「贄なるもの 二十六」
急報に仕事を中断したロワットラは、堅牢な石造りの通路を急いだ。陽光を取り入れる天窓からの光に、書類仕事で疲れた目をしばたたかせる。
ひどく苛つく。
──みてほしいものがある?人形ごときが指図するような真似をして、領分を超えている。
ブウェイック家に保護され、何十年も居座るダリッド教授。十六都市同盟にて学術都市より追放されて流れ着いた異端者。
その従者の役目におさまっている、天使人形のイオはロワットラの嫌悪感を掻き立てる。
人の形をしているだけで、人形には痛みも恐怖もない。
それはまるで生きながらにして魂を失い、死んでいることに気が付かず、なんとか道楽を楽しもうとする人間に似た姿で、ロワットラにはことそらに目障りに映るのだった。
それが人間ならば哀れで、同情の余地がある。
暇つぶし以外のなにも見つけられない屍にも、僅かな苦痛はあるからだ。
それはまるで自分の似姿のようで…生まれながらに死んでいる、歩く水子のような人間に対して、ロワットラは共感を禁じ得ない。
一方、人形は愛を知らない。
愛されないからではなく、愛することができないから人は苦しむ。
その苦しみを持たない者は、どれだけ人の形をしていても家畜と同じで命にさしたる意味がなく、生死は単なる消滅でしかない。
ロワットラはそう考える。
自分が人を殺すことに生命の華を感じるのは、愛することを知っているからだ、と。愛することができないことに罪を感じるのは、根源的にすべての人間に無垢の意味を感じているからだ。それ以上のものはなく、それ以下のものはない。まるで世界そのものの存在価値と同じようで美しい。
そうした愛と調和の価値を知っているからこそ……それらの損壊に特別な情念を持つことができる。
だが、人を愛していない人間にとって、殺人は強い意味を持たない。
単に考えなしに人を殺して晒し首になったり、損得に基づいて殺人は悪いことだと言い張ってみたり。あるいは人を殺すこともなく、長寿の果てに死ぬだろう。
──そんな生になんの意味がある?
愛する、愛するからこそ人は完全性や無限を感じられる。
究極の安息に涙を流し、罪に苦しむことができる。そこに業や歓びが存在するのは、愛することが人間にとって最も自然な状態であり、自然を超越できうる唯一の態度だからだ。
超越。世界そのものを超える唯一の方法。
世界を愛し、己を愛するからこそ、他人や自然といった対象をはじめて愛することができる。真実の憎悪、全人類を滅ぼしたいというような憎悪を持つことさえできる。
反面、人を害したいと考えない人間は、人を愛したことがない。人を救うこともなく、趣味としての人生を生きるほかないのだ。
そういった人間は往々にして殺人を否定する。
愛することを知っている人間が、自殺や殺人を否定することができるはずがない。
愛を知らないからこそ、殺人を全否定することができる。
──ロワットラはだから人の形をしているだけの天使人形など、ほんとうは壊してしまったほうがよいと考えている。
天使人形の部屋に押し入ると、メテウス、その残骸がベッドに身を横たえている。
すっかり”人間だったもの”に変わってしまっている。
ロワットラの悲願……いや……バロート人すべての願いのために、贄にしようと考えていた少年が、役立たずになってしまっていた。
「メテウス、おまえは生きているのか?」
胡乱な顔でロワットラを見つめる銀髪の少年。
ロワットラは制御できない怒りを無理に眉間の奥に押し込むと、すまし顔で腕を広げながら執事服に袖を通している天使人形を見下ろした。こめかみが痙攣し、怒りでざぁと耳に血潮の音が乗る。
