第4話:飛輪は運命を演出する
恐ろしく時間の長い一日であった。日の暮れることのなんと遅いことか。
時間の流れが遅い時は、決まって退屈なときである。
ただの退屈なら良いんだが、地獄のような退屈だった。
結局あの後、劉禅は宮中に引きこもって出てこなかったし、来敏殿も講義を再開するつもりがさらさらない。
そして太子様をお支えする官吏たちの集う「東宮」は、とにもかくにも空気が悪い。
理由は明白。トップに立つ来敏殿があの調子であり、劉禅もまたあの調子だからだ。
まぁ、でもまだ劉備が漢中王に立ってひと月か。
東宮も始まったばかり、誰も彼も職務をよく分かってないのだろう。
だから誰に仕事を聞いてもよく分からんみたいな反応をされるんだ。終わってるぞ、この職場。
「ただいま、帰りました」
「あら、おかえりなさい、旦那様」
兄さんの屋敷の隣に建つ、兄さんの屋敷より一回り小さな我が家。
定時よりも少し早く帰れたのだが、何故だろう、ひと月ぶりの帰宅のようにも感じる。
出迎えてくれるのは、長く黒い綺麗な髪を靡かせる、"しゃなり"とした長身の"妻"であった。
僕よりも二つ年下だが、漂わせる雰囲気というか余裕みたいなもので、年上のように錯覚してしまう。
暑さも落ち着いてきた夏の日。
少し着崩した淡い藍色の、薄い着物。
身を屈めたときに彼女の鎖骨が見えて、思わず視線を上に逸らす。
「ふふっ、お疲れのようですね」
「本当に、本当に疲れました」
「それは良いことです」
僕が脱いだ冠を受け取り、彼女は微笑んだ。目を細めたその表情は、少しだけ兄さんの面影を感じる。
名を「尹 飛輪」。なんともまぁ、僕にはもったいないくらいに良き妻である。
僕のとこの李家と、彼女の実家の尹家は、両家は地元では名の通った有力氏族である。
おかげで僕も兄さんも特に不自由することなく荊州に留学すら出来たわけだ。
しかし僕と兄さんが荊州に出向いているときに事件が起きた。
これを「益州内乱」とでも呼ぼうか。
当時、この地を治めていた「劉璋」に対し、益州各地の豪族達がこぞって反乱を起こしたのだ。
ウチの李家も反乱軍側として参戦。
しかしその反乱軍は劉璋軍に敗れてしまった。
幸い、学者の家が故に戦乱とは距離を取っていた尹家は難を避けることが出来、残った李家の者達は尹家に匿われた。
本当に何から何まで頭が上がらない。
彼女だって引く手数多だっただろうに、兄さんは僕との友誼を取ってこうして婚姻を結ばせてくれたんだ。
「とにかく東宮は息をするのも苦しい場所でした。これでは先が思いやられます…」
「あらあら、うふふ」
「……飛輪さん、どうしたんです?そんなにニコニコして」
「だって夫から仕事の愚痴を聞くなんて、なんだか私、妻らしいことをしてるなぁって。嬉しくなっちゃった」
口元を隠して、本当に嬉しそうにくすくすと。
少しだけ僕をからかうように。
前世では妻子を持てなかった。でも、いいなぁ、家族というのは。可愛いなぁ。
この笑顔のためになら、確かに仕事も苦ではないと思えてしまう。
「と、とりあえず、夕食には少し早いですし、僕はちょっとだけ仮眠を取ってきます」
「お疲れ様でした。では夕飯時に、起こしに行きますね」
「ありがとう、飛輪」
「いえいえ」
◇
李仁が帰宅して、あまり時を置かずに客人が訪れる。
尹黙であった。
尹相も変わらずしょぼしょぼと眠そうな顔をしながら戸を開け、パタパタと飛輪が出迎えに駆け寄る。
「いやぁ、良い匂いだ」
「急に来ないでって何回も言ってるでしょ、兄上」
「李仁は?」
「初仕事で疲れて帰ってきたので、少しだけ仮眠を取られてますよ。もう、兄上がしっかりしていないから」
「うーん、悪いことをしてしまったなぁ」
ポリポリと頭を搔き、尹黙は少しだけ罰が悪そうに肩をすくめた。
尹黙の役職は"太子僕"であり、"太子厩長"の李仁はその補佐役。
それなのに肝心のその尹黙が、李仁の配属初日に不在。大変だったことは容易に想像出来る。
来敏や劉禅の顔を思い浮かべては、尹黙もまた溜息をついた。
「李仁は変に真面目だからなぁ。気苦労も多かろう」
「他人事みたいに。でも、東宮はそんなに大変な場所なのですか?」
「うん、まぁ、そうだな。だが李仁はああ見えて諦めが悪く、信念もある。ああいう者が意外と大業を成すものだ」
「当たり前です、私の旦那様なのですから。李仁さんに解決できない問題なんてありません!」
飛輪は玄関先で自慢げに、慎ましやかな胸を張ってみせる。
それを見て尹黙は鼻で笑った。
李仁は飛輪を、おしとやかで器量の良い、自分にはもったいない妻だと思っている。
尹黙はそれが不思議でならなかった。
尹黙が妹との縁談を勧めた際も、李仁は繰り返し、申し訳ないと何度も頭を下げていたほどなのだ。
しかし、違う。よくよく考えれば分かるだろう。
なんで「二十代半ばまで」彼女が独身のままでいたのか。
この婚姻は単なる友誼のためなどではない。家と家のためでもない。
そんなに高尚な話ではない。
「流石だな。李仁と結婚したいが為だけに、婚期も何もかもをかなぐり捨てて、親にも泣かれて、ひたすらに我らが荊州から帰ってくるのを待ち続けた狂人めが」
すると飛輪はずずいと腰を曲げ、置かれた椅子に座っていた尹黙の額に菜箸を突き付けた。
炒めた茗荷の良い香りが、その額から漂ってくる。
「その話は、李仁さんの前で絶対にしないでくださいね」
「は、はい」
「いいですか?私は、益州の混乱した情勢の中、縁談の話も思うように進まず、仕方なく未婚のまま歳を重ねてしまったのです」
「それに何の意味が……?」
菜箸を尹黙の額から離して、飛輪はうっとりと目を細める。
これが怖いのだ、これが。尹黙はおかしな様子の妹を苦々しく睨む。
「だってぇ、運命的じゃないですか。あぁ、私と李仁さんは最初から結ばれる運命にあったんだなって。天がそれを後押ししてくれていたんだなぁって」
今日は李仁に謝罪も兼ねて仕事の話をしておこうと、屋敷を訪れたはずだった尹黙。
しかし妹がこうなってしまった以上、面倒なことこの上なく、尹黙はそそくさと隣の我が家へ退散したのであった。
・益州内乱
当時、益州に政権を築いていた「劉璋」は、地元の有力氏族をあまり重んじなかった。
彼は父から引き継いだ流民軍団「東州兵」を直下軍に置き、その支配を強めたのだ。
益州の有力氏族はこれに我慢ならず反乱を起こしたが、東州兵の粘り強い抵抗に敗れてしまう。
その結果、以降も彼らは劉璋の支配に不満を抱き、後に劉備を招き入れることになる。
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