第12話:劉備は激怒する
夜も更けた頃の緊急の招集に、尹黙は目を覚ます。
夜間の外出は法によって厳しく禁止されているためか、外は恐ろしく静かである。
酒はさほど飲んでいなかったので、酔いはほとんど残っていない。しかし相変わらず眠い。
尹黙は慌てて官服を身に纏い、屋敷の前に乗りつけてある馬車へ使者に促されるまま乗り込む。
こうした緊急の招集は、初めてのこと。
あまりにも重苦しい気配に、睡魔もいつの間にか鳴りを潜めた。
「尹黙殿、先程ぶりです」
「あぁ、費禕殿。これはいったい」
「分かりません。ですが、招聘されている方々は錚々たる顔ぶれです。尋常ではありません」
あれほど酒を飲んで気分良く酔っていたはずなのに、費禕の顔色は素面のそれである。
そして宮廷の前に続々と到着する馬車からは、確かに大臣や将軍など錚々たる重臣ばかりが姿を現していた。
「東宮からは私と尹黙殿、そして来敏殿が参列しているようです」
「あまり良くない話、なのであろうな」
「はい」
寝起き間もないからだろうか、朝堂の階段を上る足取りがあまりにも重く感じた。
そう思って尹黙は周囲を見渡すが、皆も頭をもたげ、蒼白な顔色をしている。
暗い大広間に、灯篭の明かりが小さく揺れていた。
行政を管轄する筆頭臣下"諸葛亮"を始め、病床にあると聞いていた尚書令"法正"も車椅子に座って参内している。
武官の列には大将格の馬超や趙雲の姿も見え、そしてその最前列に立つ張飛は、巨躯を小刻みに振るわせていた。
誰も、一言も発さない。
文官の列の後方に並び、尹黙はあまりの重苦しい空気に呼吸すら浅くなっていた。
するとその静寂の中、ガシャガシャと重苦しい具足の音が響く。
尹黙だけでなく、一同はその瞬間に平伏。
具足の音は尹黙の横を通り、そのまま上座に進んで、止まった。
「──顔を上げよ」
静かな、小さな声だ。
しかしその声は広間の全員の耳に届き、尹黙は全身に冷や汗が滲むのを感じる。
王の座に腰掛けるのは武装に身を包む老将。
当世きっての英傑、漢中王「劉備」であった。
股を大きく広げ、膝に肘をつき、短く白い髭を撫でる。
元々口数の多い人ではない。しかしその威圧と気迫は、言葉以上にその感情を物語っていた。
重く、苦しい、泥濘のような「怒り」。
燃え盛ることも無い、身を焦がすような黒い炎。
震えていた。
誰しもがその怒りに身を晒され、命の危険を感じたのである。
「端的に言う。今しがた報告が入った。雲長が、死んだ」
関羽、字は雲長。
劉備軍の筆頭将軍であり、劉備の旗揚げから戦場を共にしてきた将軍である。
その武威は天下に轟き、戦場で関羽の姿を見れば誰もが逃げ出した。
人の枠すら超えた傑物であった。
劉備がこうして益州に居を構えている間、荊州で留守を守っていたのがそんな関羽だった。
そして劉備軍が漢中の地で曹操本軍と決戦を繰り広げている際、関羽軍も同時に北上を開始。
天下で最も堅固と評される樊城は瞬く間に城壁が崩れ、曹操が派遣した援軍は全滅。
関羽は強かった。あまりにも強すぎた。
人知を超えたその武威は、同盟勢力であった孫権すら恐怖させた。
「孔明、話せ」
「……関羽将軍が樊城攻めを行っている中、孫権は我らに同調すると見せかけ、その背後を襲いました。結果、無防備となっていた荊州全域が陥落。将軍も敗死なされました」
驚愕、そして恐怖。
ざわざわとどよめきが響き、膝から崩れ落ちる者もちらほらと見える。
荊州は劉備政権の根拠地。
重臣の多くは荊州に故郷を持っており、その故郷の陥落は信じがたい出来事であった。
「劉兄」
前に進み出たのは張飛だった。
体も声も震え、目は赤く、髪と髭は逆立っているようにすら見える。
その張飛の呼びかけに、初めて劉備の顔に動揺が見えた。
劉備、関羽、張飛。彼らは三人で一つの命であった。語らずともその思いは分かるのだ。
「無念だ、あまりにも無念じゃねえかっ。これからだろ、これからっ、なぁあ!?」
