第15話:尹黙は李仁を案じる
これからの三国志の歴史についておさらいしておこう。
僕が知っている限りだと、劉備の転落はここから始まる。
関羽と荊州を失い、更に後漢王朝も滅ぶ。劉備は漢の滅亡を認めず、自ら漢の皇帝に即位する。
そこから孫権を攻めるも"夷陵の戦い"で大敗。この戦いであまりにも多くの人材を失った。
そして、劉備は失意の中で崩御。
劉禅はそんな滅亡寸前の国を受け継ぐことになるのだ。
「李仁、私は、私はどうすればいい」
そしてその劉禅は今、僕の目の前で涙を流していた。
日が沈む前に東宮に帰ってきて、急に呼び出されたら既にこんな状態だったのだ。
「本当に殿下がそう仰ったのですか? 本当に、来敏殿を」
劉禅は僕の問いに、頷いた。
まさか。そんなはずはない。
正史において来敏は九十七歳まで生きるご長寿さんであり、刑死なんてしていない。
ということは、少しずつ歴史が変わり始めているのか。
覚悟はしていたが、やはり不安は大きい。
「……若君、落ち着いてください。刑の執行はすぐに行われるわけではありません」
「父上は、戦の前に斬ると、はっきり」
「その戦がすぐには始められないのです。戦には準備が必要ですので、しばらくの猶予があります。それまでの間に殿下も考え直されるかもしれません」
単純に劉備の気を逆撫でただけであれば、時間が経てば経つほど怒りも治まる。
来敏はこの国随一の学者であり、家柄も良い。
処刑することのデメリットは極めて大きいと言える。
「父上は、そんなに甘い人じゃない。しかし来敏と再び向き合えたというのに、こんなこと、私は望んでいないっ」
どうしても現代日本人としての感性が、未だにこの現状をうまく把握させてくれない。
身近な人が、王命で処刑される。そんな馬鹿な。しかし現実はそうなってしまっていた。
「なぁ、李仁、助けてほしい。このままでは一生の後悔が残る、そんな気がしてならないのだ」
どうすればいい。僕は、どうすれば。
変化する歴史の流れの中で、僕はこの子供をどう導いていけば。
◇
いくら考えても、やっぱり起死回生の一手なんて思い浮かばなかった。
どうやら僕は転生をしたところで天才軍師にゃなれない、そういう器らしい。
僕の知る限り、劉備という男は「情」の人であり、仲間を決して見捨てなかった。
この時代は曹操という苛烈な変革者が天下を席巻したが、変革についていけない弱き者達へ寄り添ったのが劉備だ。
そんな情の男が、一度殺すと決めたのだ。それはきっと理屈ではない。
理屈ではないのなら、抗議も説得も無意味だろう。つまり、来敏は助けられない。
「……相談事があるらしいな、李仁」
「すいません兄さん。仕事も終わっているのに」
「いいさ、お前の頼みなら」
仕事終わり、兄さんにはウチに寄ってもらうことにした。相談したいことがあると。
空気を読んでか、飛輪さんは酒を持ってくるだけでそのまま静かに部屋を出る。よく出来た人だ。
もう日も沈み、夕暮れが夜に変わる境目の時間。
薄暗い部屋の中、小さな二つの盃にとくとくと濁り酒を注ぐ。
「先程、若君より呼び出され、頼みごとをされました」
「どのような」
「来敏殿を助けてほしい、と。どうやら来敏殿は殿下に不敬を働いたために、処刑されるようなのです」
「……そうか」
僕が差し出した盃を手に取って、兄さんはちびりと口をつけた。
一気に飲むと眠気が襲ってくるので、こうして少量をちびちび飲むのがこの人の飲み方だった。
そのまま兄さんはひとくち、ふたくちと酒を舐め、しかし話し出す気配はない。
ただただ静かだった。日も落ち、部屋には灯篭の色が目立つように。
「兄さん、どうすれば来敏殿をお救い出来るでしょうか」
「それが相談か」
「はい」
「そうか。そういえば、諸葛亮殿からお聞きしたのだが、今、上庸郡でも戦が起きているらしい」
上庸郡。荊州北部と漢中郡を結ぶ連絡線が通る、戦略上の要所。
ここを預かっていたのは劉備の養子である"劉封"と、益州平定で大功を立てた将の"孟達"だった。
聞いてはいなかったが、知っている。
関羽救援に向かわなかった責を問われた孟達が離反し、劉封は孟達にこの地を奪われてしまうのだ。
恐らく兄さんの言っている戦とは、この話のことなのだろう。
「上庸郡の劉封将軍は、離反した孟達と戦っているらしいが恐らく破れる。諸葛亮殿曰く、劉封将軍は敗戦の責を問われたら処刑も免れないであろう、と」
軍法に照らし合わせれば、当然の処断だった。
劉封は孟達を離反させ、要所を奪われてしまうのだ。
そこに関羽の救援に向かわなかったという劉備の感情も乗る。
可哀想だが、そうなってしまう。
「将軍は、殿下のご養子だ。太子様が生まれる前まで、劉封将軍が殿下の後継者であった。そんな人ですら死んでしまうのだ」
「……だから来敏殿のことも諦めろと、兄さんはそう言いたいのですか」
「そうは言っていない、俺だって救えるなら救いたい。しかし俺にとってそれ以上に、お前や飛輪や、尹家の家族が大切なんだ」
「それは、それはっ、狡いですよ」
「そうだな」
ようやく一杯を飲み干し、僕が次を注ごうとしたとき、兄さんは手を前に出してそれを拒んだ。
もう帰る。そう言って眠そうに瞼をしょぼしょぼと閉じつつ、ゆらりと腰を上げる。
僕の肩に置かれた手。力が籠っていた。
それは立ち上がろうとする僕を、抑えるような強さ。
「家のことを第一に考えるべきだ、と俺は思う」
そう言ってそのまま兄さんは帰っていった。
僕はその場から腰を上げられないまま、盃にまだ残った酒を見つめるしかなかった。
---------------------------------------------------------
面白いと思っていただけましたら、レビュー、ブクマ、評価など、よろしくお願いします。
評価は広告の下の「☆☆☆☆☆」を押せば出来るらしいです(*'ω'*)




