第二話 港の荷札
【場面①】 大宝元年十一月 筑前国那の津・浜の倉
船は四日目の朝、那の津の浜に着いた。
海は灰色で、波は低く、砂の上に白い泡が残って消える。
浜から内側に倉が四つ並んでいる。
三つは戸が開いていて、一つだけ錠が下りていた。
錠の前に番人が立ち、腕を組んでいる。
影の者(壱)は荷物を下ろし、わらじの砂を落としてから倉の前に立った。
蔵人A:「都から来た方か。商いならこちらへどうぞ」
影の者(壱):「台帳のを確認に来ました。売り買いはしません」
蔵人A:「確認するのは」
影の者(壱):「今年と去年の同じ月です」
倉の中は薄暗く、床に敷いたむしろの上に反物の束が積まれていた。
反物は麻で、束ねた端に木札が結んである。
影の者(壱)は札を一枚ずつ解き、床に並べた。
札には国、郡、里、戸主、数の五つが書いてある。
札を並べ終えると、床の半分が札でいっぱいになった。
床は浜の砂を踏み固めたもので、歩くたびに細かい砂が靴の裏に付く。
奥の壁際には、むしろを巻いた束が三つ立てかけてあった。
梁から縄が下がり、縄の先に木の鉤が結んである。
反物の束を持ち上げるためのものだった。
影の者(壱)は鉤を借り、束を一束ずつ床へ移した。
束は重く、腕の内側に反物の目が当たった。
影の者(壱):「昨年は百二十束。今年は八十四束。三十六束の差です」
蔵人A:「風が悪かったと、国では言っている」
影の者(壱):「風で束は減りません。風で減るのは、刈る前の麻です。
刈ってから束ねた麻は、風では減りません」
蔵人Aは黙って、むしろの端を足で押さえた。
倉の外で波が崩れる音がした。影の者(壱)は札のうち
筑前国嶋郡の分だけを寄せた。里ごとに積む。
三つの里の札だけが少ない。少ない量は同じで、欠けた数も同じだった。
他の里の札は、去年と数が変わっていない。
影の者(壱):「この三つの里の者は、今年、倉に来ましたか」
蔵人A:「来ておりません。名も聞いておりません」
影の者(壱):「国へは、何を出していますか」
蔵人A:「写しを出します。数だけです。名は出しません」
影の者(壱)は札を元の位置に戻し、結び直した。
結びは蔵人の結びで、自分の結びは使わない。
自分の結びが残れば、誰が来たかが残る。
影の者(壱):「この三つの里は、どれも寺の領に隣り合っていると聞きました」
蔵人A:「隣です。寺の倉は、あちらです」
蔵人Aは海の側を指した。寺の倉は浜の倉より内側にあり
塀で囲まれていた。塀の内に木が一本立っていて、葉は落ちている。
蔵人A:「寺の倉には、里から直接、反物が入ります。浜の倉を通りません」
影の者(壱):「誰が確認しますか」
蔵人A:「寺が確認します。国は写しを受け取ります」
影の者(壱)は礼を言って倉を出た。外は明るく、砂が白く見えた。
彼は振り返らずに歩いた。振り返れば、番人がどこまで見ているかが分かってしまう。
【場面②】 同じ日 筑前国嶋郡・郡家
郡家は、川の近くの低い台にあった。
門を入ると、左右に板の間が続き、奥の部屋から紙を繰る音がしている。
床板は乾いていて、歩くたびに継ぎ目が鳴った。
門の内には馬が一頭つながれていた。
鞍は外され、背にむしろが掛けてある。
馬は首を下げたまま、尾で蠅を払っていた。
影の者(弐)は馬の横を通り、奥の戸口で足を止めた。
戸は半分だけ開いていて、紙を繰る音が中から続いている。
主台帳A:「都の方ですか。台帳を見せるのは、国司の許しが要ります」
影の者(弐):「許しは要りません。私は台帳を見に来たのではありません。
書き方を見に来ました」
主台帳A:「書き方」
影の者(弐):「今年から戸ごとに書けと、国から言われたと聞きました」
主台帳Aはしばらく黙り、それから机の脇の束を引き出した。
紙は四組あった。同じ年の台帳が四度書かれている。
初めの二組は里ごとに書かれ、三組目から戸ごとに変わっていた。
紙の端には書き直した日が小さく記されている。
主台帳A:「四度書きました。一度目は里ごと。二度目も里ごと。
三度目に、国から戸ごとにせよと言われました。
四度目は、そのとおりに書きました」
四組の紙は、同じ紙ではなかった。
初めの二組は厚く、色が濃い。三組目からは薄く、繊維の目が粗い。
同じ年に、同じ郡家で、紙が変わっている。
影の者(弐)は紙の端を指でなぞり、それから束を元の順に戻した。
影の者(弐):「誰が言ってきましたか」
主台帳A:「国司の下役の役人Bです。
西海道の分は二年で作れと言われました。二年で作るには
里の数を出さずに戸だけを書けと」
影の者(弐):「里の数は、出さない」
主台帳A:「出ません。戸ごとに書けば、里の境が紙の上に残りません」
影の者(弐)は四組を並べ、三つの里の戸主の名前を指でたどった。
名前は九つあった。九つのうち三つには、同じ名前が別の紙にも書かれている。
