第二話 都の外の声
【場面①】吉野 |
吉野の冬は、都の冬より深かった。
大海人皇子の小屋を囲むように、舎人たちの粗末な小屋が並ぶ。
宮廷の緊張とは質の違う、静かな気配が漂っていた。
落ちぶれた暮らしの底で、皇子はただ待っていた。何を待つのかは、口にしなかった。
舎人:「都から人が来ています。」
大海人皇子:「誰だ。」
舎人:「高市皇子です。一人だけで、行列も灯りもありません。」
高市皇子は夜明け前に吉野の坂を登りきった。肩に積もった雪を払いもせず、皇子の前に座った。
高市皇子:「天皇陛下が崩御なされました」
大海人皇子:「いつのことだ。」
高市皇子:「十二月三日です。喪の知らせは触れで届くはずですが、私はそれより先に来ました。」
大海人皇子:「何を伝えに来た。」
高市皇子:「陛下の最期の言葉です。『大海人の志を聞いてはいない。ただ、吉野で静かにせよ』と。」
大海人皇子は、黙って火を見た。
高市皇子:「新しい政権は、すでに動いています。
五位以上の官人は、全員、大友皇子に忠誠を誓いました。」
大海人皇子:「誓わなかった者は。」
高市皇子:「朝廷の中にはいません。」
大海人皇子:「地方の者は。」
高市皇子:「わかりません。」
大海人皇子:『朝廷は地方を軽んじている。放っておかれた不満は、一番動かしやすい。』
と、心の中でそう思った。
高市はその夜のうちに吉野を下った。行く先は、言わなかった。
【場面②】熊野三山の奥・幣殿
同じ月。
熊野三山のさらに奥、人里離れた山間の小さな社の幣殿に、古い桐の箱が置かれた。
鷲尾真連:「来ました。御文書の使いが、いつものように置いて帰りました。……開けます。」
桐の箱の中には、宣命が一通だけ。鷲尾が読み上げた。
鷲尾真連:「『大友皇子を後継と据える。』——この一行だけです。」
四季惟古:「他には。」
鷲尾真連:「何も。譲位の申し出も、五位の誓いも、入っておりません。勅は、この一行です。」
鷲尾は宣命を畳み、火の側に置いた。
鷲尾真連:「ひとつ、お聞きします。帝の意は、この一行で決まりました。
ならば我らは、この一行に従うだけのことにございます。」
四季惟古:「従う・・・ただし、その前に、世を聞く。千臣。」
十文字千臣:「十文字の支が、新たな情報を掴んできています。
卯月が内を、子安が数を、巳波が外を。」
十文字千臣:「朝廷の内の声は、一つです。五位以上、全員が大友皇子に忠を奉じた。
朝廷の外の声は、一つではありません。美濃の湯沐令の家、尾張の郡司の家、東国の兵の家。
どの家も、自分の名が都の人事に載らなかったことを不満に思っています。」
四季惟古:「載らなかった、というのは、どういう不満だ。」
十文字千臣:「都が独断で決めた、という不満です。決められることには従えます。
決められたことを知らされないことに、耐えられないのです。」
灯りが揺れた。図の烏が、宣命の一行を、もう一度読んだ。
鷲尾真連:「朝廷の中の声と、都の外の声が、食い違っております。」
【場面③】熊野三山の奥・社 | 八咫烏・評定(五羽そろって)
社殿に、五羽がそろった。蔵の烏・瀬戸益古と、言の烏・八重樫言彦も、末席に座った。
四季惟古:「評定を開く。議題は一つ。この勅に、従うか、従わぬか。」
鷲尾真連:「従う形は、三つございます。勅のままに、大友皇子を支える。勅を捨てて、大海人皇子に付く。どちらもしない。」
諏訪武人:「どちらもしない、とは。」
瀬戸益古:「損得の話をさせてください。大友皇子を支えれば、都の帳簿は動きません。
金も米も、今のまま回ります。だが、東国の家々が背を向ければ、帳簿は帳簿のまま、
国は半身になりましょう。」
四季惟古:「……ならば、掟を読む。掟、一。天皇の意の他には、動かない。ただし、純粋に国の為であること。今の勅は、意だ。国の為か、どうか。これが問いである。」
誰も、すぐには答えなかった。火の爆ぜる音だけがした。
諏訪武人:「我らが、国だと思う方を選べばよい。それだけのことでは。」
四季惟古:「選ぶのは、我らではない。……私も、選ばぬ。この一言を、私の口から出す。」
鷲尾真連:「御意は、どちらですか。」
四季惟古:「従う。勅に、従う。」
一同が顔を上げた。諏訪武人が、膝の上で手を動かした。
諏訪武人:「大友皇子を、支えるのですか。」
四季惟古:「支えぬ。……我らは、この勅が届かぬ声を、届ける。それだけを、国の為として行う。
