第27話:来敏は牢から釈放される
「見ていたのか、孔明」
「何かあれば駆け付けようかと思っていまして。ですが、杞憂でしたね」
冠を脱いで、寝台に飛び込んだ劉備の目に、部屋の隅で縮こまり隠れている諸葛亮の姿が見えた。
しかしその細長い体のせいか逆に目立っているし、なにより手に持っている白羽扇が目につき過ぎる。
「そういや禅に益徳の激励をさせようと発案したのはお前だったな。まさかここまで読んでいたのか」
「いやいやいやまさかぁ」
白羽扇を顔の前で振る諸葛亮の態度があからさま過ぎて、劉備は不愉快そうに鼻をフンと鳴らす。
遠くで劉禅と李仁がグズグズと泣いている音が小さく聞こえる。それもまた僅かに耳障りであった。
「それを言えば陛下も、こうなることを見越して来敏殿を?」
「何の話だ」
「いえ、何でもございません」
なんとも不器用な人だ、と諸葛亮は眉をひそめた。
乱世を駆け抜けるためとはいえ、劉備は妻子を真っ先に投げ捨ててきた。
主君が家族よりも仲間を大事にするのだ、その姿勢に兵士は心を打たれるのである。
そしてこれを素でやってしまうところが、劉備という非凡な英傑の器なのだろう。
しかしその結果として、息子の劉禅と上手く付き合えていないのではないかと諸葛亮は勘ぐっていた。
「それはそうと、孔明。いよいよ東征だ」
「はい、ご武運をお祈りしております」
「そういや此度の戦について、お前は珍しく反対しなかったな」
「……色々と言いたいことはありますが、劉備という英傑であれば当然こうするだろうなぁ、と。むしろ東征をせねば、それは『劉備』ではないとさえ思ってしまいまして」
「我が心中の思いをここまで汲み取ってくれるのは、お前だけだ。留守を、禅を頼むぞ」
「どうぞお好きに天下を駆けてくださいませ、我らが皇帝陛下」
◇
およそ一年だ。来敏が牢に繋がれていた期間のことである。
それがこの時代において長いのかどうかまでは分からないけど、来敏はついに生きて出ることが出来るのだ。
「──皇帝陛下からの詔である」
詔書を掲げて、息苦しい地下牢で高らかに声を挙げるのは劉禅であった。
僕や兄さん、そして董允はその後ろに並び、その様子を静かに見守る。
篝火だけで日の光もなく、じめじめしてカビ臭くてすぐに変な病気になりそうな空間。
そして格子の奥、一畳ほどの手狭すぎる部屋で、汚れた来敏は平伏していた。
「来敏の不敬な発言の数々、到底看過できるものではなく、ここに太子家令の任を解き、自宅での謹慎を命ずる」
「臣、来敏。謹んでお受けいたします」
すると三人ほどの獄卒が格子を開き、来敏の両脇を抱えて外に運び出す。
あんな狭いところに一年も押し込められていたのだ。脚力は衰え、歩くこともままならないのだろう。
董允があらかじめ用意していた車椅子をガラガラと差し出し、来敏は力なくそこに座る。
しかしその顔つきは、以前のままの来敏だった。流石に落ち込んでると期待してたのに、というのは秘密だ。
「殿下が、儂の助命嘆願に奔走していたと聞きましたぞ。勝手なことをするでないわ」
「来敏殿、もう少し他に言うことが」
「黙れい小童!」
マジで? 僕、早速怒鳴られたよ?
なんだこの爺さん、流石に尊敬すら覚える気骨だぞ!?
「もし儂なんかのために陛下の不興を買えばどうなるか、少しは考えなされ!尹黙、董允、何故お止めせなんだ!?」
ガラガラと車椅子を押しながら怒鳴られる董允が流石に可哀想である。
しかし、皆どこか嬉しそうだった。これだ。いつもの来敏だ、と。
「殿下、本当に貴方はもう少し色々と政治の動きも気にしつつ」
「ふっ、あははっ!来敏が変わっておらず安心した、おかえり!」
劉禅の本当に嬉しそうな笑顔に毒気を抜かれたのか、来敏の眉間からは皺が消え、眉尻が下がる。
牢から出ると、成都は今日も相変わらずの曇り空の霧模様であった。
「勉学には、励んでおられましたかな」
「まぁ、頑張ってはいた、はず、うん」
「どうせ尹黙の講義は分かったふりをするだけであったのだろう。アイツの話は分かりづらいからな」
兄さんの顔を見ると、ばつが悪そうに頬を掻いていた。
来敏でもそう思ってるなら、もう本当にこの人の講義って分かりにくいんだな。
「……牢におる間、殿下のために諸々の経書の注釈をつけておった。これ全て、殿下が今後の勉学に励むための導になるように、と」
「なんと」
「これで少しは尹黙の話も聞けるようになるであろう。どうせ謹慎になる身じゃ、存分に役立てられよ」
そっぽを向いて気恥ずかしそうに。
本当に素直じゃないな、この爺さんは。
「ありがとう、来敏」
それに比べて、劉禅は素直に嬉しそうであった。
自分の手で救ったのだ。感激もひとしおなんだろう、なんて。
するとそっぽを向いていた来敏は改めて劉禅の方に向き直る。
なんだろう。劉禅も僕もみんなで首を傾げる中、来敏は恭しく拱手し、その大きな頭を下げた。
「感謝を言うのは、儂の方で御座います。殿下、我が命を救っていただき、御礼申し上げる」
「な、そんな、別に」
「この御恩は、終生忘れませぬ」
数多の兵士が街道を進み、人々はそれを派手に送り出していた。
成都は戦時の賑やかさに満ち、溢れだす。いよいよ、戦争が始まるんだ。
そんな中で、来敏は釈放され、劉禅は嬉しそうに泣いている。
未来はどう進むのだろうか。僕は少しだけ、この賑やかな場面に重い影を見たのであった。
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