第23話:李仁は張飛に願う
李仁は今回の張飛軍激励に赴くうえで、その軍情をよく調べあげていた。
それは劉禅が不思議に思うほどの入念さであり、敵地に赴くわけもないのに何故、と思ったものだ。
ただ劉禅は報告書を見ていくつか驚いた。
張飛軍はまず、益州巴西郡の一帯から集めた新兵ばかりであった。
荊州から伴って益州に入った熟練の精兵の多くを、魏から奪って日の浅い"漢中郡"に駐屯させているためだ。
軍人の本当の才覚というのは、実戦でしか見出すことが出来ない。
劉備はこれをよく知っていた。
故に劉備は今回の東征でも新兵を徹底的にしごき上げ、将来有望とされる若き将校をずらりと揃えたのだ。
趙雲や馬超、魏延など、実力確かな有力将軍のほとんどが留守を預かっていることからもよく分かる。
しかしこれでは攻め手に欠けていた。
その欠点を補うために、劉備軍最強の矛である"張飛"を前面に押し出しているのだ。
張飛もその役割を十分に理解していた。だからこそ、地獄の調練を叩きこんだ。
新兵を第一線で戦えるようにするために。しかしこれは、上層部だけに周知された意図である。
「故に李仁は私に、兵の慰撫を頼んできたのだ。彼らにそんな上の意図を理解しろ、というのはあまりに酷だからと」
「急に殿下が将兵にも挨拶したいと言い出したときは、何をお考えなのかと思いましたよ、ホントに」
董允が呆れたように肩をすくめるのを見て、劉禅は困ったように「すまない」と笑う。
外に出るとあちこちで兵士達が焚火を囲みながら酒に酔い、肉を喰らい、歌を歌い、踊り笑っていた。
都の宮中に居たら決して目の当たりに出来ない光景である。
劉禅は今この瞬間に、彼らの一人一人がこの国を成していることを肌身に感じた。
「それで殿下、まずは歩兵部隊長であり、軍の守衛を預かる者達の幕営に行くのでしたな」
「あぁ、その部隊長たちの名は確か、范彊と張達といった。李仁曰く、この二人が戦闘指揮官として最も苦しい立場にあるらしい」
「なにも殿下がわざわざ赴くことは御座いますまいに」
「これくらいしか出来ないんだ、私は」
そう言う劉禅はどこか少し嬉しそうであった。
◇
自分は「古い」のかどうか、か。
張飛は何を言わんとしているのか、それによって答えも変わる気がする。
酒を断ち、酔った風でもない。ということは常より感じていることなのだろう。
もう齢も五十を過ぎていた。年齢で言えば確かに、時の流れを振り返るのやもしれない。
「将軍は、何を見てそう感じられたのでしょうか」
血鍋を飲み干し、口を拭う。
もみあげと繋がった髭はもう半分ほどが白くなっている。
「調練の苛烈さに、文官共が苦情を出してくる。兵士共も音を上げていた。だが俺は何一つ変わっちゃいない。昔から我が軍の調練はこれだった。しかし周りの見る目が、変わってしまった」
確かに、そうかもしれない。
張飛もまた劉備と共に、乱世の最も厳しい時代を生き抜いてきた将軍だ。
乱世を生きるには、鍛え上げるしかない。
死なないために死ぬような思いをしていたのだろう。
しかし今は、天下は三つの勢力に分裂し、些かの均衡を保てるようになってきた。
明日を考える余力が出来たのだ。そんな時代に、この地獄の調練は人々の不満を生んだ。
「殿下や張彩がこうしてここに来たのも、俺が行き過ぎないよう戒める意図があるのだろう? 孔明が考えそうな気遣いだ」
「……自分は、戦場を知りません。そんな自分が一介の兵士となり、将軍の調練に参加すれば、確かに不満を抱くやもしれません。戦ではなく、調練で死ぬのか。そんなのあんまりじゃないか、と」
「はっきり言ってくれるな。だが調練で死ぬやつは、戦場で仲間の足を引っ張りながら死ぬ。将として、俺はそれを看過できん。故に調練の強度を落とせと言われても、どうも承服できないのだ」
見た目に似合わず、優しくて繊細な性格の人だ。
だからこそ、恐ろしい鬼にもなれるんだろう。
きっと昔からもこうした不満はあったのかもしれない。
そんなときは劉備が皆の気持ちを汲み、耐えさせた。
しかし今はその劉備が復讐に染まってしまっている。
不満を口に出せるような状況じゃなくなってるのだ。
「張彩様。お父上は貴方様の仰る通り、本当にお優しくて大きな人ですな」
「えっ、ちょっ、きゅ、急になんなのよ!」
ツンツンお嬢様は急に話を振られて、またまた沸騰したやかんの様に赤くなる。
そして大魔王こと張飛もまた同じく、親子揃って顔を真っ赤に染めていた。
「将軍、どうかその優しさを兵士達にも見せてあげてください。優しさとは、厳しくした将校を側に置いて度量を示すということではありません。恥ずかしくとも、厳しくする意図を打ち明け、同じ苦境へ共に挑むことにあると僕は思います。それは、陛下のように」
「劉兄の、ように」
劉備は関羽・張飛と寝食を共にし、実の家族以上に戦場を共にしてきた仲間達を大切にした。
僕はそう、正史で読んだ。故に人々はどこまでも劉備に付き従ったのだ。
そしてこの張飛はきっと、そんな劉備のことを最もよく知っているはずである。
「申し訳御座いません。出過ぎたことを申しました」
「いや、いい。俺から聞いたのだ。そういえば時に李仁、お前自身は門下生などは募っていないのか」
「え、僕が、ですか?」
「孔明と同門かつ尹黙の義弟で、殿下にも講義をしているのだ。大勢の門下が居るものだろう」
確かに言われてみればそうなんだけど、残念ながら、それが居ないんだよねぇ。
学士のくせに経書が不得手というのが本当に終わっていて、とにかく浮いてるんです。
「俺はお前が気に入った。良かったら俺の息子の"紹"を側に置いてやってくれ、学士にしてやりたいんだ」
「え、僕に、ですか?」
「劉巴と尹黙は気に喰わねぇが、お前ならいい」
当然、断る選択肢なんて持ち合わせちゃいない。だって相手はあの張飛だ。
となれば、ここしかない。要求を通すには、ここしか!
「であればひとつ、この李仁の願い事もお聞き届けいただきたく」
「なんだ、改まって」
ギロリとしたあの目だ。そりゃ皆怖いって思うよ、いくら内面が優しかろうと。
でも、踏ん張るしかない。冷や汗が噴き出していようとも、一歩を踏み出すんだ。
「ら、来敏殿を、お救いしたく。どうか、どうかお口添えを……」
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