「神秘によって破壊されたものを再建する。それがおまえの地上での仕事ではなかったのか?天使人形の機能を十全に果たせていないではないか」
「……どこから説明しようかな。
ボクは間に合せの治癒をするべきではないと判断したんだ。次女ロワットラ。少年の記憶を念入りに見ておきたいんだよね」
人形を睨みつける。瑞々しい滑らかな肌をした、羊のような巻き毛に全身を包まれた少年。眠たげな目で伺うようにこちらをみているが、人形には歓びも恐怖もない。そんなものは敵にする価値がない。破壊してしまえば、ダリッド教授や父への言い訳が必要になる。だが……
その仮面を粉々に打ち砕いて、その白い無垢ぶった肌を切り裂き、水晶のような瞳を叩き割ることができるなら、それくらいは受け入れても良いと考えてしまっている。
「なぜだ? どうしてそう考えた?」
「見ればわかるさ。彼は、ただの恩寵者ではないのかもしれない。とおり一辺倒な処置は失敗するかもしれないんだよ」
「どれくらいかかる?」
「一昼夜。ねえ、次女ロワットラ。あなたが気にしているのはボクの作為でしょう?望むなら、一緒にみさせてあげるよ?監視すればいい」
「……」
ロワットラは否とは言わなかった。
──ユガ家の初代”混じりけなし渾沌”のウルルより幾百年が過ぎた。
このうえなく栄えた長命種、光人の楽園の墜落より、歴史が何度も入れ替わるほどの時が過ぎただろうか?
史書も曖昧な千年も昔の話、おとぎ話のような言い伝えがある。
民族が興ってから、バロート人は長い歳月で変化した。
半光人としての血は昔の祝福が抜け、人と変わらぬ寿命となったがゆえ、ただの人間の民族となった。
だが、だからこそ変わらないものが芯にある。
”禁戒の揺籃者”リインスモルクを人の身で殺神し、権能を奪い取った二代目”赤き”スモルクは、数ある戦神と呼ばれる神の中でもとくべつ信仰者の少ない神だ。ほかの土地では名すら知られていない。
決闘と戦争を守護する神。
戦神スモルクは血を求める神だ。
古代バロート王国の崩壊から現在までのどこかの地点で、スモルクは正気を失い、荒神と化した。
バロートの大地の中央にはぽっかりと砂漠があって、人の住める土地ではなくなっている。昼は灼熱で肌から火が吹き出し、夜はすべてのものが凍る生命のいない土地だ。その中央では砂嵐を纏った巨人が幻影と闘っている……。
荒神が、いままで飲んだすべての血を大地の底から汲み取り、赤い砂嵐ですべてのものを切り刻み、自らの身体から流れる血を飲んでは喜んでいるのだという。
血を求めて、血を求めている。そこに人間の理解できる理屈も情緒もない。闘い、そして痛みと死だけがスモルクの狂気を慰め、バロート全体が砂塵に包まれることを防いでいる。
ゆえにバロート人は大恩あるスモルクの魂を慰めるため、戦を厭わず血を流すことを誉れとしてきた。
先祖の血から、子孫の血まで、愛しいすべてのものを闘いに捧げる。
それが名誉だからだ。
ロワットラは世のほとんどすべてのものを信じていない。
だが、ゆえにこそ信じているものがある。
そのためには、不快な人形の言いなりになることも、他人の記憶を盗み見るような退屈な行いも、厭うものではなかった。
哀れな少年の髪をすくい、天使人形の手をとる。
再度問いかけた。
「メテウス、おまえはまだ生きているのか?」
◆
──無意味だ。この上なく無意味だ。
死んでいるのと変わらないのに、なぜ死なないのだろうか?
生き延びたところでなんになる?
