第一話 遅れた課税台帳
この時代の八咫烏。登場人物の名
数の烏 十文字家 十文字 統真
図の烏 鷲尾家 鷲尾 景親
刀の烏 諏訪家 諏訪 成忠
蔵の烏 瀬戸家 瀬戸 昌秀
言の烏 八重樫家 八重樫 清詞
【場面①】 大宝元年十月 藤原京・民部省
明け方に降った雨が、昼を過ぎても石畳の目地にまだ残っていた。
藤原京の条坊の道は北から南へまっすぐに伸びていて
両側の溝には水が流れている。
影の者(壱)は溝を避けて歩き、民部省の門の前で足を止めた。
門の内側の砂の上には、行きと帰りの足跡が三十七対
濡れたまま残っている。
影の者(壱)は官職を持っていない。
戸籍にも課税台帳にも、この男の名前は載っていない。
今日ここへ来たのは、民部省の大録が十文字の家へ人を
寄越せと言ったからで、その呼び出しは二十年前の縁から来ている。
呼んだ本人も、この男が何を調べているのかは知らない。
詰所の床板はまだ黒く濡れていて
簀の子の上を歩くわらじが、一歩ごとに水を押し出す音を立てていた。
囲炉裏は焚かれていない。
火の気のない部屋に机が二つ並び、片方の上に台帳が三巻と
ばらけた紙が一束置かれていた。
紙の端は波打っていて
海の湿気を含んだまま都まで運ばれてきたことが分かる。
史生A:「大録がお待ちです。筑前の台帳を見ていただきたいとのことです」
影の者(壱):「筑前の分は、八月三十日までに太政官へ出す決まりでした」
史生A:「半分しか届いていません。大録は、そのことで待っておられます」
廊下は暗く、靴脱ぎの石は冷たくて、指の先がしびれた。
大録Aは台帳の前ではなく、窓のそばに立っていた。
外の砂の足跡を、彼も見ていた。
簀の子の先が中庭で、隅に桶が二つ置かれていた。
桶の水面に葉が浮かび、ゆっくりと回っている。
大録A:「筑前国嶋郡の三つの里で、去年より三十七人減っています。
三つの里はどれも海に近く、寺の領地に隣り合っています」
影の者(壱):「死亡の届けは」
大録A:「三枚あります。合わせて十一人です。
残りの二十六人は、郡司が「浮浪(住所不定)」と書いています」
影の者(壱)は台帳を自分の前に引き寄せ、指で行を追った。
見たのは行の長さと、行と行のあいだの空白と、里ごとに記された点の位置だった。
三つの里の点は、どれも同じ月に、同じ箇所が薄くなっている。
台帳の紙は厚く、めくるたびに指の腹に紙の粉が付いた。
影の者(壱):「三つの里の欄だけは、行の間隔がそろっております。
他の里は、それぞれ違います。同じ郡の台帳を、別の者が書いております」
大録A:「西海道の課税台帳がそろわなければ、
来年の戸籍が作れません。戸籍ができなければ、
班田も、税も、労役も決まりません。来年は新しい法令の年です」
影の者(壱):「責任は、どこへ行きますか」
大録A:「まず筑前の国司です。次に、この役所で台帳を点検した者。最後に、里の者です」
影の者(壱)は台帳の写しを一枚ずつ取った。
名前の並ぶ行は写さない。里の名、戸の数、口の数、減った数だけを写す。
書き終えると、束ねた紙の端に紐をかけた。
結びは家の決まりの形で、この男には解けない。
大録A:「その結びは、こちらでは解けぬ。読まないのか」
影の者(壱):「読むのは家の者でございます。私は運びます」
大録A:「いつ書く」
影の者(壱):「書くのは家の者です。私は、写しを運ぶだけです」
外へ出ると、砂はまだ濡れていた。
影の者(壱)は自分の足跡を、来た道とは別の場所につけて門を出た。
振り返ると、砂の上には行きと帰りの足跡が、それぞれ別の場所に残っていた。
【場面②】 同じ夜 八咫烏の社
社の奥の座敷には、火の器が置かれている。
囲炉裏は使わない。煙が天井に溜まり、匂いが家中に残るからだ。
火は器の中に入れておき、必要な時だけ蓋を取る。
この夜、蓋は開いていた。灯の芯は短く、五人の顔の右側だけを照らしている。
座には五人がいた。数の烏の十文字統真のほかに、図の烏の鷲尾景親、
刀の烏の諏訪成忠、蔵の烏の瀬戸昌秀、言の烏の八重樫清詞。
板の間は冷え、障子の紙は外の風で少し鳴った。
五人の前の皿には、干した魚と塩が盛られていた。
どれも手が付いていない。影の者(壱)は戸口の内側に膝を置き
写した紙を座の端に置いた。統真はその紙に触れず、報告を聞く。
影の者(壱):「三つの里の点は、どれも同じ月に、
