第二話 われは行く
夜。鎌足が、中大兄のもとに来た。
我らは、廊下の陰で、その対話を聞いた。聞くべき夜であった。
【場面①】熊野の社・灯りの下 景信の語り
景信:「会議が割れた夜には、必ず、誰かが、誰かに会う。
千年、我らは、その灯りの下で待つことを覚えた」
斗真:「鎌足は、なぜ、その夜に限って、殿のもとへ行ったのでしょう」
景信:「決められぬ者が、決める者のそばへ行くのだ。人は、決断の直前、独りでいられぬ。
今夜だけでも、そばに灯りの欲しい男だ。それだけのことだ。
されど、歴史の多くは、その『それだけ』の夜に、動く。
お前も、いずれ、その夜を持つ」
【場面②】宮中の廊下
廊下の灯りの下で、鎌足は、口を開いた。
鎌足:「殿」
中大兄:「鎌足。お前は、海で戦をしたことがあるのか」
鎌足:「……ありませぬ」
中大兄:「われもない。経験したことのない戦は、大抵、負ける。だから、口をつぐむ。
赤兄は、海の恐ろしさを、正しく言った。われは、その恐ろしさを、まだ測れぬ」
鎌足:「では、どう致します」
中大兄:「母上が、決めることだ。われらが決めてよいことではない」
中大兄:「母上は、斉明の御代に、二度、国を動かしてこられた方だ。決断の重さを、知っておられる」
鎌足:「陛下は、お年を召されております」
中大兄:「ゆえに、われらが、母上の背中を守るのだ。
決断の重さは、決めた者が背負う。後のことは、われらが背負う。それしかあるまい」
鎌足は、頭を下げた。答えは、いらなかった。
鎌足が退って行ったあと、中大兄は、しばらく動かなかった。
障子越しに、廊下の足音が遠ざかるのを、聞いていた。
この若い男は、改革の道を、自分の体で引いている。
されど、道を引く者には、後ろが見えない。
後ろを見るのは、われの務めだと、中大兄は思った。
我らは、廊下の陰で、その後ろ姿を、覚えた。
【場面③】灯りの下・語りの戻り
景信:「決断の夜には、足音が必ず残る」
景信:「その足音の重さで、我らは、国の覚悟を測る。
尺も、秤もない。足音でしか、測れなかった我らは、廊下の陰で、その後ろ姿を、覚えた。」
【場面④】御前
その夜、中大兄は、母の御前に呼ばれた。斉明天皇は、灯りの向こうに座っておられた。六十を越えられていた。目は、疲れていたが、澄んでいた。
天皇:「会議は、割れたと聞く」
中大兄:「……はい」
天皇:「中大兄。お前は、どう考える」
中大兄:「まず、港を固めたいと存じます。半島へ出るか否かは、その後に」
天皇は、静かに笑われた。
天皇:「お前は、そういう子だったな」
中大兄:「母上」
天皇:「われは、行く」
中大兄は、息を呑んだ。
天皇:「ゆえに、お前に申す。われが半島へ行き、そこで戦を指揮しよう。
お前は、国に居て、国を支えよ。それが、われの考えである」
中大兄:「母上は、六十を越えておられます。海を渡り、九州まで下向される道のりは――」
天皇:「ゆえに、われが行くのだ」
天皇は、やわらかく、しかし動かさぬ声で言った。
天皇:「四百年、この国は、半島の技を受け入れてきた。
その受け口を、われの代で閉じるわけにはいかぬ。
受け口を閉じた国は、やがて、受け取る力そのものを失う。
それに、恩は返さねばならぬ。受けた側の都合で、切れる物ではない。
それにお前が行くというのか。お前が半島へ赴けば、飛鳥の改革は、誰が抑える。
改革の形が、われらの代で崩れる」
天皇:「中大兄。聞け。百済がなくなれば、次に来るのは、この倭の国だ。
改革の威信は、内だけではない。外にも見せねばならん。
