第三話 寺の倉
【場面①】 大宝元年十一月 筑前国嶋郡・寺の倉
寺は浜から300メートルほど内陸に入った、松の多い丘の上にあった。
塀は土を突き固めたもので、ところどころに苔が付いている。
門は閉まっていたが、鍵はかかっていなかった。
影の者(壱)は門の前で名前を告げず、用件だけを告げた。
都から来た者で、倉の品数を照合したい、と。
門番は中へ入り、しばらくして戻ってきた。
待つ間、影の者(壱)は塀に沿って三歩歩いて戻った。
土を突き固めた塀はところどころ崩れていて
崩れた所に石が詰めてある。石は海の石で、角が取れていた。
この寺は、海から石を運んで建てられている。
丘の下から声が上がった。
畑を耕している者たちの声で、言葉の切れ目が聞き取れない。
鍬が土に当たる音が、少し遅れて届く。
音は一つではなく、四つか五つあった。
門番が戻り、戸を半分だけ開けた。
開けた幅は、人が一人通れるほどだった。
影の者(壱)はその幅を見てから、体を横にして入った。
道は丘の裾で二つに分かれていた。
左は寺の裏へ回り、右は門の前へ出る。
右の道は石が敷いてあり、両側の草が刈ってある。
左の道は土のままで、草が残っていた。
影の者(壱)は右の道を選んだ。
選ぶときに、左の道の草に踏み跡があるのを見た。
踏み跡は細く、何度も往復した形になっていた。
僧A:「倉を見たいという人は、時々おられます。
見て、どうされるのですか」
影の者(壱):「確認します。確認した数は、国へ出しません」
僧A:「出さない数を、なぜ確認するのです」
影の者(壱):「確認しなければ、誰かが勝手に数を作ります。
勝手に作られた数は、たいてい多くなります」
僧Aは影の者(壱)の顔を見て、それから門を開けた。
境内は石が敷いてあり、本堂の前の香炉には灰が少なかった。
倉は本堂の西、塀の内側にあった
。戸は二枚で、かんぬきが二本かかっている。
倉の前にはむしろが一枚干してあり、端に石が載せてあった。
風で飛ばないための石である。
影の者(壱):「ここで確認します。戸を開けたまま確認します」
僧A:「中へ入ってください」
影の者(壱):「ここで確認します。私が確認しているところを、そちらで見ていてください」
僧Aは少し驚いた顔をして、それから倉の横に立った。
影の者(壱)は戸口に膝を置き、中の反物の束を一束ずつ外へ出した。
日は高く、反物の白が境内の石の上で明るく見えた。
反物の束には木札が結んである。
札の名前を一つずつ読み、境内の石の上に置いた。
読み終えると、石の上は札でいっぱいになった。
名前は九つ。三つは寺の領地の中に田を持つ戸、六つは寺の領地の外に田を持つ戸だった。
影の者(壱):「この六つの名前は、郡の台帳から外れています。
田は寺の領地の外にあります。なぜ、この倉にあるのですか」
僧A:「寺に納めてもらったからです。納めた人は、寺の名前で納めています」
影の者(壱):「寺の名前で納めれば、国の台帳には残りません」
僧A:「残りません。残さないために納めてもらっています」
影の者(壱)は札を一枚ずつ裏返した。裏には、納めた月と
納めた人の役職だけが書いてある。
名前はない。月は三つに分かれていて、どれも春と夏だった。
六つの束を並べ直すと、束の数は二十四になった。
九つの戸の人が、それぞれ何人で
どのくらいの反物を作るかは、束の数から逆に計算できる。
二十四束は、およそ六十人分の一年だった。
影の者(壱):「この六つの戸の人は、今どこにいますか」
僧A:「寺の田を耕しています。寺の田は、国へ税を納めません。納めるのは寺へです」
影の者(壱):「人を隠している、と国は言います」
僧A:「隠してはいません。寺の田を耕す人は、寺の者です。
寺の者は、郡の台帳に書かれません」
影の者(壱):「台帳に書かれないから、消えたと書かれます。
消えたと書かれた人は、浮浪(住所不定)と書かれます。
浮浪は、捕まえられて里へ戻されます」
僧Aは黙った。香炉の灰が、風もないのに少し動いた。
僧A:「戻されれば、また出ます。
出るたびに寺へ来ます。寺は断りません」
影の者(壱):「断らない理由は」
僧A:「田を耕す人が要るからです。
寺の田は、耕す人が減れば草だらけになります」
影の者(壱)は倉の戸口から境内を見た。
日は西へ傾き、本堂の影が石畳の半分まで届いていた。
影の先に、鍬を担いだ男が二人、裏手から戻ってくる。
男たちはこちらを見ると、足を速めずに本堂の陰へ入った。
影の者(壱):「今の二人は、郡の台帳に名前がありますか」
僧A:「ありません。春から来た者です」
影の者(壱):「春から来た人が、鍬を担いで歩いている。
名前がなければ、国はその人を探しません。
探さなければ、見つかりません」
僧A:「見つからないようにしているのではありません。
書く欄がないのです」
影の者(壱)は倉の戸を閉め、かんぬきを二本とも掛けた。
