「おまけ〈アナスタシア〉」
◆
>アナスタシア
メテウスが牧場にやってくる前日。
アナスタシア・クラーグ・ハヴォックは、神象持ちの孤児が牧場に来ると聞いて戸惑っていた。
プピヤ煙草の光を暗闇でみつめる。
紫煙が寝室の天上に滞留してゆく。
プピヤ煙草は僅かなエーテルを含む。
その青白い煙は、魂が抜けていくようで体を安らげてくれる。
「リヤルト様。ほんとうに大丈夫なのかい? もとは荒んだ孤狼児だって話じゃないか」
「ガレアの命を助けた神象持ちの子供だ。義理があるうえ、心配する必要はないと姫様も言っていた」
「レアちゃんも初陣で大変だったとは聞いていたけれど……それにしても、ロワットラ様の保証なんて、ぜんぜん信用ならないねえ」
「言うな」
多忙なリヤルトは早朝に寝台から抜け出し、牧場にやってくる『メテウス』という少年はアナスタシアの差配にゆだねられることになった。
ハヴォック家はダスカーニャ平野を支配する大貴族だ。遊牧系貴族として無数の遊牧民を支配しているし、地域の中心となる都市を無数に治め、内海沿いの大都市も三つ持っている。
とくに東周りの陸路で北へ向かう人間は必ずハヴォック家の領地を通ることになるので、関所代わりの交易都市は莫大な富を稼いでいた。
根拠地となりうる城、無数の牧場、ダスカーニャ平野の草を家畜に食わせる権利を持っているが、そのなかでも東部の端に位置する〈メルキー湖牧場〉は、ハヴォック家の郎党が一度は奉公に来て身内として働く重要な施設である。畜産が重要なのはもちろんのこと、豪族の子弟を教育(つまりは人質)したり、税のとれぬ遊牧民の支配階級と誼を結ぶ(つまりは脅迫)ための場だ。
戦士や戦士になる若者たちが知己を得て成長するための訓練場である。
リヤルトの代理人として差配するアナスタシアの責務は重たいものだ。
頭を悩ませながら炊事場へ行く。
下働きのエギルが無造作にリンゴを齧っているのを、アナスタシアは俊敏な動作でとっ捕まえた。
「お、おうふ、奥様。なんだい?」
エギルはとぼけた笑みをしている。この男は下働きといっても戦に出る譜代の家臣ではないというだけで、頼りがいのある世慣れた流れ者だ。面倒ごとを押し付けるにはうってつけの人材で重宝していた。
「ちょいと頭に入れといてくれ。
神象を刻まれた少年がうちにくることになった。ブウェイックの血を引いていて、ロワットラ様の肝いりなんだと。受け入れる部屋なんかを仔細頼んだよ」
「へぇ……。わかったよ。そりゃ難儀だな。難しい顔しているが、ブウェイック家の子供だろ?ダイジョブなんじゃないか?」
「それがねぇ……」
アナスタアは赤毛で大柄の女だ。貴族の正当な係累として〈炉心〉を受け継いだ生まれながらのエーテル遣いであり、そこらの男や子供に負けるような腕っぷしはしていない。
美人というよりも凛々しい顔つきをしているのが、今は少し不安そうに顎を撫でていた。男なら美丈夫と言われそうな顔立ちをしているのを、エギルはどきどきしながら見守る。機嫌を損ねるとすぐに殴られるからだ。とにかく色々な意味で手が早い。
「その子供……どうも孤狼児だったんだとさ。
レアちゃんが戦で世話になったから冬のあいだうちにくるって話だけど、どうしたもんかと思ってねえ。下手なことして死人を出しても面白くない。ちょいと事情を聴いてきてくれないかい?