「益徳……っ」
「孫権を殺す、呂蒙も、江東の人間は全員だ!"義"を踏みにじる畜生共を討ち果たさん!!」
まずい。尹黙は直感的にそう思った。
詳しい戦況は分からないまま動くことの危うさは、闇夜を出歩くようなもの。
ましてや敗戦の流れの中。
しかし部外者が口を挟むのは、劉備の感情を逆撫でするだけである。
「お待ちを」
すると張飛と劉備の間に、趙雲将軍が割って入る。
恐らくこの二人の間に割って入ることが出来る、唯一の人物だろう。
「殿下は既に一国の主で御座る。感情で兵を動かすではなく、大義名分の下に動かれるべきです」
「趙雲よ、孫権は盟約を破った、その不義を正すのだ。これ以上の大義名分は無い、違うか?」
「であれば殿下、まずは使者を立てて孫権の不義を糾弾し、広く天下に訴えかけるべきです」
「まどろっこしいことを言うな!関兄の仇を討つ、これ以上の理由はねぇ!!」
「張将軍、それは我々の感情の話だ!漢中王の興す兵とは、正義の兵でなければならん!!」
全身が肝のごとし。戦場で一切臆せず、劉備にも直言を吐く。
これが趙雲という無二の忠臣の姿だった。
だからこそ劉備は不快に感じつつも、趙雲に無二の信頼を預けた。
その姿は関羽の死でも変わることは無かったのだ。
開戦か、否か。
とにかく情報が乏しい。諸葛亮も口を紡いでいるあたり、本当に情勢が読めないのだろう。
加えて劉備にとって関羽という存在は、もはや言葉にも言い表せないほどの無二の存在。
ここに口を挟もうとするのは、本当に命がけの諫言となる。
「趙雲、お前はいつも言いたいことを言うな。だが、勘違いをするな」
劉備は腰を上げる。
空気は更に重苦しく人々の胸を押し潰す。
「孫権は討つ。仲間を殺した奴は、一族まとめて殺し尽くさねぇと筋が通らねぇ。劉備という男は、仲間を決して見捨てやしないのだ」
これが、乱世が生むべくして生んだ傑物。
義侠を貫くことが難しい乱世で、それを貫いたからこそここまで劉備は大きくなれたのだ。
今更その生き方を変える事なんて、出来るはずがない。
「いいや、殿下は間違っておられる!」
響いたのは、趙雲の声ではなかった。
しゃがれた、しかし尹黙には聞き馴染みにある老人の声。
全身から血の気が引き、倒れそうになる体を何とか両足で踏ん張る。
前に進み出たのは、言いたいことを言わなければ死ぬジジイ「来敏」だった。
胸を張り堂々と、小柄で頭のデカい爺さんは誰の目も気にせずに唾を飛ばす。
「……何が言いたい、来敏」
「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の地なり。百万の国民の命を私怨によって動かすは暴君の成す行いじゃ。戦争は博打でも、子供の喧嘩でもないのじゃぞ!」
「腐れ儒者ごときが、この俺を暴君と詰るか」
「なんじゃと!殿下は王となられて調子に乗っておるのではあるまいな!儂の忠言が中傷に聞こえるほど衰えたか!?」
もう止めようにも何をしようにも全てが遅かった。
しかしこれが来敏。周りがどれだけ顔を青くしていようと、それに気づく様子も一切ない。
「荊州を奪い返し、孫権を討つ。そして来敏と趙雲は獄に繋いでおけ。よく聞け、これより先は一切の諫言を許さん!」
剣を抜き、ズドンと床板に突き立てる。
眩暈がする思いのまま、尹黙はただただ床に頭を擦りつけた。
・劉備
この時代を代表する英傑の一人。天下の各地で戦いながら大きくなった傑物。
彼のフラフラした行動は「侠」の観点で見るといくらか分かりやすく、一本筋が通っている。
要するに仲間や、自分を頼ってきた弱き者のために命を懸けるし、その為に自分の命を繋ぐのだ。
仲間を家族以上に大切にするからこそ、多くの人々は劉備に付き従ってきた、というイメージ。
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