ただ体が生きているのを見守っていた。
体の持ち主であるはずのおれが、生きようとしていないのに、なぜか飯を食っている。生命力に生かされているだけで、とっくに精神は半壊しているというのに。
生命力とはすさまじい。人間の意思で生きるために行っていると信じていた、たくさんのことが、単に生命がやっていたことだったといまはわかっていた。
吐き気がしている。肉の味が濃すぎて吐いてしまって、服をベトベトに汚すたび、誰かが拭いているようだ。卵さえも動物由来のものは味が濃くて食えたものではない。味の薄いスープを飲んで、太陽がのぼっては部屋が明るくなり、太陽が沈んで部屋が暗くなっていくのを見守る。すこしすっぱい匂いがしはじめると、桶に張った湯で全身を拭われた。
話しかけられても、意味がほとんど理解できない。時間がチカチカと動いては静止していて、物事を考えられない。
ほんとうはずっと眠っていたい。
だけれど眠るにしても、目を開けている時間がなくなるわけではない。
だから天井をずっと観察している。
明るくなり、そして暗くなる天井の観察だけが自分にできるすべてだ。
天井を眺めることしかできない毎日。
苦しいのか?
わからない。存在したくないから、存在しないふりをしている。それだけだ。
……死ねば解決する?本当にそんなに楽観的なことが実現するか?
死んだところでなんになる?
同じだ。すべて同じ。だって無意味なんだから。孤独で、虚無で……すべての観念や思考が無意味なのだから、停止するほかなくなっている。
なにもかも、どうだっていいことだった。
興味がない。
興味がなさすぎる。
心や人間性は消え失せ、死滅した情動の残骸が渦巻いている。
小さな感情や記憶が頭の中で再生されては消えていく。残るものはなにもない。破壊されたものが元に戻ることなどない。人間は一度壊れるとけっしてもとに戻ることはない。
ただ、生まれたくもないところに生まれ、生命に生かされていただけで、目的なんてなかったんだ。
普段の人間は、欲望や愛や怒りと同化して生きる情動をえる。
だが、体や感情に同化することをやめて、フラットな状態に戻ってしまったら?
すべての意味がなくなる。
虚無と孤独は真実、解決されようのないことだ。
苦しみを超えて、苦しみさえ存在しなくなる。
明るくなっては暗くなる石造りの天井を眺め続けるうち、もう絶望すらなくなってしまった。
絶望できるうちは、まだ世界への期待が残っている。おれはもうなにも期待していない。
人間的な苦しみもなくなり……存在という苦痛のみが残る。
スープが運ばれてくるから食べて寝ているだけだ。そこに深い意味はない。おれが生まれたことにも。ときおり話しかけられるが、内容があまり聞き取れない。おそらく意味がないのだろう。人間の話していることに意味なんてあった試しがなかったような気がする。
使われなくなったエネルギーが暴走しているのか、毎夜、極彩色の夢までみる。
エクスタシーが暴走して、色をみるだけで歓喜が爆発して泣いてしまう。世界の明度が濃くなりすぎて、気持ちが悪い。
思考が澄んでいて、何もかもが美しく精細に輝いている。
人生で、これほどの安寧と喜びを得たことはなかった。
なのに、今となってはそれらすべてに意味はないのだ。
人生に意味はないのだ。
なにもない。
おれはなんなんだ?
人間なのだろうか?
否。
違う、それだけはわかる……。
目をつむるたび、ただ思考が頭を走り抜けるものの、それを眺めるだけで意味が感じられない。よく頭が思い出そうとするのは前世の記憶。
ひどく無意味な一生だった。
もはや意味など残っていないのに、なぜ考えているのだろうか?
