第26話:劉禅と李仁は劉備に諫言する
顔を上げることを許される。
そこには痩せた老人が大股を開いて、上段の玉座に腰を下ろしていた。
彼が皇帝であると誰かが言ったとしても、とてもそうは思えないような身なりと態度である。
礼儀の常識としてまず、人前で股を開くのは下品である、というのがこの時代の作法とされる。
また皇帝にもなれば普通、煌びやかな装飾の施された常服を纏い、玉帯を巻いているものだ。
しかし目の前の男は革の冠に、白く長い鳥の羽を装飾したものを被っている。
その長い羽根は両の耳の上から兎のように真上に伸びていて、これは戦場でも目立つだろう。
衣服も乗馬に適した胡服だった。これは、皇帝ではない。軍人の身なりだ。
しかしこれこそが劉備なのだと思わせる不思議な説得力もあった。違和感が全く無い。
「李仁、初めてお前を見る。素性を述べよ」
「は、はい。益州梓潼郡涪県に本籍を置き、同郷であり義兄である尹黙殿より推挙を受け、東宮に勤めております。現在の官職は太子厩長です」
「前に免職処分を受けたと聞くが」
「およそ十年ほど前、趙雲将軍に不遜な物言いをしてしまい、罪を受ける身となっています」
「そんなお前が、罪人である来敏の助命を乞うのか?」
流石に、ぐぅの音もでないんご。
本音を言えばもうここでひたすらに頭を下げ、逃げ出したかった。
僕は弱い。色々と出過ぎた真似をしておいて、いざとなると自分の命が可愛くて仕方なくなるんだ。
「父上!来敏の、助命を願ったのは、私です!」
劉禅は震えた声で、しかし真っすぐに劉備の目を見据えて声を挙げた。
いつだって勇気を振り絞るのは、劉禅だ。思わず爪を立て、拳を握る。
何をやってるんだ李仁、お前は馬鹿か。
劉禅を勇気づけないといけないのはお前の役目だろうに。
「私は太子として、東宮を管轄してくれていた来敏を救いたいと、まだ彼の教えを受けたいと願ったのです!」
「来敏はその役目もあまり果たさず、尹黙や董允にその皺寄せがいっていたと聞く。それであの不遜な態度だ。ああいう輩は国の毒でしかない」
「それは私が来敏に無礼な態度を取ってしまったためで」
「臣下と主君の立場を弁えよ。臣下の分際で偉そうに主君を軽んじるなど、それは主従の規則に反する。故に死罪だ」
至極真っ当だ。特に戦場で生きてきた劉備にとって、この上下は犯すべからざるものなのだろう。
戦場において兵士が指揮官の指示を聞かなければ、それは負けに直結するからな。
「……陛下のご指摘、まことごもっともで御座います。この李仁、反論する言葉を持ちません」
「李仁!?」
「ほぅ、お前は聞き訳が良いな。ならば去れ、来敏は法に則り処刑する」
「されど陛下、人間とは得てして物分かりの悪い生き物で御座います。故に儒や法で規則を定めたとて、未だに人間は争い続けるのです。なればこそ"侠"が必要とされるのでは、と」
劉備は、劉備という人間は、どこに価値観を置くのか。それはやはり「侠」だ。
であれば儒教や法律を説いても刺さらない。同じ立場で、同じ言葉で語る他にない。
それが、僕が考えたせめてもの「諫言」であった。
「何か言いたいことがあるようだな。良いだろう、続けよ」
「如何に法に則ったからと、儒の規範に則ったからと言っても、高名な来敏殿を斬って文武百官や万民から理解を得られるのかと言えば、臣は『そうじゃないのでは』と思ってしまうのです」
侠とは、そういった「上から押し付けられた理不尽な規則」によって虐げられし者達の、最後の拠り所である。
行き場の無い弱者達のため、侠者は「復讐代行」を請け負い、その理不尽に「暴力」でもって報いるのだ。
いわばヒーロー的な精神性といえる。
そして劉備は、その「侠」の看板を掲げて乱世を戦ってきた英傑だった。
身寄りもなく社会から疎外された仲間たちを集め、救いを求める声に応え、曹操という大人物に抗い続けた。
故に誰よりも分かるはずなのだ。その理不尽に今、晒されようとしている者の気持ちが。
