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導きの火 ー千年を語り継ぐ八咫烏  作者: 忍びでござる
第二章 白村江の戦 ―敗戦の起点 その壱―
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第三話 負けても国が残る形

【場面①】筑紫・港

船は、帆を上げて待ち、兵は、海に慣れないような不安な顔付きが並んでいた。

中大兄は、その顔を一つ一つ見た。

中大兄:「海を見たことがない者たちだ。われらと同じだ」

我らの祖も、港にいた。船の数を、数えた。四百に届くか、届かぬか。

その数を、北の海の報せとともに、熊野の山に伝えた。


国が出せる船の数が、そのまま、国の覚悟の大きさになる

港には、出立の日が決まらぬまま、兵が置かれていた。

正月の行幸から、季節が二つ、変わっていた。

国は、大きい物を、なかなか動かせぬ。動かそうとすればするほど

裏の物が先に動く。兵の顔から、笑いが消える。

我らの祖は、それを目で確認していた。

それが終わるころ、ようやく、国は動き出す。


【場面②】港・出立の朝


船に乗り込む前に、年寄りの船頭が、若い兵に何かを言っていた。

中大兄は、立ち止まって聞いていた。


船頭:「潮は、朝と晩で、向きを変える。潮を読まずに漕ぐ者は、海に、飲み込まれる。

飲み込まれたら、泳ぐしかあるまい。泳げるのか」

若い兵:「泳げません」

船頭:「なら、慎重に潮を読むことだな」


その言葉を繰り返し、言い聞かせていた。

中大兄は、その小さなやり取りを、聞き逃さなかった。


景信の語り:「潮の話は、軍の動きではない。漁師の動きだ。

出征する兵に必要なのはその海の声だった。大軍はしばしば、声を持たぬ。

将の号令だけが声になる。号令は、潮を読まぬ」


この港のひとときを、中大兄は、終生、忘れなかった。


【場面③】筑紫・朝倉宮


三月には、筑紫の朝倉橘広庭宮まで下向された。いまでいう福岡県朝倉市のあたりである。

出兵の指揮を、自らとるためだった。

天皇が、御自ら、派遣軍の総帥となる――前代未聞の決断である。

中大兄は、同行した。朝倉の宮は、まだ新しい。柱の香りが、朝の霧に混じっていた。


中大兄:「母上。朝倉の地は、まだ寒さが厳しい時でございます」

天皇:「寒いのは、よい。頭が冴える」

天皇は、北の空を見ておられた。

天皇:「中大兄。見えるか」

中大兄:「……海は、見えませぬ」

天皇:「見えるのだ。ここから、北はすべて海と考えるのだ。百済は、その海の向こう」


陛下は、そう言って、中大兄の隣にお立ちになった。

天皇:「われは、お前に国を渡す前に、一度、これを教えておきたかったのだ」

中大兄:「これ、とは」

天皇:「負けても国が残る形を、教えておきたかった」

天皇:「百済は、王を亡くして一夜で消えた。王がおらぬ国は、一夜で消える。

われらはそうならぬように、継ぐ者を残しておかなければならない」


中大兄は、母の横顔を見た。

中大兄:『母上は、ずっと、これを考えておられたのか。出兵は、半島のためではない。

列島のための、受けの構えなのか』(心の中で)