……考えなければ、生きられなかったからだ。
なるほど、水に馴染めないサカナだけがはじめて物事の是非を考え始めるのだという。
苦しみは人を捻じ曲げはするが、孤独と苦しみなくして人間は物事を深く考えようとは思わない。
深い苦しみも歓喜も抱かず、なにも考えずに死ねるなら、それは真実の幸福に違いない。
◆
「メテウス、おまえは生きているのか? 否。おまえは死んでいる。死産で生まれた水子が、不幸にも生きながらえ、たまたま歩いているだけだ。だが……」
「どうして私はおまえを愛おしいと思うのだろうか?」
◆
急報に仕事を中断したロワットラは、堅牢な石造りの通路を急いだ。陽光を取り入れる天窓からの光に、書類仕事で疲れた目をしばたたかせる。
ひどく苛つく。
──みてほしいものがある?人形ごときが指図するような真似をして、領分を超えている。
ブウェイック家に保護され、何十年も居座るダリッド教授。十六都市同盟にて学術都市より追放されて流れ着いた異端者。
その従者の役目におさまっている、天使人形のイオはロワットラの嫌悪感を掻き立てる。
人の形をしているだけで、人形には痛みも恐怖もない。
それはまるで生きながらにして魂を失い、死んでいることに気が付かず、なんとか道楽を楽しもうとする人間に似た姿で、ロワットラにはことそらに目障りに映るのだった。
それが人間ならば哀れで、同情の余地がある。
暇つぶし以外のなにも見つけられない屍にも、僅かな苦痛はあるからだ。
それはまるで自分の似姿のようで…生まれながらに死んでいる、歩く水子のような人間に対して、ロワットラは共感を禁じ得ない。
一方、人形は愛を知らない。
愛されないからではなく、愛することができないから人は苦しむ。
その苦しみを持たない者は、どれだけ人の形をしていても家畜と同じで命にさしたる意味がなく、生死は単なる消滅でしかない。
ロワットラはそう考える。
自分が人を殺すことに生命の華を感じるのは、愛することを知っているからだ、と。愛することができないことに罪を感じるのは、根源的にすべての人間に無垢の意味を感じているからだ。それ以上のものはなく、それ以下のものはない。まるで世界そのものの存在価値と同じようで美しい。
そうした愛と調和の価値を知っているからこそ……それらの損壊に特別な情念を持つことができる。
だが、人を愛していない人間にとって、殺人は強い意味を持たない。
単に考えなしに人を殺して晒し首になったり、損得に基づいて殺人は悪いことだと言い張ってみたり。あるいは人を殺すこともなく、長寿の果てに死ぬだろう。
──そんな生になんの意味がある?
愛する、愛するからこそ人は完全性や無限を感じられる。
究極の安息に涙を流し、罪に苦しむことができる。そこに業や歓びが存在するのは、愛することが人間にとって最も自然な状態であり、自然を超越できうる唯一の態度だからだ。
超越。世界そのものを超える唯一の方法。
世界を愛し、己を愛するからこそ、他人や自然といった対象をはじめて愛することができる。真実の憎悪、全人類を滅ぼしたいというような憎悪を持つことさえできる。
反面、人を害したいと考えない人間は、人を愛したことがない。人を救うこともなく、趣味としての人生を生きるほかないのだ。
そういった人間は往々にして殺人を否定する。
愛することを知っている人間が、自殺や殺人を否定することができるはずがない。
愛を知らないからこそ、殺人を全否定することができる。
──ロワットラはだから人の形をしているだけの天使人形など、ほんとうは壊してしまったほうがよいと考えている。
天使人形の部屋に押し入ると、メテウス、その残骸がベッドに身を横たえている。
すっかり”人間だったもの”に変わってしまっている。
ロワットラの悲願……いや……バロート人すべての願いのために、贄にしようと考えていた少年が、役立たずになってしまっていた。
