第31話:陸遜は死地で苦悩する
夷陵の戦い。劉備が荊州の奪還、および関羽の仇討ちのために兵を挙げた戦いである。
対する孫権軍の総大将となったのは、当時まだほとんど無名の将だった「陸遜」である。
孫家の基盤となる土地「揚州呉郡」を代表する名門氏族の出身であり、その家柄の影響力は高い。
そして劉備はどこかそんな陸遜を、孫権を侮っていた。
家柄だけの未熟者に指揮を執らせるほど、孫家には人材が無いのかと。
しかしながら孫権という傑物は、人材を適材適所で用い、十二分に実力を発揮させる「名君」である。
その孫権がこの土壇場で軍の全権を委ねたのだ。凡才であるはずがない。
「──戦とは、如何に敵を多く殺すか。これに尽きる」
夜中、幕舎に一人で籠る陸遜は、戦場の地図を前にそんな独り言をぶつぶつと不気味にぼやく。
もはやいつ寝たのかすら覚えていないほどの集中の極致にあり、頬は削げ、目は赤く充血している。
次々と入ってくる前線からの報告は、いずれも敗戦の報であった。
張飛。凄まじい武人である。ただの猪武者かと思えば、一つも罠には引っかかってくれない。
あれが、乱世の英傑。
一人で戦況を覆す力を持つという。
戦とは単純な数字の足し引きでしかないと思っていた陸遜にとって、張飛の存在は異物でしかなかった。
それに最も不気味なのが、劉備である。張飛というすさまじい武人の圧に隠れ、何をしているのかが全く見えない。
「先の"定軍山の戦"もそうだった。劉備は諸将を縦横に動かして姿を眩ませ、自ら敵の意表を突く戦術を得意とする。ならば……」
劉備は今、何を考えている。どこで、何をしているのか。
しかし劉備の動向に集中しようとすれば、今度は張飛に突破を許してしまう。
これが天下最強たる劉備の軍勢か。
深く暗い闇夜の中、瞬きひとつせず、陸遜の意識は更に深化する。
「ならば、戦わねばいい」
関羽が死んで、時代は変わった。もはや乱世の英傑など不要なのだ。
徹底した数字の足し引きを冷酷に押し付ける。これからの戦は、そういう"つまらないもの"になる。
また一睡も出来ないまま、夜が白み始めていた。
◇
宴会から数日が明けてのこと。何とも蒸し暑い日であった。
この湿度はどうにかならんもんかと、衣服を扇いで胸元から熱気を外に出す動作を繰り返す。
東宮も董允以外はみんなグデーっとしている有様で、というかこいつのせいで温度が高いまである。
汗に濡れて光り輝く上裸の筋肉マンめ。頼むから皆が居るところでスクワットをしないでくれ。
「あのー、董允殿」
「お、李仁殿!貴殿も一緒にどうかな?」
「本当に結構です。先日お話ししてた通り、丞相に呼ばれているので、少しの間だけここを離れますね。代わりに張紹を置いていきます」
「承知した!よろしくお伝えくだされ!」
声が大きいし、歯が白い。文官なのに何で日焼けしてんだお前。
というわけで宮中の馬の買い付けに関する書類仕事を張紹に預け、昼前に宮廷へ向かう。
通されたのは丞相の執務室であり、そこには諸葛亮と費禕の二人が神妙な面持ちで同じ地図を睨みつけていた。
広い机の上に広げられた大きな地図。二人とも正座をして、何やらボードゲームでもしているかのようだ。
「太子厩長が李仁、丞相に拝謁いたします」
「あぁ、来てくれたか。費禕、既に話はしてあるのだな」
「勿論です」
何の話のことだろう。
たぶん説明されてませんよ孔明さん。
「まさか李仁殿が実学だけでなく、兵法も修めていたとは。同門でありながら知りませんでした、申し訳ない」
「え、いや、あの、丞相?」
「ほらほらはやくこっちへ!兵法家でもある李仁殿に少しだけ意見が聞きたいって、丞相が仰ってるんすよ!」
費禕にむりやり引っ張られ、僕もまた地図の前に座らされる。兵法家じゃないですよ、僕。
よく見るとその地図には益州と荊州を繋ぐ長江沿いの地形が描かれており、まさしく「夷陵の戦い」の舞台だ。
