第5話:李仁は変態に抱かれる
このままじゃ駄目だ、というのは僕にもハッキリと分かる。
なぜ劉禅が「暗君」と呼ばれるようになってしまったのか、というのもなんとなく。
無名の人間に転生し、守るべき人も出来て、あとは平穏に暮らすだけだと思っていた。
しかし既に関わってしまった以上、僕はやっぱり現状を放っておけない性分らしい。
その結果として歴史を変えることになろうとも。
なんて、思い上がりも甚だしいのかな。
「李仁、今日はまず同僚との挨拶を済ませておいてほしい。昨日は慌ただしくてまともに挨拶回りも出来ていないだろう」
「そういえば、そうですね。でも太子様の講義については」
「来敏殿がへそを曲げて動いてくれないので、こっちで勝手にやるわけにもいかず、かといって太子様から講義を請う様子もない。どっちかが折れるまで様子見だ」
東宮は今日もどんよりとした曇り模様。
まだ職場についていないのに帰りたいと思うのは、古今東西万民共通の願いなのやもしれない。
そして兄さんはいつも通り眠そうな顔をしている。
いつか偉い人の前でも居眠りをしてしまいそうで、ちょっとハラハラするんだよなぁ。
「じゃあ、挨拶が済んだら執務室に来てくれ。漢中王殿下(劉備)が次なる戦のために良馬を全て召し上げてしまわれたから、宮中は駄馬ばかりだ。その対応をせねばならん」
戦に次ぐ戦。そう、この国は「戦争の国」である。
だって君主が、あの「劉備」なのだから。
後漢末期の動乱の乱世で、天下の戦場を駆け巡り、ここまで来た上り竜の如き英傑。
戦乱が劉備を生み、劉備はその戦乱の中で成り上がってきた。
そんな血生臭い国の中で、僕たちは平穏を享受している。
直接会ったことは無いけど、そんな英傑が自分の父であるとしたら。
そして自分がその後を継ぐとなれば。
そんなの、想像することすら難しい。
でもそれが劉禅に根差しているような気がしてならない。
「どうにかならないものかねぇ」
このままじゃいけないとは思っていつつ、じゃあどうすればいいかというところまでは思いつかない。
いつの時代でも、この世の悩みごとの九割九分が人間関係。
一朝一夕でどうにかできるものではないのよなぁ。
そんなことをぶつぶつと呟きながら、兄さんと分かれ、教えられた区画へと向かう。
廊下を行き交う官吏は皆キビキビと真面目に働きながらも、やはり表情が硬く息苦しそうな人ばかり。
きっとブラック企業というのは、こういう空気感の職場のことを言うのだろう。
あ、そういえば挨拶しないといけない同僚の名前を兄さんから聞いてなかった。
見れば分かるってだけ聞いてたんだけど、駄目だ、僕までぼーっとし過ぎてる。引き返すか?
「フンッ!フンッ!!」
官吏の行き交う、中庭近くの広い廊下の一角。
どこからどう見ても百点満点の変な人が居た。
上裸でむんむんとした蒸気を発しながら片腕で腕立て伏せを繰り返し、浅黒い肌に玉のような汗が走っている。
見れば分かるって兄さんは言っていたけど、あれは違う。
たぶん本物の変質者だ。通報しなきゃ!
「おっ、李仁殿では御座らんか!」
筋トレの悪魔に気づかれた。周囲の人が一斉に僕へ視線を集めて、距離を取る。
仲間だと思われたのだろう。違う!そんな目で見るな!僕をあんな変態野郎と一緒にするな!
「と言っても分からぬか。つい先日まで太学で吾輩は、数多居る生徒のうちの一人であったからな!」
「あっ、僕に話しかけてます?」
「勿論。尹黙先生の補佐をされていらした李仁殿であろう。これから同僚となる、太子舎人(太子の守衛を司る)の"董允"と申す!」
「とういん、董允って、あの!?」
「え、如何にも吾輩は董允であるが」
董允、蜀漢王朝を代表する名臣の一人である。
劉禅の指南役として常にその振る舞いを正し続け、彼が存命の間は劉禅もしっかり皇帝の役目を果たしていたとか。
いかつくて厳しい神経質なお爺ちゃんを想像していたのに、なのに、こんなに太いだなんて思ってもいなかった。
もう武官よりも武官っぽい体じゃん。
あ、胸の筋肉動かすの止めて。普通に笑っちゃうから。
「あのー、なんでここで腕立て伏せを?」
「太子様の警護を預かる身として、己が肉体を鍛えるのも大事な役目の一つと思い、暇さえあれば鍛えております」
うーん、なんだろう、もしかしたらすごい馬鹿なのかも?
「そ、そうですか。そういえば、聞けば僕たちは年齢も同じだとか。これから共に頑張ってまいりましょう」
「勿論でござる!」
汗ばんだ大きくて広い手を握り、固い握手を交わす。
早く手を洗いたい気分だ。心なしか、ここの周りだけ湿度が高くなっているような。
「それにしても先日は災難でございましたなぁ。しっかし、太子様も困った御仁であられる」
「そうなんですよね。でも、太子様も悩んでおられるように見えました。何とかお力になってあげたいのですが」
「ほぅ……」
「?」
右手同士で交わしていた握手に、董允は更に左手を添える。
両手でガッチリと、汗で濡れた手にギュッと力が籠った。本当に勘弁してください。
「そうだ、その通りだ。当たり前のことなのに、なぜか忘れていた。流石は李仁殿!」
「な、何のことです?」
「我らが太子様を信じねば誰が信じてあげられるというのか、これぞ我々の進むべき『正しき道』だ!」
爛々と輝く瞳に、真っ白な歯。
四角い顔は満面の笑みを浮かべて、今度は僕を抱きしめた。
もう本当に嫌だ。
何が悲しくて汗だくの変態に抱きしめられなければならないんだ!
「そうと決まれば、来敏殿を説得しなければ!李仁殿!」
「頼むから何を考えてるか話してくれ、一人で突っ走ってもらっては困る!」
「決まっておろう!我らで太子様の心をこじ開け、お悩みを解消し、心置きなく勉学に励んでいただくのだ!」
「……その方法は?」
「面白くて分かりやすくて太子様も心を開いてくれるような講義を、李仁殿、お願いいたす!吾輩は来敏殿にその許可を貰ってまいりますので!」
上裸の筋肉男は全速力で駆けだした。
駄目だ、あれは何を言っても聞かないタイプだ。
どうしてこんな奴と同僚になってしまったんだ!最悪だ!
あと、よく聞いてなかったけど、なんか今アイツ無茶苦茶なことを僕に押し付けてなかったか!?
・董允
蜀漢の誇る四人の名臣「蜀の四相」の一人に数えられる凄い人。
とにかくすごく厳しい人で、皇帝「劉禅」を律し続けたとされている。
でも厳しすぎたんじゃないか?って話もある。
ゲームや娯楽を厳しく禁止された子供が成長したらどうなるか、みたいなアレ。
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