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導きの火 ー千年を語り継ぐ八咫烏  作者: 忍びでござる
第一章 天皇陛下の苦悩と八咫烏の始動
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第一話 問いを許す夜

語りは、すぐには始まらなかった。

座敷の灯りは低かった。

芯がときおり小さく爆ぜ、そのたびに壁へ映った父の影がわずかに揺れる。

斗真は膝の上で手を組み、自分の呼吸の音を数えていた。

畳の目を端から追い、次に座布団の縁を見て、また正面へ戻る。

父の唇が動く気配を、何度も先取りしては外した。

庭の奥で、季節の外れた虫が一声だけ鳴き、それきり黙った。

虫が止んだあとの静けさは、鳴いている間よりも深かった。


「すべては白村江の戦いより始まる」


と、景信は語り始めた。

声は張っていなかった。張らない声のほうが、この家では重い。

斗真は背筋を伸ばした。

その言葉のあと、彼はしばらく沈黙し、やがて静かに立ち上がった。

膝に手を当て、一度だけ息を吐く。

畳に残った座り跡を、斗真はなぜか目で追った。


父の体重を、畳がまだ覚えているように見えた。


「斗真。語りには、順というものがある。

過去を語る前に、お前に見せておかねばならぬものがある。ついて来い。」


斗真は黙って立ち上がった。

問いは発さぬ。それがこの家の作法である。


祖父がそう教えた。

ただ今宵に限り、景信は先に言い添えていた。


「なお、今宵に限り、問いを許す。分からぬことは、その都度聞け。

継ぐ者の第一の務めは、知らないことを、知らないと言い切ることだ。

解ったふりをして座っている者に、何も継げない」


斗真はその言葉を、胸の内側でゆっくりと畳んだ。

長く呑んできた癖は、許可を得てもなお、すぐには口を開かせなかった。


斗真は唾を一度飲み、「わかりました」とだけ答えた。

声が、思ったより低く出た。

障子が開かれると、廊下の冷気が頬に触れた。

秋半ばの夜気は、屋敷の内にまで染みていた。



座敷の火の匂いがたちまち薄れ、代わりに、磨かれた板と、遠い土の匂いが鼻に届く。斗真は襟を直し、父の背について廊下に出た。

廊下は長く、足音が板に沈む。

行き交う者の姿はない。

一定の間隔で置かれた灯りが足元を照らすだけで、その光は先へと続いていた。

灯りは明るすぎず、暗すぎず、まるで誰かの手が同じ大きさに削いで並べたようだった。


空気は、層になっていた。

障子を隔てた向こう側はまだ昼の名残の匂いがしたが、数歩ごとに、その匂いは薄れ、代わりに冷えた石の匂いが濃くなる。

斗真は、屋敷の下へ下りているのだと、足の裏で知った。誰も、階を下るとは言わなかったからだ。

途中、角を曲がる影が一つ見えた。

衣の裾の色は、この距離では判別できなかった。影は足音も立てずに消えた。

景信は歩みを緩めずに、背中を向けて話した。

「お前はこれまで、八咫烏を知らずに育った。四季の名だけで、表の人生を生きてきた。学校を出て、友を持って、常の仕事に就く素養を積んできたはずだ」

斗真は「はい」と答えた。学校の友人の顔が、いくつか浮かんで沈んだ。

「継ぐ者の眼が開くまでは、背負う者の世界を見せてはならん。

それが代々の習わしだ。わし自身もそうだった」

「では、今からが……」

「そうだ。今からが、見せる時だ」



景信は歩みを緩めずに続けた。

斗真は、父の背がわずかに広く見えたように思った。

斗真は考えながら歩いた。

今宵の初めに聞いた言葉の数々が、まだ胸の中で整理できていなかった。

八咫烏。三本の足を持つ、伝承の鳥の名を背負う者たち。

史書の余白にだけ残る物語。

父が語ろうとしているのは、神話より続く千余年の記憶だと聞いた。


その前に、見せるものがあるという。

「父上。見せるものというのは?」

「組織の形」

景信は短く答えた。


「物語の登場人物を、知らずに読む者はおらん。八咫烏とは何か。誰が、どこに座り、何を担っているか。それを見せてから、過去を語る。でなければ、お前は千年の物語を、ただの昔話として聞くことになる」


昔話、という一言が、斗真の胸に小さく刺さった。

祖父が語ってくれたどの童話より、遠い話のはずだった。

だが父の声は、その語を軽んじてはいない。戒めとして使っている。

斗真には、それだけがわかった。

千年を、昔話として聞く者は、千年を継げない。父はそう言っているのだ。



廊下が緩やかに下り始めた。

灯りの間隔が詰まり、空気の匂いが変わった。

古い木と、墨と、わずかな漆の匂い。

斗真はこの匂いを、幼い折に一度だけ嗅いだ覚えがあった。

祖父がまだ生きていたころの夜、この屋敷のどこかで嗅いだ匂いだ。

あの夜、祖父は斗真を廊下の途中で止め、下の階を見るなと言って連れ戻した。

祖父の手は意外に強く、斗真の肩を掴んだまま離さなかった。

灯りはゆらめいていて、祖父の顔は半分しか見えなかった。

斗真はそれきり、屋敷の下のことを長い間忘れていた。

忘れていたのではなく、問わぬことを覚えたのだ、と今になって思う。


「この屋敷の下に、お前の知らない階がある。裏の世界を知らない者は足を踏み入れてはならん」


あの時の祖父の声と、いま父の歩幅が、斗真の胸の内で重なった。

祖父は、この階を知っていた。知ったうえで、斗真には蓋をした。

蓋をされた理由が、いま、明かされようとしている。

扉の前に着いた。景信は扉に手をかけ、振り返った。


「ここから先が、八咫烏だ」




板戸は古びて見えたが、軋まなかった。

景信が押すと、扉は音もなく内へ開いた。

扉の内側は、斗真の知る屋敷とは別の空間だった。

広い間。

畳は色が深く、柱は磨かれ、中央には五つの座が半円形に置かれていた。

その北に、一段高い上座が一つ。

壁際には、色の異なる札が五枚、静かに懸かっていた。

灯りはこの間にも置かれていたが、火はどこか遠く、光だけが残っているようだった。

畳の匂いと墨の匂いが、息を吸うたびに胸に満ちる。

斗真は、声を出す前に、まず息を整えた。

ここでは、息の仕方まで見られている気がした。

五つの座には、まだ誰もいなかった。

だが、斗真にはわかった。

この五つの座は、誰もいないのではなく、まだ来ていないだけだ。

斗真は、五つの座が自分を待っていた、という奇妙な錯覚を覚えた。

その感覚を、彼はこの夜の終わりまで忘れることができなかった。


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