ここで弱腰を見せれば、道半ばの改革は、内から崩れる。
赤兄の恐れは、正しい。
されど、その恐れを国の力に変えるのが、玉座にある者の務めだ」
中大兄は、頭を下げた。
中大兄:「……御意」
天皇:「よい。ただし、海のことは海に長けた者に任せよ。お前は、防御を固めよ」
――陛下は、そう言って笑われた。
我らは、御所の外の闇に、その一言を聞いていた。御前に仕える者は、外に退けられていた。
聞けたのは、廊下を渡る声の響きだけである。されど、その響きで、分かった。国が、動いた。
我らは、その夜、西へ報せを渡した。
――女帝、御自ら、西へ下る。受け手を固めよ。
文は、山から山へ、一晩で渡った。
【場面⑤】灯りの下・語りの教え |
景信:「我らの烽は、戦の知らせを燃やすための物ではない。受けの用意を、先に渡すための網だ。
されど、受けの用意とは、時として、焦土の用意でもある。国の岸を、焼き払う覚悟のことである」
景信:「それを、この時の国は、まだ知らなかった。斗真。この一言を、覚えておけ」
斗真:「……われは、行く、ですか」
景信:「そうだ。四文字だ。されど、この四文字で、国が動いた」
景信:「斉明天皇は、二度、玉座に着かれた方だ。一度は座を譲り、また還られた。
国を動かすとは、どれほど重いか、誰よりも知っておられた。
ゆえに、言葉は、短くてよい。短い一言は、割れない。
長い言葉は、解釈の余地を生み、余地は、割れ目になる。
国を動かす言葉は、短ければ短いほど、重い」
斗真:「難波への下向も、朝倉への下向も、二度目の御代様の御判断ですね」
景信:「そうだ。お前は、始動の夜、われらが受けた勅を、まだ一行しか知らぬ。
されど、一行という形は、この夜から始まっている。国を動かす言葉は、千年前から、短かった。
千年前から、一行だった。形は、繋がっている。夜と夜は、繋がっている」
斗真:「決断の重さは、決めた者が背負う――殿の言葉も、重なりました」
景信:「うむ。継ぐ者は、決める者の背中を守る。それが、次の形だ。
我ら頭領も、同じだ。決めるのは頭領。残りは、背中を守る。
形は、変わらぬ。千年、変わらぬ」
斗真は、灯りを見た。はじめて聞く語りだった。
されど、聞きながら、なぜか、始動の夜の広間を思い出していた。
景信が、一行の勅を床に置いた、あの夜を。
斗真:「陛下の御決断は、一行の勅と、同じ形だ」
景信:「そうだ。ゆえに、我らは、勅を受けたとき、これを思い出さねばならぬのだ。
短い一言に、長い背中が隠れている」
斗真:「決める者の背中には、必ず、守る者がいる、ということですか」
景信:「そうだ。母上の背中には、中大兄がいた。殿の背中には、鎌足がいた。
では、頭領の背中には、誰がいる」
斗真:「我らが、おります」
景信:「守るとは、剣を抜くことではない。問いを持つことだ。頭領が決めかねている夜に、問いを、一つ、渡す。答えは、渡さぬ。答えまで渡せば、それは守りではなく、代わりに決めることになる。
次の語りは、海だ。国が、海を見る夜だ」
斗真は、自分の席を思った。一段下の席。聞く席。されど、いまは、担う側の席でもある。
斗真:「父上に渡すべき問いを、私は、まだ、一つも持っておりません」
景信:「持っておる。今夜、お前は幾つも問うたではないか。問いは、数えて持つのではない。灯りの下で、夜ごと持つ物だ。千年は長い。されど、最初の問いは、早い方がよい」
灯りの芯が、一度、鳴った。
――六六一年、正月。斉明天皇は、難波の港へ行幸された。