掛ける音は境内に響き、本堂の陰の男たちが一度だけこちらを見た。
【場面②】 同じ日 筑前国嶋郡・寺の本堂
本堂の中は暗く、床は黒く光っていた。
灯が三つ、仏壇の前に置かれている。影の者(壱)は靴を脱ぎ
畳の縁を踏まずに歩いた。僧Aは半歩後ろを歩いた
。畳は古く、縁の布が擦り切れている。油の匂いと
線香の残りの匂いが混じっている。
影の者(壱):「聞きたいことが三つあります。
一つ、寺の田の面積。二つ、耕す人の数。
三つ、その人たちがいつからここにいるか」
僧A:「三つ目は答えられます。二つ目も答えられます。
一つ目は、寺の台帳にあります」
影の者(壱):「台帳は見ません。数だけ聞きます」
僧A:「なぜ台帳を見ないのです」
影の者(壱):「台帳を見れば、私が台帳を見たことが分かります。
分かれば、次に誰かが台帳を書き換えます」
僧Aは灯の脇に座り、指を折って数えた。耕す人は六十四人。
うち、今年の春から来た人が二十六人。
残りは三年前から、五年前からと、それぞれ違う。
影の者(壱):「今年の春から来た二十六人。
郡の台帳から消えた二十六人と同じ数です」
僧A:「同じでしょう。寺へ来た人は、郡へは言いません」
影の者(壱):「言わないのは、なぜですか」
僧A:「言えば戻されます。戻されれば、また来ます。
その繰り返しの間に、田が荒れます」
影の者(壱):「寺の田は国へ税を納めない。
だが、国の台帳から人が消えれば、その分の税も労役も、他の里が負担します。
他の里の人が、減った分を自分たちで埋めています」
僧A:「寺は、他の里から取ってはいません」
影の者(壱):「取っていなくても、他の里が多くを負担します。
あなたの寺が人を抱えるたびに、別の里の誰かが、その人の分を納めます」
僧Aは答えなかった。灯の芯が一度だけ大きく揺れた。
影の者(壱):「私は寺を責めに来たのではありません。
寺を閉じさせに来たのでもありません。
今の書き方では、寺の田を耕す人がどの台帳にも書かれません。
書かれない人が増えるほど、書かれている人の負担が重くなります。
これを直すには、書き方を変えるしかありません」
僧A:「書き方を変えれば、寺の田を耕す人も、郡の台帳に書かれるのですか」
影の者(壱):「書かれる形にします。寺の者であることも、
一緒に書きます。二重だと消されない形です」
僧A:「それが通れば、寺は人を隠さなくて済みます」
影の者(壱):「通すのは私ではありません。通る形を作るのが、私の役です」
【場面③】 同じ夜 那の津・宿
宿の窓は海の側に一つ。松の枝が風で窓に当たり
板の間に影が揺れた。景親は机の前に座り
影の者(壱)は戸の内側に膝を置いた。
机の上には、紙が一枚も置かれていない。
影の者(壱):「九つの戸。三つは寺の領地の中。六つは寺の領地の外。
六つの戸の人は、寺の田を耕しています。数は六十四人、うち二十六人が今年の春から」
景親:「二十六と十一で三十七。合った」
影の者(壱):「合いました。数は紙に書いておりません。
札にあった名も、寺の台帳も、一枚も持ち帰っておりません」
景親:「合ったことを書いて送れば、その紙が証拠になる。
証拠が出れば、寺が罰せられる。寺が罰せられれば、耕す人はまた動く」
景親は手を机の上に置いた。火打ち石には触れない。
灰を埋めるのは影の者の仕事である。
景親:「その紙は、どうする」
影の者(壱):「焼きます。灰は、宿の裏手の松の根元に埋めます」
景親はうなずいた。
影の者(壱)は紙を鉄の皿の上に置き、火打ち石を取った。火はすぐに付いた。
紙は縁から黒くなり、白い灰が残った。
埋めた場所は、宿の裏手の松の根元だった。
土は柔らかく、指で掘ると貝の殻が出てきた。
殻は白く、内側が少し光っている。
影の者(壱)は殻を元の場所に戻し、その上に灰を置いて土を掛けた。
宿へ戻る途中、浜の方が明るかった。
漁の火が三つ、砂の上で動いている。
景親:「私は数を覚えて帰る。寺の名前も、六つの戸の名前も書かない。
都へ着いたら、統真に数だけ渡す」
影の者(壱):「渡すのは、私でよろしいですか」
景親:「あなたが渡す。私は、その数を受け取るだけだ」
窓の外は暗く、海の音だけが続いた。景親は荷物をまとめさせ
墨と筆を布巾に包ませた。紙はまだ十四枚残っている。
残りは、帰りの船では使わない。
参考資料
・『続日本紀』文武天皇紀(大宝元年・二年) 浮浪人の帰還と口分田の給付に関する記事。
・『正倉院文書』正集第三十九巻所収「筑前国嶋郡川辺里戸籍」(大宝二年) 戸主と家族の記載、口分田の面積の記入。
・虎尾俊哉『班田収授法の研究』吉川弘文館、1961年 不輸税田と班田収授の関係。
・松原弘宣「阿波国府の文書行政と勘籍関連木簡」『愛媛大学法文学部論集 人文学科編』第29号、2010年 国府・郡家における帳簿と木簡の運用。




