第7話:来敏は不満を爆発させる
宮廷には派手な装飾などはないが、精巧にきっちりとしつらえられている。
きっとこのシンプルさが諸葛亮さんの趣向なのだろう。
東宮の渡り廊下を、木の葉ひとつ落ちていない庭を眺めながら、なんとなくそんなことを考えつつとぼとぼと歩く。
言うは易く行うは難し、とはよく言ったもので。
僕が専攻していると名乗っている「実学」は、実際に行動することを重要視する学問だ。
ここで僕が来敏殿の和解説得に失敗すれば、先日、劉禅に説いた講義も全て意味がないものになってしまう。
「浮かない顔だな、李仁」
「貴方のせいですよ、若君」
そして何故か僕の半歩後ろからとことことついてくる劉禅。
ここ数日ずっとこの調子である。
何故だか分からないが懐かれてしまったらしい。理由は知らない。
いや、昔からそういえばこうだった。
生徒に懐かれやすい、というよりはガキに舐められやすい。
パッと見でなんか腰が引けてるもんな、僕って。
僕だって厳しく生徒を叱れる威厳があれば、授業中に変に騒がれたり、居眠りこかれずに済んだんだ。
威厳が欲しい。何度それを神に願いながら眠ったことか。
しかし転生を果たしても、ついぞその辺りの能力値は上がらなかった。
「あの、若君。貴方がずっと近くにいると、こっちも仕事が出来ないのですが」
「気にせず仕事をしてくれて構わないぞ」
「あのですねぇ、この東宮の官吏は皆、貴方様を第一に考えて動いているのです。そんな人が近くでちょろちょろしてたら何も手につかんでしょう?」
「はははっ、李仁の困っている顔はいつ見ても愉快だ」
駄目だ、完全に舐められてる。こんの内弁慶の生意気小僧めぇ。
そんなんだから暗君になるんだぞぉ?
ただまぁ、今まで限られた人にしか心を開かなかったと噂の王太子様だ。
このところちゃんと講義にも武芸にも勤しんでおられるようだし、兄さんからもこれはこれで都合がいいからと僕は放置気味。
いやぁ、でもこんなことで目立ってしまったら、次から次に厄介事が。
もう嫌だよぉ、平穏に過ごしたいよぉ。
「そういえば李仁は、妻帯しているのだったな」
「尹黙殿の妹君が、我が妻で御座います」
「二人は同郷であったな。ということは昔馴染みか」
「そうですね。尹黙殿よりも妻の方が歳も近かったので、幼いころはよく互いの庭で遊んでいた記憶がございます」
「それは、羨ましいなぁ」
からかわれているのだと思っていたが、劉禅は本当に羨ましそうに眉尻を下げていた。
そういえば先日の話も熱心に聞いていたし、まぁ、難しい年ごろなのだろうな。
そんな話をしていると、目的地にたどり着いた。
出来るだけ辿り着かないように歩みも遅々としたものにしていたんだけれども。
そう、太子家令"来敏"の執務室である。
ただの引き戸が、難攻不落の要塞の城門のように重苦しく感じた。
心なしか来敏の下で働いている役人たちの顔も暗いような、いや、確実に暗い。
ここを行き交う役人たちに、当然のごとく「可哀想に」という感想が真っ先に思い浮かんでしまう。
「では、頼んだぞ、李仁」
◇
「嫌じゃ」
「まだ何も言っておりませんが……」
来敏は相変わらずの不機嫌であった。
下唇をうんと突き出し、しかめっ面のアオブダイのような顔をしている。
先の講義で人の信頼を得るための当たり前を説いたわけだが、こうなってしまうとどうしようもない。
取り付く島がないというか、相手がそもそも分かり合おうとしていないのだ。
じゃあ無理だよ。
話し合いが出来る人ではないと評判だが、まさしくその通り。
僕は説得に、いきなり詰んでしまったと言っていい。
「その、何が嫌なのですか。太子様も来敏殿の講義を待っておられます」
「嫌なものは嫌なんじゃ!ケッ!」
「理由を教えてくださいませ!」
ずずいと詰め寄ると、アオブダイ来敏は更にしかめ面を深くする。
「……お前は、まだ漢中王殿下と面会をしたことは無かったな」
やっと目を合わせてくれた。
何かを強く訴えかけてくるような、そんな目である。
漢中王、劉備。
この国の主であり、僕は劉備政権に加わってからそこそこ長いが、まだお会いしたことは無い。
「まだ、御座いません」
「殿下を見れば分かる、あれぞ人傑じゃ。それに異を唱えるものは一人とておるまい。じゃからこそ失望するのだ、あの小僧に」
「小僧って。まだ子供では御座いませんか。だからこそ我らで太子様を」
「違う、お前は何も分かっていない!理屈ではないのだ!生まれ持った器は変わらぬ。ならば儂は、漢中王のために働きたい。馬鹿のお守り役など御免被る!!」
来敏は履き物を脱ぎ、こっちに投げつける。
しかしその投擲はあまりに弱く、たった数メートルの距離すら届かず、僕の目の前にポテンと落ちた。
落ちた履物を拾い上げ、何故だか無性にそれを来敏の顔に投げつけたくなった。
そんな喉奥の感情を静かに飲み込み、息を吐く。そしてその履物を差し出し、来敏に返した。
代わりと言っては何だが、精一杯に睨みつけながら。
「いい加減になさいませ。太子様は英傑の器であられます。その器を磨くことこそ、我らの責務ではないのですか」
すると僕の意見が気に喰わなかったのか、来敏の顔はみるみる真っ赤に。
あ、あれ? 爆発するんじゃないかこれ?
「こんの、出ていけぇえええ!!」
「いやっ、あのっ、落ち着いて話を!」
「どいつもこいつも不愉快じゃ!はよう出ていけと言うておろうが!!」
今度は手当たり次第に筆やら書物やらが弱弱しく投げ飛ばされ、こうなったらもうこっちも逃げるしかない。
部屋から飛び出すと、墨に汚れてしまった僕に周囲の人達は「可哀想に」という目を向けており、劉禅はどうやらもうどこかに行ってしまったらしい。
ちくしょう!辞めたい!
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