寺の倉へ反物を納めた印が、その三つに付いていた。
主台帳A:「寺の領に田を持つ戸は、寺にも名を置きます。
両方に書くと二重だと国に言われるので、郡の台帳からは落としました。
落とした分は、浮浪と書きました」
影の者(弐):「浮浪は、里を出た者に使う語です」
主台帳A:「他に書く語がありません。書かなければ
台帳の数が合いません。合わなければ、私の責任になります」
影の者(弐)は名前を覚え、紙には書かなかった。
九つの名前のうち、三つは寺の倉の印があり、六つは印がない。
印のない六つの名前は、どの台帳にも二度書かれていない。
影の者(弐):「この九つの戸の田は、どこにありますか」
主台帳A:「三つは寺の領の内。六つは寺の領の外です。
外の六つは、浜の倉へ反物を納めていたはずです」
影の者(弐):「はず、というのは」
主台帳A:「今年は、納めた記録がありません。
浜の倉の写しにも、この六つの名はありません」
影の者(弐):「台帳は、いつ国へ出しますか」
主台帳A:「十二月の末です。それまでに数が合わなければ
書き直します。書き直せば、前の台帳は残りません」
影の者(弐):「残さないのは、誰が決めましたか」
主台帳A:「決まりです。書き直した紙は、破って捨てます」
影の者(弐)はうなずいて郡家を出た。
川の水は低く、石の間を細く流れていた。日はまだ高く、畦の土は乾いている。
【場面③】 同じ夜 那の津・宿
宿は浜から少し離れた松の内側にあった。
部屋は板の間で、窓は海の側に一つだけ。
灯を一つ置くと、壁に影が二つできた。
景親は朝に那の津へ着き、この部屋で待っていた。台帳には触れていない。
影の者(壱)と影の者(弐)は戸の内側に膝を置いた。
景親:「浜から先に」
影の者(壱):「昨年は百二十束。今年は八十四束。
三つの里の札だけが、同じ数だけ欠けておりました。
寺の倉へは、里から直接、反物が入ります。浜の倉を通りません」
景親:「郡家」
影の者(弐):「九つの戸主の名を覚えました。
紙には書いておりません。三つは寺の倉の印があり
六つは印がありません。印のない六つは、どの台帳にも二度書かれておりません」
景親は紙を一枚だけ出し、数を書かずに三つの点を置いた。
寺の倉に入った名は三つ。浜の倉に納めた記録のない名は六つ。
郡の台帳から落ちた名は九つ。台帳から消えた人は三十七人。
景親:「三と六で九。九つの戸に、人が四人ずついれば三十六。一人足りない」
彼は点の横に、それぞれ違う形の印を置いた。
丸、四角、斜めの線。形は家の決まりで
数を持ち歩かずに数を覚えておくためのものだった。
景親:「寺の倉の三つは、反物が入っている。
浜の六つは、反物が入っていない。
だが、人も田も同じ扱いで台帳から外れている」
窓の外で松が風に鳴った。海の音は遠く
宿の内には湯気の匂いが残っている。主人が湯を運んできた。
椀は縁が欠けており、湯気の向こうで主人の顔が見えない。
主人A:「夜は冷えます。火を足しましょうか」
景親:「要りません。灯を一つで十分です」
主人A:「都の方は、火を嫌がりますね」
景親:「火が多いと、紙が燃えます」
主人が下りた後、景親は椀を机の端に置いた。
窓枠の木は湿り、指で押すと水がにじむ。
海に近い家は、どこも木が水を含んでいる。
景親:「台帳から落とした理由が二つある。
寺に名を置いたから落とした三つと、理由の分からない六つ。
同じ落とし方をしておいて、理由が二つあるのはおかしい」
彼は紙を灯の上にかざし、書いた形を確かめた。
それから紙を折り、鉄の皿の上に置いた。
火はまだ付けない。火を付ければ、この部屋に紙の灰が残る。
灰は捨てても、部屋の匂いに残る。
景親:「明日、寺へ行く。寺の倉は外から確認できるか、
それを見る。見られれば、寺の台帳と浜の台帳を突き合わせられる」
影の者(壱):「見られない場所で確認すれば、寺は隠したと言います。
隠していなくても、そう言われます」
景親:「だから、見られる場所で確認する。戸を開けたまま、境内で」
影の者(壱):「戸を開けたまま、境内で確認してまいります」
景親はうなずき、灯を消した。部屋は暗くなり、松が風に鳴る音だけが残った。
参考資料
・『続日本紀』文武天皇紀(大宝元年・二年) 諸国からの課税台帳・税と労役の進上と遅延に関する記事。
・『正倉院文書』正集第三十九巻所収「筑前国嶋郡川辺里戸籍」(大宝二年) 戸ごとの記載と口分田の記入。西海道の戸籍の実例。
・『令義解』(清原夏野ら撰、833年)田令・賦役令 税と労役の納入と帳簿の規定。
・虎尾俊哉『班田収授法の研究』吉川弘文館、1961年 戸籍・課税台帳と班田収授の関係。
・松原弘宣「阿波国府の文書行政と勘籍関連木簡」『愛媛大学法文学部論集 人文学科編』第29号、2010年 国府・郡家における帳簿と木簡の運用。