同じ箇所が薄くなっておりました。行の長さは変わりません。
名前の並ぶ行は、一枚も写しておりません」
統真:「浮浪は里をまたいで動きます。
三つの里が同じ月に同じ数だけ減るのは人の移動ではありません」
影の者(壱):「では、何が減ったのですか」
統真:「人です。ただし、動いたのではなくて、書かれなかったんです」
景親:「戸籍は六年ごとです。次の戸籍作りは来年で
西海道の分は新しい法令の施行に合わせて二年で作ることになっています。
台帳が遅れれば、国司が責任を問われ、郡司が替わります」
清詞:「筑前の郡司の家は、五代にわたって話を聞いてきました。
替われば、港の名も、道の名も、里の名も分からなくなります。
新しい郡司は、自分の代の分しか知りません」
成忠:「我らの出番はあるか」
統真:「今はありません。必要な時に呼びます」
成忠は片膝を立てたまま、刀に触らなかった。
部屋の空気が少し動き、火の先が傾いた。
統真:「新しい法令が始まる年に台帳を作れない国が出れば
法令そのものが疑われます。疑われた法令は、次の年には使われません。
国が乱れるのは、その時です」
昌秀:「難波の倉は、去年より出荷が多い。
反物は都へ上がる分と、西へ回る分がある。
西へ回る分が増えているのに、筑前からの入荷が減っている」
清詞:「寺の領地を、神祇官の側から聞きます。
寺の倉に反物が入るルートは、民部省の台帳とは別にあります」
影の者(壱):「筑前へは、私がまいります。明日、難波から船が出ます」
統真:「名前と地図は残さない。描いた紙は、都に着く前に燃やせ」
影の者(壱):「分かっています。島の名は覚えます。紙には書きません」
清詞:「先に言っておきます。人の罪の話にすると、この話は通りません。
制度の話にしなければ、誰も動きません」
統真:「罪にすれば、郡司が替わります。
制度にすれば、台帳の書き方が変わります。
変わる方が国に残ります」
清詞はうなずき、火の器の蓋を閉じた。
部屋が暗くなり、五人の顔は見分けられなくなった。
統真:「家の決まりです。任務に必要な範囲のほかは話しません。
この場で聞いたことも、持ち出しません」
影の者(壱):「何も持ち出しません。写しも、家の結びのままでございます」
誰も答えなかった。答えないことが、この家の答えだ。
【場面③】 翌朝 難波津
明け方の難波津は白かった。水面に霧が立ち、船の帆は霧に隠れている。
荷を積む男たちの声が、水面に反響して返ってきた。
桟橋の板は水を含んで重く、足を置くたびに板の間から水がにじむ。
船は二艘並んでいた。一艘は米を積み、喫水が深い。
もう一艘は空で、船底に水が溜まっている。
影の者(壱)は空の船を選んだ。
米を積んだ船は寄る港が決まっていて、決まった港には決まった役人が立つ。
荷物は小さかった。墨、筆、白い紙二十枚、火打ち石、鉄の皿。
役所の地図は持たない。国司に渡す文書も持たない。
持てば、渡した記録が残る。
船頭A:「西へ行かれるのは、商売ですか」
影の者(壱):「倉を見に行きます」
船頭A:「難波の倉の者が言っていました。
今年は税の反物が、去年より少ないと。
役所の者は、風のせいだと言っていました」
影の者(壱):「風で反物は減りません。減るのは、人か、田んぼなどの台帳の記録です」
船頭Aは黙って綱を手繰った。綱が水を切る音がした。
影の者(壱):「着いたら、まず蔵を見せてくれ」
船頭A:「蔵の者は、見られるのを嫌がります」
影の者(壱):「隠している内容を見られたくないのです」
船はゆっくりと岸を離れた。影の者(壱)は艫に立ち
目の前を通る島の名を覚えた。覚えた名は紙に書かない。
書けば残り、残れば誰かが読む。読んだ者が、その島に人を置く。
瀬戸の水は黒く、櫓の音が一定の間隔で続いた。
渡された紙の束には、しばらく触らなかった。
二十枚。足りなければ、どこかで買う。
参考資料
・『続日本紀』文武天皇紀(大宝元年・二年) 戸籍・課税台帳の作成と新しい法令の施行に関する記事。
・『正倉院文書』正集第三十九巻所収「筑前国嶋郡川辺里戸籍」(大宝二年) 西海道の戸籍の実例。戸の末尾に口分田の面積を記す。
・虎尾俊哉『班田収授法の研究』吉川弘文館、1961年 班田収授と戸籍・課税台帳の関係。
・松原弘宣「阿波国府の文書行政と勘籍関連木簡」愛媛大学、2010年 国府・郡家における帳簿と木簡の運用。