中大兄:「母上は、負けることを、お考えですか」

天皇:「私は負ける気はない。しかし百済は、負けたのだ。されど――」

天皇は、一瞬だけ間を置いた。


天皇:「海の向こうの火は、風に煽られ焼き尽くす。火を見た者は、火を、忘れぬ。

忘れられぬ火を、次の国の形にどう生かすのか、それを決めるのはお前の代だ」


【場面④】灯りの下・語りの教え


景信:「斗真。ここが、この章の芯だ」

斗真:「……負けても国が残る形、でしたね」

景信:「そうだ。百済は、七百年続いた。されど、一夜で消えた。

王が消えたからではない。王を残しておく形が、消えていたからだ」

景信:「国は、形で残る。言葉で残るのではない。人の心でさえ、残らぬ。形だけが、残る」

斗真:「我らの千年も、形で、ですか」

景信:「そうだ。語り部の席の形、評定の形。形を残す者が、名を持たぬ。

名を持つ者が、国を消す。白村江は、その対比だ」

我らは、その言葉を、北の空に立つ二人の後ろ姿ごと、覚えた。


【場面⑤】朝倉宮の夜・火の番


その夜、宮の外れで、小さな騒ぎがあった。火の番の若い兵が、夜中に寝ていた。

目を覚ました者たちが、言い争った。罰を与えるかどうか。

陛下は、それを聞いて、こう言われた。

天皇:「若い者に罰を与えるな。火の番を、二人にせよ。

寝たのは、番を一人にしているからだ。人を責める前に、形を直せ」

中大兄は、その一言を、後々まで忘れなかった。人を責める前に、形を直せ。


【場面⑥】灯りの下・語りの教え


景信:「斗真。ここを、聞き逃すな」

斗真:「……火の番を、二人に、ですね」

景信:「そうだ。我らの灯りの番が、今も必ず二人なのは、この朝倉宮の夜からだ。

祖は、この一言を、千年の形に変えた」

景信:「教えとは、そういう物だ。史書に載らぬ一言が、後々まで、誰かの夜を守る」

斗真:「人を責める前に、形を直せ。父上の好む言葉に、どこか似ております」

景信:「眠るな、とは言えぬ。眠るなら、番を二人にせよ、と言う。

言葉を、現実の形に直す。それが、治める者であり、導く者だ」


【場面⑦】朝倉宮・枕辺

七月。

天皇は、朝倉宮で病に倒れられた。

枕辺の灯りは、白いまま、一度も揺れなかった。

番の者たちが、油を絶やさなかった。

中大兄は、御簾の外に座り、母の声が途切れるたびに、姿勢を直した。

されど、そこから始まる言葉は、母から子へ、ではなく、国を残す者から、

国を担う者へ渡される物であった。中大兄は、枕辺から離れなかった。


天皇:「中大兄」

中大兄:「ここにおります」

天皇:「……われの声が、届くか」

中大兄:「届いております」

天皇:「ならば、良い。聞け。先に、港を固めよ。半島は、その次でよい」

中大兄:「母上……」

天皇:「われは、出兵を、諫めなかった者の責めを、背負って来た。

お前はそれを背負うな。お前は内側を見よ。われはここで終わる」

天皇:「若い将たちを、無闇に突っ込ませるな。海は、引き方を知らぬ者を食う。

勝てぬと悟ったら、引きなさい」

天皇:「引き方を知らぬ将は、負け方も知らぬ。負け方を知らぬ将は、国も知らぬ」


七月二十四日。

朝倉宮で崩御された。享年六十八。


【場面⑧】崩御の後

前線に最も近い九州で、命を落とされた。出兵の指揮をとる前に。

中大兄は、泣かなかった。泣く間もなかった。

我らは、宮の外れで、烽の番をした。北の海を見る烽は、その夜、一度も燃えなかった。

燃やしてはならぬ夜だった。

帰国の列の中で、中大兄は、初めて一人になった夜

母の言葉を初めからもう一度、頭の中で聞き直した。


天皇の遺言:――われは、行く。

お前は、内側を思え。

されど、国論は、なお、前へ出ようとしていた。


我らは、飛鳥の宮の周りに置かれた。称制の周りに、名を持たぬ者が三つ。

宮の三方向に、一人ずつ。決断の夜の前には、必ず、その形に置かれる。


景信:「決断を迫る者が来る方向を、我らは知らぬ。

されど、三方向を覆えば、足りぬ分はない」



灯りの芯が、一度、鳴った。


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