誰を天皇にするかは、人の決めることだ。我らが決めれば、それは意ではなく、我らの私になる。
掟一に、真っ先に触れる。」
十文字千臣:「届ける先は。」
四季惟古:「三つ。
一。都の外の声を、都の外の者が聞けるように整える。
亥原の地理と、子安の数、卯月の内。
二。朝廷の中に、外の声が入る細い穴を一つ開ける。
三。……そして、我らは名を一つも残さぬ。」
瀬戸益古:「金を、誰にも渡さぬと。」
四季惟古:「渡さぬ。施しは、主を生む。主が生まれれば、世は恩で動く。
恩で動いた世は、乱のあと、借りの取り立てで終わる。我らは、貸さない。」
八重樫言彦:「では言葉は。」
四季惟古:「言葉は、書かない。書いた言葉は、読まれる。読まれた言葉は、誰かの手柄になる。
手柄は、人のものだ。八重樫の四家は、この乱では動かさぬ。」
諏訪武人:「刀は。我らの刀は、一度も抜かれぬまま終わるのですか。」
四季惟古:「抜くのは人だ。我らは、抜く者が抜ける場所に、立っているようにするだけだ。
不破の關は、人の手で封じられねばならぬ。我らの手で封じたなら、あの關は我らの名を呼ぶ。
……ならぬ。」
諏訪は長く黙った。やがて、頷いた。
諏訪武人:「承知。龍崎と寅谷には、この乱の間、刃を抜かせぬと申し渡します。」
鷲尾真連:「最後に、一つ。この評定の結果を、勅を出された陛下に、どう奏しますか。」
四季惟古:「奏さぬ。勅は勅として、そのまま胸に置く。我らは動く。世の声を、運ぶ。
それだけでよい。」
四季惟古:「この乱で、我らは、名を一つも残さぬ。手柄は、すべて人のものだ。
覚えておけ。我らが動いたことが世に知られることは我らの負けを意味する。」
社を出るとき、十文字千臣が、惟古に小声で言った。
十文字千臣:「ひとつだけ、確かめさせてください。……
この勅の一行は、帝が、お独りで決めたものでございましょうか。」
四季惟古:「そうだ。独りで決めた。だから、誰も止められなかった。」
十文字千臣:「誰も、止められなかった。」
四季惟古:「殿の上で、最後に物を言うのは、いつも、子への心だ。
……我らは、それも、国として扱う。」
【場面④】美濃・安八磨郡
同じ頃、美濃の安八磨郡では、湯沐令の多品治が郡司の家々と囲炉裏を囲んでいた。
多品治:「都の人事は聞いたか。」
郡司A:「聞いた。だが、われらの名は、最後まで出なかった。」
郡司B:「新しい太政大臣は、われらに何をしてくれる。」
多品治:「何もしてくれない。何もする気がないから、何も言ってこない。」
品治は、囲炉裏の火を箸で動かした。
郡司A:「朝廷は、われらの不満に気づきませんか。」
多品治:「朝廷は帳簿しか見ていない。帳簿に書いていないことは、朝廷の目には見えない。」
戸口の外で、誰かが咳をした。旅の僧が、雪を払って座敷の端へ入ってきた。
品治の家の者が、握り飯を一つ渡した。
旅の僧:「東の国は、この冬、道が固うございます。雪が締まって、馬が、一日で美濃の關まで出ます。……春になれば、雪解けで、道は、沼に戻ります。」
郡司B:「お前は、どこの者だ。」
旅の僧:「諸国を歩く者でございます。」
僧は、握り飯を礼に包み、囲炉裏の煙の向こうへ消えた。外は、吹雪だった。
多品治:「覚えておく。……道は、雪が締まっているうちが、早い。」
【場面⑤】近江の宮
近江の宮では、喪の触れの文章をめぐって、官人たちが言葉を磨いていた。
官人:「吉野への触れは、礼を尽くした文面にいたしましょう。」
中臣金:「丁寧にするな。丁寧に書けば、吉野への敬意と読める。
大海人皇子への敬意を、公式の文書に書くな。」
官人:「では、どこまで冷たく。」
中臣金:「冷たく、ではない。事務的に伝えればよい。事務的な文面は、感情を読ませない。
読めないものは、消せない。」
触れは吉野へも届いた。大海人皇子はそれを黙って受け、吉野の静けさを崩さなかった。
そのあと、宮の内で、書かれない話が始まった。
蘇我果安:「吉野の舎人が増えているという噂です。数百、と。」
中臣金:「噂の数百は、実際には数十と見る。
皇子が吉野に下るとき連れたのは、舎人二十余人、女嬬十余人だけだ。それでも増えているなら。」
蘇我果安:「ならば、どうします。」
中臣金:「増えている間は、何もするな。まず情報を集めろ。吉野をどうするかは、そのあとだ。」