「メテウス、おまえは生きているのか?」
胡乱な顔でロワットラを見つめる銀髪の少年。
ロワットラは制御できない怒りを無理に眉間の奥に押し込むと、すまし顔で腕を広げながら執事服に袖を通している天使人形を見下ろした。こめかみが痙攣し、怒りでざぁと耳に血潮の音が乗る。
「神秘によって破壊されたものを再建する。それがおまえの地上での仕事ではなかったのか?天使人形の機能を十全に果たせていないではないか」
「……どこから説明しようかな。
ボクは間に合せの治癒をするべきではないと判断したんだ。次女ロワットラ。少年の記憶を念入りに見ておきたいんだよね」
人形を睨みつける。瑞々しい滑らかな肌をした、羊のような巻き毛に全身を包まれた少年。眠たげな目で伺うようにこちらをみているが、人形には歓びも恐怖もない。そんなものは敵にする価値がない。破壊してしまえば、ダリッド教授や父への言い訳が必要になる。だが……
その仮面を粉々に打ち砕いて、その白い無垢ぶった肌を切り裂き、水晶のような瞳を叩き割ることができるなら、それくらいは受け入れても良いと考えてしまっている。
「なぜだ? どうしてそう考えた?」
「見ればわかるさ。彼は、ただの恩寵者ではないのかもしれない。とおり一辺倒な処置は失敗するかもしれないんだよ」
「どれくらいかかる?」
「一昼夜。ねえ、次女ロワットラ。あなたが気にしているのはボクの作為でしょう?望むなら、一緒にみさせてあげるよ?監視すればいい」
「……」
ロワットラは否とは言わなかった。
──ユガ家の初代”混じりけなし渾沌”のウルルより幾百年が過ぎた。
このうえなく栄えた長命種、光人の楽園の墜落より、歴史が何度も入れ替わるほどの時が過ぎただろうか?
史書も曖昧な千年も昔の話、おとぎ話のような言い伝えがある。
民族が興ってから、バロート人は長い歳月で変化した。
半光人としての血は昔の祝福が抜け、人と変わらぬ寿命となったがゆえ、ただの人間の民族となった。
だが、だからこそ変わらないものが芯にある。
”禁戒の揺籃者”リインスモルクを人の身で殺神し、権能を奪い取った二代目”赤き”スモルクは、数ある戦神と呼ばれる神の中でもとくべつ信仰者の少ない神だ。ほかの土地では名すら知られていない。
決闘と戦争を守護する神。
戦神スモルクは血を求める神だ。
古代バロート王国の崩壊から現在までのどこかの地点で、スモルクは正気を失い、荒神と化した。
バロートの大地の中央にはぽっかりと砂漠があって、人の住める土地ではなくなっている。昼は灼熱で肌から火が吹き出し、夜はすべてのものが凍る生命のいない土地だ。その中央では砂嵐を纏った巨人が幻影と闘っている……。
荒神が、いままで飲んだすべての血を大地の底から汲み取り、赤い砂嵐ですべてのものを切り刻み、自らの身体から流れる血を飲んでは喜んでいるのだという。
血を求めて、血を求めている。そこに人間の理解できる理屈も情緒もない。闘い、そして痛みと死だけがスモルクの狂気を慰め、バロート全体が砂塵に包まれることを防いでいる。
ゆえにバロート人は大恩あるスモルクの魂を慰めるため、戦を厭わず血を流すことを誉れとしてきた。
先祖の血から、子孫の血まで、愛しいすべてのものを闘いに捧げる。
それが名誉だからだ。
ロワットラは世のほとんどすべてのものを信じていない。
だが、ゆえにこそ信じているものがある。
そのためには、不快な人形の言いなりになることも、他人の記憶を盗み見るような退屈な行いも、厭うものではなかった。
哀れな少年の髪をすくい、天使人形の手をとる。
再度問いかけた。
「メテウス、おまえはまだ生きているのか?」
◆
──無意味だ。この上なく無意味だ。
死んでいるのと変わらないのに、なぜ死なないのだろうか?
生き延びたところでなんになる?