戦士になるのはやめろってさんざ言ってきた手前、アタシがクビを突っ込んだらまたレアちゃん意固地になっちまうかもしれない。ほんと五歳の頃から成長しないんだから……」
「ほう……」
エギルは牧場の奇妙な親子関係を他人事ながら面白く感じている。常に二百人は逗留している牧場には日夜もめごとが起こっているが、やはり中心にいけばいくほどややこしくて面白い。
リヤルトの正妻アナスタシアは、貴族の妻とは思えない大雑把な言動とはうらはらに、繊細な政治のできる女だ。自分の子も、他の夫人の子も全く区別せず一緒に育てた牧場の『おっかさん』でもある。
血を好むガレアーンに『女が戦士になったって最後はズタボロに犯されて死ぬだけだろうが!!アンタ、承知しないよ!!』と怒鳴って無理やり嫁にいかせようとした軋轢がある。ガレアーンが家出して、リヤルトが仲裁し、この件は終わったが、感情は尾を引いていた。
戦士関連の事柄を頭ごなしに聞けば、ガレアーンは不貞腐れるため、こうして気を配っているのだった。
「お嬢も意地っ張りだからな。俺が聞いといてやるよ。それにしても最近ゴタゴタが多いね奥様。お嬢が初陣をこなせたのはよかったけれど、まさかグノークス様が裏切り者だったとは。これからどうなっちまうんだろうね?」
「それなんだよねえ。リヤルト様もねえ、行脚をもうちょっと家臣に任せたらいいんだけれど」
「それはいけねえよ。反乱が起きる」
「そういうもんかねぇ?」
「奥様はアペイロンから来たって言ってたな。アペイロンの百姓と、バロート人の百姓を一緒にしちゃいけねえ。飢えて死ぬくらいなら人をいくらでも殺す百姓ばかりだ。下手に逆らったら、最強の戦士に滅ぼされるから全員従ってるだけ。忠誠心なんてありゃしない。
領主が顔も見せねえってなると、豪族どもは弱ったと思って攻撃してくるかもわかんねえ。適当なこと言って税をごまかすくらいはするだろうな」
「うーん……アタシは嫁いで30年は経つけどねぇ、バロート人の戦争好きはとんと理解できないよ。平和に過ごしたほうが絶対にいいと思うんだけどねぇ……」
「そこはほら、戦神さまのおわす土地だからよ、恐れ多くも我らが蠅斎天は、戦がないと不機嫌になって土地を荒らす神様だから、贅沢いってたら滅ぼされちまうんだよ」
エギルは内心で皮肉をもらす。
平和を求めるバロート人?
動かないゴキブリだってそれより生き残る目があるだろうぜ、と……。
エギルがガレアーンの住まう別棟に行くのを見送り、アナスタアはどっかと腰を下ろしてプピヤ煙草を吸う。
前掛けは汚れていて、手のひらは分厚く、髪はくすんでいる。だが血のなせる業か、放心していてもアナスタシアは美人だった。アナスタシアの容貌は支配におおいに役立っている。
いくら女を見下げているつもりでも、男というものは美人に命令されることをどこか喜ぶもので、女の命令など聞くものかとぶつくさ言ってみせる男に限って、アナスタシアの貫禄には従う。
夜這いに来たりナイフを抜いて見せる牧童くらいならアナスタシアは平手で制圧できた。女房を殴る男は無限にいても、腕力と容貌があわさった高貴な血のアナスタシアに逆らう男は稀である。
本能だろうか?男というものはとにかく高貴な女には弱いものだ。
だからこそ。
ガレアーンには自分と同じような苦労をしてほしくなかった。
女など殴りながら犯せば支配できると考える男はいくらでもいる。いつでも殴り殺せる女の命令など聞くものかと考える男などいくらでもいる。だから、ガレアーンのような愛らしい少女が戦士になれば、どのような労苦が待ち受けるか想像することもできない。
高貴な血に生まれたというだけでなく。財産があるというだけでは飽き足らず。
戦士としての価値を、ガレアーンは血を流して証明しつづけなければならないのだ。
なのに末路は戦死と決まっている。
そんな茶番になんの意味がある?