蘇我果安:「どうするとは、吉野の皇子を。」
中臣金:「最悪の場合は、消す。ただし、今は何もしない。理由をこちらで作れば、地方の家々が恐れる。恐れた家々は、乱のときに味方にならない。手を下す理由は、向こうから出るのを待つ。」
蘇我果安:「このうわさは、誰から入りました。」
中臣金:「……下の者からだ。名は、出てこなかった。」
蘇我果安:「名の出てこないうわさは、書けません。」
中臣金:「書けぬものは、公式には存在しない。存在しないものは、裁けぬ。……放っておけ。」
【場面⑥】吉野の小屋 | 大海人派(吉野)
鸕野讃良皇女:「お父上の世が、終わりましたね。」
大海人皇子:「終わったのではない。変わったのだ。」
鸕野讃良皇女:「変わった世を、皇子はどう見ています。」
大海人皇子:「今は、こちらが、見張られる側だ。見張られる者が、いつまでも静かでいられるかどうかは、相手の都合次第だ。」
鸕野讃良皇女:「見張られる者が、その都合に、いつまでも従うものですか。」
大海人皇子:「その日まで、われらは静かでいる。静けさを、道具として使う。」
鸕野讃良皇女:「道具は、壊れます。」
大海人皇子:「壊れる前に、替える。それが、見張られる側の仕事だ。」
同じ頃、吉野の舎人の一人が、皇子に訊いた。
舎人:「都から見れば、われらは、落ちぶれた集団に見えますか。」
大海人皇子:「見える。それでいい。落ちぶれて見える者は、都から命を奪われない。
危険なのは、目立つ者だ。われらは、目立たないのが、一番の武器になる。」
舎人:「でも、皇子は毎晩、灯りを灯しています。目立つのでは。」
大海人皇子:「灯りは目立つが、理由がある。祈りだ。理由のある目立ちは、罪にならない。
理由のない動きだけが、都に疑われる。」
【場面⑦】吉野の峰
翌年の五月、吉野の峰に炬火が灯され、大海人皇子が仏法を講じた。
舎人:「灯りが灯りました。」
大海人皇子:「都の目には、祈りと映る。」
舎人:「では、それ以外の目には、何と映りますか。」
大海人皇子:「知らぬ。……知らぬが、この火を、誰かが見ている。そう思って灯している。」
舎人:「合図では、ないのですか。」
大海人皇子:「挨拶だ。不満を溜めている者たちへの、挨拶だ。
都の者が見張るなら、こちらから先に、動く者たちへ、無言で挨拶を送る。
吉野にいるわれらは、静かなのではない。動く順序を、待っていたのだ。」
舎人:「順序とは、何ですか。」
大海人皇子:「世が動く順序だ。灯り、声、道、旗。この順を守る。
逆にした者は、乱のあとに、一番多く死ぬ。」
舎人:「皇子は、いつまで待つのですか。」
大海人皇子:「順序が揃うまでだ。都が人事を完成させ、父上が世を去り、東国の家々が声を上げる。
三つが揃ったとき、私は動く。動くと決めているから、今日まで静かでいられたのだ。」
【場面⑧】熊野三山の奥・社 | 八咫烏(数の烏→八咫彦)
山の雪は、まだ残っていた。十文字千臣が、社へ戻ってきた。
十文字千臣:「吉野の峰に、火が入りました。」
四季惟古:「朝廷では、何と読んでおる。」
十文字千臣:「祈りと、読んでおります。誰ひとり、合図とは読んでおりません。」
四季惟古:「それでよい。あの方は、我らの名を知らぬ。
我らの名を知らぬまま、我らと同じ順序で動いた。……ならば、この乱の勝ちは、あの方だ。」
十文字千臣:「ひとつ、気になります。あの方は、吉野で、『誰かが見ている』と申したそうです。……我らが見ている、と。」
四季惟古:「そうか。」
十文字千臣:「そのうち、あの方は、我らの名を、探し始めるのでは。」
四季惟古:「探すだろう。……だが、名は、残さぬ。あの方がすべてを見終えた日、あの方の胸のうちだけに、我らがいた証拠が残る。それでよい。……それが、掟だ。
それに、即位されたなら、自ずと理解されるだろう」
千臣は、何も書き残さなかった。書き残せば、外から読める。
読めた名は、乱のときに、一番先に危なくなる。
史実の照合に参照した資料
四日市市教育委員会・くるべ古代歴史館「壬申の乱(現代語訳)」 https://www.city.yokkaichi.mie.jp/kyouiku/kurube/school/jinshinnoran.html
関ケ原町歴史民俗学習館「壬申の乱」 https://rekimin-sekigahara.jp/main/jinsin_war/




