第一話 太政大臣の座
【場面①】近江宮・大極殿 ( 朝廷)
天智十年十月。近江の宮の大極殿に、百官がそろった。
天智天皇:「大友皇子を太政大臣に任じる。
左大臣に蘇我赤兄、右大臣に中臣金。
御史大夫に蘇我果安、巨勢人、紀大人。」
天皇の声は低かった。石の床の上で、百官の頭がそろって下がる。
息をのむ音だけが、殿に残った。
【場面②】宮中の渡殿 | 朝廷の中枢(大友派の会話)
蘇我赤兄:「太政大臣という役の名前は、生まれて初めて聞いた。」
中臣金:「東宮という役職に、新しい名前を付けただけのことだ。」
蘇我赤兄:「そのまま東宮にしておけばよかったのに。」
中臣金:「東宮には大海人皇子がいる。」(金は声を落とした。)
中臣金:「名前を替えたのは、立場を替えるためだ。立場が替われば、座る人間も替わる。」
蘇我赤兄:「つまり。」
中臣金:「弟君の即位の道を断ち切ったということだ。」
蘇我赤兄:「断ち切った道は、戻らないか。」
中臣金:「別れた道は二度と交わらない。ただ、交差する場所は。
世が揺れたとき、探される。その交差する場所がどこで見つかるかだ。」
蘇我赤兄:「陛下は、もともと弟君に譲るおつもりだったのではなかったか。」
中臣金:「そうだった。だが、人の心は動く。我が子がかわいくなれば、弟より子だ。」
蘇我赤兄:「そんな理由で、天皇の座が動くのか。」
中臣金:「天皇の座は、いつもそんな理由で動いてきた。」
【場面③】近江宮の外れ・大海人皇子の宿 | 大海人派
同じ夜。宮の外れの宿に、宮からの報せが届いた。
舎人:「宮から報せです。大友皇子が太政大臣に。
左大臣に蘇我赤兄、右大臣に中臣金、御史大夫に蘇我果安、巨勢人、紀大人。」
大海人皇子:(しばらく黙って)「……そうか。」
大海人皇子:「東宮は、どこへ行った。」
舎人:「東宮は、まだ大海人皇子でございます。」
大海人皇子:「そうか…でもその役目は、もう意味をなさない。
兄は東宮とは別の役を大友皇子のために用意したのだ。」
舎人:「では、皇子が次に座る予定だった席は。」
大海人皇子:「決まっている。兄が座らせるのは、我が子だ。」
大海人皇子:「兄は、私に譲るつもりでいた。その心が、子へ移った。
それだけのことだ。子がかわいいのだろう。……私にも、わかる。」
舎人:「皇子は、どうなさるおつもりですか。」
大海人皇子:「このまま、都にいれば、何か理由をつけて粛清されるだろう。
殺される前に、自分から身を引く。出家を願い出る。」
舎人:「そんな・・・お考え直しください。」
大海人皇子:「考え直す余地などないわ。今の朝廷に、私の居場所はない。
残っているのは死を待つだけことだ。」
大海人皇子:「吉野へ行く。皇祖の神の聖地だ。祈るには、よく似合う場所だ。」
【場面④】赤兄の私邸 | 朝廷
渡殿の柱の陰に、御史大夫の巨勢人が控えていた。
巨勢人:「大海人皇子を、このまま放っておいていいのですか。」
中臣金:「今は放っておく。出家した者に兵は持てない。
ただし、吉野に変な動きがあれば、こちらが先に動く。」
巨勢人:「では、今、手を下すのは。」
中臣金:「やめておけ。先に刀を抜いた方が負ける。
相手に名分をやるのが、いちばんまずい。
手を下す理由が向こうから生まれるのを待つのだ。」
同じ月末。赤兄の私邸で、数人の官人が灯りの下に酒を交わしていた。
官人A:「大海人皇子が立ち上がれば、天下は半年で二つに割れます。」
蘇我赤兄:「割れた世を、われわれで建て直せるか。」
官人A:「建て直せません。だから大友皇子なのです。
若い者は、われわれの意のままに操れます。」
官人B:「操れるやつを選ぶ。それだけのことですか。」
蘇我赤兄:「政治とは、それだけのことだ。」
官人A:「しかし、吉野の皇子を放っておいていいのですか。」
蘇我赤兄:「今は放っておく。出家した者に兵は持てない。
ただし、皆、肝に命じてくれ。吉野に変な動きがあれば、すぐ知らせてくれ。
内々にこちらで処理する。誰にももらすな。」
【場面⑤】菟道の渡し
吉野へ下る大海人皇子の行列は、小さかった。菟道の渡しまで、赤兄と金が礼を尽くして見送った。
中臣金:「道中は、どうでしたか。」
大海人皇子:「静かだった。」
中臣金:「静かなら結構。静けさを壊す者は、世から消えます。」
大海人皇子:「それは、私に向かって言っているのか。」
金は答えず、深く頭を下げた。皇子は笑った。
大海人皇子:「右大臣。吉野の者は、何か良からぬことを考えているという噂がある。」
金の肩が、一瞬固まった。
中臣金:「——皇子は、吉野に行かれ何をなするおつもりですか。」
大海人皇子:「吉野に登るだけだよ。」
渡し舟が離れると、岸に残った金は、長くその背を見た。
蘇我赤兄:「何か言われましたか。」
中臣金:「いえ。何も。」
【場面⑥】近江宮・天皇の寝所
天皇の寝所では、五位以上の官人たちが順に御前に進み、誓った。
官人たち:「大友皇子に、忠を奉じます。」
誓いの声は、寝所の外まで聞こえた。
【場面⑦】宮中の渡殿
蘇我果安:「これで誓いは、一つになりましたな。」
中臣金:「朝廷の中では、な。朝廷の外の声は、まだ誰の耳にも届いていない。」
蘇我果安:「地方の豪族たちには、誓わさなくていいのですか。」
中臣金:「朝廷が地方を気にする必要はない。地方は、われわれに従うしかない。」
蘇我果安:「吉野の皇子の動きは、掴めているのですか。」
中臣金:「掴めていない。……掴めていない者が、最後に動くのだ。」
灯りは、さらに小さくなった。
史実の照合に参照した資料
四日市市教育委員会・くるべ古代歴史館「壬申の乱(現代語訳)」
https://www.city.yokkaichi.mie.jp/kyouiku/kurube/school/jinshinnoran.html
関ケ原町歴史民俗学習館「壬申の乱」 https://rekimin-sekigahara.jp/main/jinsin_war/




