は、港を番号で呼びます。

 北から一つ、二つと」

景親:「では、番号で聞きます。

  北から一つ目の港に、蔵はありますか」

船頭B:「あります。蔵は二つ。

  どちらも、西の国の反物を受けます」

景親:「西の国の反物は、どこへ行きますか」

船頭B:「難波へ行く分と、都へ行く分があります。

  都へ行く分は、この島で荷を替えます。

  替えた荷は、別の船に乗ります」


影の者(壱)は船尾の板に指で印を置いた。印は三つ。

島の数、港の数、荷を積み替える場所の数。

指で置いた印は、紙には移さない。

紙に移せば、紙を持つ者が数を読む。


船頭B:「都の方は、数を覚えるのが早い」

影の者(壱):「数を忘れると、誰かに教えてもらうことになります。

  教えてもらった数は、教えた者の数です」


船頭Bは笑わなかった。櫓を握り直し、しばらく沖の方を向いていた。


船頭B:「西の国で、数が合わないことがありましたか」

影の者(壱):「合いませんでした。

  合わない数は、たいてい書く者と数える者が違う時に出ます」

船頭B:「では、どちらを直しますか」

影の者(壱):「書く方を直します。数える方は

  直しても同じ数え方に戻ります」


夜、船は島の陰で錨を下ろした。

風が止み、波が船腹を叩く音だけが残った。

景親は船尾の板の上に鉄の皿を置かせ、紙を一枚出させた。

書いてあるのは、寺の倉で確認した九つの名前と、六十四人という数。

名前は、まだ消していない。


船頭B:「この島には、人が十二人おります。みな、網で暮らしております」

景親:「港は」

船頭B:「港と呼べるものはありません。

  浜に小船を上げてあるだけです」

景親:「船を上げる場所があれば、荷も上げられます。

  荷が上げられれば、台帳も要ります」

船頭B:「この島の台帳は、あの浜の倉にあります。

  島の者は、名を書かれたことがありません」

景親は島の形を見た。松が列を作り、その下に石が重なっている。

  石は人の手で積んだ形をしていた。積んだ者がいる。

  だが、その名前はどの台帳にもない。

景親:「この紙は、都へ着く前に焼く。着いてから焼けば、焼く前に誰かが見る」


影の者(壱)は火打ち石を打った。

火は紙の端から入り、名前の上を通って、白い灰になった。灰は手で集め、海へ落とした。

海面に白い点が散らばり、すぐに消えた。


船頭B:「紙を焼く方だ」

影の者(壱):「焼く紙があるからです」


船頭Bはそれ以上聞かなかった。船の者は、聞かないことを仕事にしている。


【場面③】 五日目 難波津


難波津に着いたのは、五日目の午後だった。

桟橋には人が多く、荷を運ぶ者と荷を受け取る者が列を作っている。

景親は船を降り、宿へ向かった。荷は影の者(壱)が肩に掛けた。

紙は船の中でもう六枚焼いた。残りは八枚。


船頭B:「都へは、いつ着かれますか」

景親:「三日歩きます」

船頭B:「馬をお借りになれば、二日です」

景親:「歩きます。馬を借りれば、借りた記録が残ります」


船頭Bは船の綱を結び直し、それから顔を上げた。


船頭B:「西の国で、何かありましたか」

景親:「台帳が遅れておりました。それだけです」

船頭B:「それだけのことを、焼いて帰るのですか」

景親:「焼く紙があるからです」


景親は桟橋を渡り、川の側の道へ出た。

道は人と荷車で埋まり、荷車の輪が石を踏む音が続く。

難波の倉の前を通った。戸は開き、中から反物の束が運び出されている

。数は、去年より少ない。道の途中に、馬を貸す家があった。

戸の前に板が掛かり、板には一日の値が書いてある。

景親は板を見ただけで、戸を叩かなかった。

宿は川の側にあった。部屋は二階で、窓から川が見える。

影の者(壱)は荷を解き、紙の残りを数えた。

八枚。使わないまま都へ持って帰る。

書かれていない紙は、誰も読まない。


影の者(壱):「難波の倉の前を通りました。

  運び出される反物は、去年より少ない数でした」

景親:「数は、覚えたか」

影の者(壱):「覚えました。紙には書いておりません」


景親は灯を消す前に、指で印を置いた。

丸が三つ、四角が六つ、斜めの線が九つ。寺

の倉の名前、浜の倉の名前、郡の台帳の名前。

三つの数は、どれも同じ戸を指している。

指しているのに、どの台帳にも一度しか書かれていない。

宿の主人が、下から湯を持って上がってきた。

椀を机に置き、窓枠に手を当てて、閉まり具合を確かめた。


主人A:「夜は冷えます。火を足しましょうか」

景親:「要りません。灯を一つで十分です」

主人A:「都の方は、火を嫌がりますね」

景親:「火が多いと、紙が燃えます」

景親:「同じ戸が、三つの数に入っている。

  三つが同じ戸を指すなら、消えたのではない。書き分けられたのだ」


彼は指を下ろし、布団の上に手を置いた。

板の間は冷たく、川の水の音が窓の下を流れていく。

明日の朝、都へ向かって歩く。着いたら、まず統真に会う。

会って、数を渡す。渡した後は、彼の仕事ではない。


参考資料

・『続日本紀』文武天皇紀(大宝元年・二年) 諸国からの課税台帳・税と労役の進上と遅延、浮浪人の帰還に関する記事。

・『正倉院文書』正集第三十九巻所収「筑前国嶋郡川辺里戸籍」(大宝二年) 戸主と家族の記載、戸の末尾の口分田面積。

・虎尾俊哉『班田収授法の研究』吉川弘文館、1961年 戸籍・課税台帳と班田収授の関係、不輸税田の扱い。

・松原弘宣「阿波国府の文書行政と勘籍関連木簡」『愛媛大学法文学部論集 人文学科編』第29号、2010年 国府・郡家における帳簿と木簡の運用。


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