また上に黒と白の碁石がいくつも並んでおり、恐らく白がこっちの軍勢なのだろう。
長江の流れに沿って白の碁石は細く一列に伸び、対して黒の碁石はその出口を強固に封じていた。
三国志でもよく見た悪夢の陣系だ。
しかし予想に反して二人の表情はそこまで苦しそうなものではなかった。
「陛下は既に戦端を開かれ、現時点の戦況は圧倒的にこちらの優勢です。先鋒の張飛将軍は今日にも敵の最終防衛拠点である"夷道"を包囲する勢いとのこと」
諸葛亮は白い石をずいずいと前に進め、その夷道まで戦線を押し込んでいく。
もうここを抜かれれば孫権軍は背後に"江陵"を残すのみとなってしまう。
つまり夷道さえ抜けば、劉備軍は荊州全土に手を伸ばせる段階となり、形勢は一気にこちらに傾く。
しかしそれはあくまで「抜ければ」の話であり、史実ではこれを抜けなかったのである。
「我らは夷道を抜いたのち、江陵攻めに移らなければいけません。しかしこれにはいくつかの問題があります。費禕、次なる要点をまとめてください」
「承知。江陵を守るは、孫家きっての名将である朱然です。そしてその後方には孫権が自ら本軍を率い、後詰を成すでしょう。加えて北方より迫りくる魏軍も警戒せねばならず」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ずいずいと前に進んでいく説明を、思わず静止してしまう。
もしかして諸葛亮も、費禕も、このまま劉備が夷道を抜くと思ってるのか?
「恐れながら、こうは、考えられませんか? 本軍が、夷道を抜けずに足が止まってしまう、とか」
「まさか」
諸葛亮は目を丸くして、少しだけ笑う。
そうか、あの諸葛亮ですらそうなのか。だったら、衆目の見立てなんて。
すると費禕もまた諸葛亮に同調し、僕に説明を加える。
「李仁殿、敵の大将である陸遜はこれまで反乱鎮圧のみでしか軍事経験の無い行政官だ。現にこうして連戦連敗、家柄は良くとも大将の器じゃない」
「ですが、その、孫権とはそんなに人を見る目が、無いのですか?」
「それはどういう」
「赤壁では周瑜を選び、両家の同盟では魯粛を選び、荊州占領では呂蒙を選び、その全てで孫権は勝ってきたはずです。その孫権が、この窮地に選んだ大将が陸遜なのでは?」
まだ費禕は怪訝そうな表情のままであったが、諸葛亮は露骨に視線を泳がせ、眉間に深い皺を作った。
顎鬚を撫でつつ再び視線を地図に落とし、前に進めていた白い石を後退させていく。
「李仁殿、君が陸遜であれば、どうしますか」
「勿論、詳しいことは分かりません。ご要望の兵法においてのみでお答えするのであれば、孫子曰く、善く戦う者は負けない形をまず作り、後に勝ちを求めるとありますので、その"形"を求めるのでは、と」
「されど丞相、既に我が軍は敵の防衛線を次々に破っており、陸遜は"形"を作る暇もない総崩れの有様です」
「……費禕、もう少し考え直そう。急に呼んで申し訳なかった李仁殿。ありがとう、参考にさせてもらうよ」
「は、はい」
別に褒められるとかはなかったけど、うん、これで僕と諸葛亮の面会は終わりである。
歴史を知っているからこその視点に過ぎないが、あまり口を挟めばそれはそれで不自然に見られてしまうだろう。
でも、無視することも出来ないくらいには、僕はこの世界に関わり過ぎていた。
どんな結末を辿るのだろうか。まだお昼時にもなっていなかった。
・陸遜
元の名は「陸議」だが、あるときに名を改めた。
夷陵の戦い、石亭の戦いで大勝を上げ、孫呉建国に比類なき功績を立てた。
敵を自領深くに誘い出して包囲殲滅する戦術を得意とし、敵に容赦の無い被害を与えた。
三国志に注釈を加える裴松之は「コイツ大殺戮者やん」ってドン引きしている。
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