「儒や法を曲げてお願いします。来敏殿をお許しくださいませ。さすれば来敏殿は陛下の慈悲に感服することでしょう。人々も陛下の威徳に奮い立ちましょう。それでもなお来敏が不服を申せば、そのときに斬っても遅くは御座いません」
「この劉備に、儒と法を曲げよと、面白いことを抜かしおる」
「かつて法正様はこう仰ったとお聞きしました。許靖様の助命について、虚名とはいえ世に聞こえた名士ならば、これを礼遇すべしと」
「……法正の名まで使うか、小賢しい説客だ。だが舌先三寸で我が意を曲げようとは片腹痛いわ。禅、お前はどうなのだ」
それは、そうか。所詮は、舌先三寸。
僕の言葉は、劉備にはあまりに軽いものだった。
そして名を呼ばれた劉禅はハッと顔を上げ、少しの間、考え事をするように黙りこくる。
この無言の時間。恐らくほんの僅かの間だったはずだけど、僕にはそれが地獄のように長く感じられた。
「禅、お前の意思はないのか」
劉備の追い打ち。流石に僕ももう頭を床につけ、上げられない。
劉禅が言葉を発したのは、そのすぐ後のことだった。
「では、父上。私は敢えて、法と徳より来敏の助命を乞いたいと思います」
「それは、この父を真っ向から諫めるということだ。お前にそれが出来るか?」
劉禅は、頷く。
もう迷いはなく、震えてもいない。
「私はそこの李仁より、人の上に立つには法と徳の心得が必要であることを教わりました。そして東宮において、その旨について臣下達より教わりました」
「ほぅ、聞かせい」
「子曰く、法令や罰則で人を統御すれば、人は罰を免れる術を覚えるのみで、恥を覚えません。なればこそ徳により人を導き、恥を教える必要がある、と説きます」
「論語の一節か。基礎も基礎の話だな」
「また孟子は、力による服従はその力に服するのみであり、徳によって人々が喜んで服従するようにしなければならない、と説きます」
「孟子も学んでいるのか。されどその徳によって政治は弛緩し、今のごとく天下は乱れた。なればこそ法によって厳しく締め上げ、上下の礼を叩きこむ必要があるだろう」
「確かにその通りです。されどここで説かれるのは、法と徳を伴わせることについてです」
ずい、ずいと、言葉を力強く吐く劉禅は身を乗り出し、腰を上げる。
劉備もまた楽しそうに口角を上げ、玉座から立ち上がりそうなほどに前のめりになっていた。
「法も大切です、ならば法を正しく運用するために来敏の言を正確に精査すべきであり、父上は怒りを治めて法を運用すべきです。そして徳も大切です。ここで強硬に来敏を処刑すれば、もうこれ以上、父上に真心から諫言を行う臣下は居なくなりましょう」
劉備は勢い良く立ち上がると、ガタンと大きな音を立てて玉座を後ろへ蹴り飛ばした。
「──見事だ!」
歯を見せて、不敵に笑う。劉禅は腰が抜けたのか、その場に"へたん"と倒れ込んでしまった。
ギロリとした目が、僕の視線と交わる。思わず顔を伏せ、反射で平伏してしまった。
「宦官共、今の言葉、しかと記録しておけよ」
「はっ」
「禅、李仁、お前らの懸命の諫言を聞き入れよう。来敏は赦す、だが、罪は罪だ。太子家令の任を解き、朕が東征より帰還するまで謹慎を申し付ける」
つまり、それは。横を見るとそこには、涙を目にいっぱいに溜めた劉禅の顔があった。
きっと僕も同じ顔をしているのだろう。そう思った途端に、涙がこぼれ落ちていく。
「禅、これからも勉学に励め」
「はいっ、父上、ありがとうございます!!」
劉備は奥へ去り、宦官らもさらさらと書簡に記録をまとめると、ささっと退出していく。
しばらくの間、僕と劉禅はぐすぐすと鼻を啜りながら抱き合っていた。
・許靖と法正
許靖は劉備の益州攻めの際、劉璋の敗色が濃いと見るとあっさり降伏してきた。
法に従うなら、開戦後に降伏した者は死刑なのだが、法正は次のように助命を促した。
許靖は天下に聞こえる名士であり、彼を害すれば天下の人々は劉備の器量を疑うだろうと。
故にここは虚名であろうと許靖を礼遇し、器の広さを天下に見せつけなさいませ、と。
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