ただ体が生きているのを見守っていた。
体の持ち主であるはずのおれが、生きようとしていないのに、なぜか飯を食っている。生命力に生かされているだけで、とっくに精神は半壊しているというのに。
生命力とはすさまじい。人間の意思で生きるために行っていると信じていた、たくさんのことが、単に生命がやっていたことだったといまはわかっていた。
吐き気がしている。肉の味が濃すぎて吐いてしまって、服をベトベトに汚すたび、誰かが拭いているようだ。卵さえも動物由来のものは味が濃くて食えたものではない。味の薄いスープを飲んで、太陽がのぼっては部屋が明るくなり、太陽が沈んで部屋が暗くなっていくのを見守る。すこしすっぱい匂いがしはじめると、桶に張った湯で全身を拭われた。
話しかけられても、意味がほとんど理解できない。時間がチカチカと動いては静止していて、物事を考えられない。
ほんとうはずっと眠っていたい。
だけれど眠るにしても、目を開けている時間がなくなるわけではない。
だから天井をずっと観察している。
明るくなり、そして暗くなる天井の観察だけが自分にできるすべてだ。
天井を眺めることしかできない毎日。
苦しいのか?
わからない。存在したくないから、存在しないふりをしている。それだけだ。
……死ねば解決する?本当にそんなに楽観的なことが実現するか?
死んだところでなんになる?
同じだ。すべて同じ。だって無意味なんだから。孤独で、虚無で……すべての観念や思考が無意味なのだから、停止するほかなくなっている。
なにもかも、どうだっていいことだった。
興味がない。
興味がなさすぎる。
心や人間性は消え失せ、死滅した情動の残骸が渦巻いている。
小さな感情や記憶が頭の中で再生されては消えていく。残るものはなにもない。破壊されたものが元に戻ることなどない。人間は一度壊れるとけっしてもとに戻ることはない。
ただ、生まれたくもないところに生まれ、生命に生かされていただけで、目的なんてなかったんだ。
普段の人間は、欲望や愛や怒りと同化して生きる情動をえる。
だが、体や感情に同化することをやめて、フラットな状態に戻ってしまったら?
すべての意味がなくなる。
虚無と孤独は真実、解決されようのないことだ。
苦しみを超えて、苦しみさえ存在しなくなる。
明るくなっては暗くなる石造りの天井を眺め続けるうち、もう絶望すらなくなってしまった。
絶望できるうちは、まだ世界への期待が残っている。おれはもうなにも期待していない。
人間的な苦しみもなくなり……存在という苦痛のみが残る。
スープが運ばれてくるから食べて寝ているだけだ。そこに深い意味はない。おれが生まれたことにも。ときおり話しかけられるが、内容があまり聞き取れない。おそらく意味がないのだろう。人間の話していることに意味なんてあった試しがなかったような気がする。
使われなくなったエネルギーが暴走しているのか、毎夜、極彩色の夢までみる。
エクスタシーが暴走して、色をみるだけで歓喜が爆発して泣いてしまう。世界の明度が濃くなりすぎて、気持ちが悪い。
思考が澄んでいて、何もかもが美しく精細に輝いている。
人生で、これほどの安寧と喜びを得たことはなかった。
なのに、今となってはそれらすべてに意味はないのだ。
人生に意味はないのだ。
なにもない。
おれはなんなんだ?
人間なのだろうか?
否。
違う、それだけはわかる……。
目をつむるたび、ただ思考が頭を走り抜けるものの、それを眺めるだけで意味が感じられない。よく頭が思い出そうとするのは前世の記憶。
ひどく無意味な一生だった。
もはや意味など残っていないのに、なぜ考えているのだろうか?
……考えなければ、生きられなかったからだ。
なるほど、水に馴染めないサカナだけがはじめて物事の是非を考え始めるのだという。
苦しみは人を捻じ曲げはするが、孤独と苦しみなくして人間は物事を深く考えようとは思わない。
深い苦しみも歓喜も抱かず、なにも考えずに死ねるなら、それは真実の幸福に違いない。
◆
「メテウス、おまえは生きているのか? 否。おまえは死んでいる。死産で生まれた水子が、不幸にも生きながらえ、たまたま歩いているだけだ。だが……」
「どうして私はおまえを愛おしいと思うのだろうか?」
◆