馬鹿な男どもに付き合う必要などないのだ。
男どもの見栄の張り合いは、すぐにナイフを抜く殺し合いになる。
女が賢いとは言わないが、女の諍いはいじめ殺したり毒殺をすることはあっても、頭に血が昇ったと言うだけでナイフを抜く男たちよりはよほどマシだろう……
アナスタシアには無意味な血の流し合いに利益があるとは全く思えないし、ほとほと愛想がつきてしまっている。
ガレアーンはそんな男どもの意地の張り合いの世界にいくのだ。
あまりに無意味な労苦を背負うように思えて、無邪気な子供がその道に進もうとするのを止めるのは己の義務だと考えていた。
嫁にいって子を産めば、血の気も収まるだろうと期待して勝手に縁組を企てたものだが……
「人殺しを育てたつもりなんてなかったのに。
一番面倒のかかるレアちゃんが、戦士になっちまった。
ちゃんとした従者をつけるよう、リヤルト様に何度でも言っとかないとね……戦なんてやめちまえばいいのに、バロートじゃあ戦をやらなきゃ滅んじまうんだから、因果なこったね……」
アナスタシアはバロート人を理解できない。
アナスタシアはバロート人ではない。
アペイロン王国の第四位貴族の出身である。
昔、アペイロンの貴族とブウェイック家が集団婚姻した時期にハヴォック家へ嫁いできた。
若い女が異国の貴族へ送り込まれる。
見返りなど求めず、ただ寄り親の貴族に命令されたというだけで、アナスタシアは頭数として嫁いできた。
政治の手駒として、捨て石にされたようなものだ。
運命を諦めていた。
まさか、こんなに幸福になるとは、想像でさえ期待もしていなかった。
牧場には自分の子だけでなく、一族に連なる面倒のかかる子供たちがたくさん送り込まれてくる。元気に歯の抜けた笑みを浮かべる子供たちを、アナスタシアはどうしても他人の子供なんて思うことはできなかった。戦で知っている若者が死んだと聞くと、そのたびに泣いてしまう。
人生は過ぎ去っていく。いつのまにかハヴォック家の当主に信頼され、巨大な牧場を差配する毎日を送っていた。
それでも……こうして紫煙が渦巻くのを眺めて放心していると、ふと故郷を懐かしく思うこともある。
超大国アペイロン王国の貴族社会は複雑怪奇だ。
父と母は領地を持たぬ官僚貴族であり、婚姻の道具として育てられたアナスタシアは決して家族に思い入れがあるほうではない。親子の情のようなものが介在する家ではなかった。
アペイロン王国の官僚貴族は職位を得てはじめて貴族として認められるような弱い立場だが、王都と宮廷とはそれだけで一つの世界をなしていて、そのなかに限って地位の上下はそのまま人間の価値を決めていた。アナスタシアの両親にとって地位は絶対だった。
社交界で悪い噂を流されるのを何よりも恐れていた。アナスタシアは子供の頃から体格がよく、義侠心があり、腹を隠す社交が不得意だったから、よい縁組は望めないと教育にあまり金をかけられなかった。母方の祖父の家で遊ぶのが好きだった。祖父祖母の愛情を受けたことがアナスタシアの最上の幸運だった。
反面、冷たい空気の流れる屋敷と、血が繋がっているとは思えない他人行儀な兄たちを恐れていた。
だが、それでも……。
教師に作法を叩きこまれながら食べた、冷たい料理が、小さな庭が、無性に懐かしくなることがある。
兄の一人が家を継いでいるだろうから、いま帰っても、家に入ることすら怪しいものだ。アナスタシアの故郷はもう存在しないのだった。
ときおり、狂おしい寂しさがアナスタシアを襲う。
故郷は思うだけのものになった。
人生は過ぎ去っていく。
もう若くはない。
時間は後戻りできない。
時間が過ぎ去るものだと真に理解したのは、いつの話だっただろうか?
育てた子供が戦で死んでいく。
病で顔見知りが死ぬことが増えた。
どのような苦労を重ねた人間も、死ねば人の口にのぼる数が減り、やがて消える。
その生を、その死を覚えている人間はだれかいるだろうか?
もう言葉にも上がらない死人の名をアナスタシアは覚えている。
だが、若くして死んだ顔をもう思い出せない。
途方もなく胸が空虚になる。
なんの意味もない人生。しかし、意味のある人生とはなんなのだろう?そこに違いなど本当にあったのだろうか?もしも違うのだとしたら、アナスタシアは名誉ある死人になどなりたくはない、誰も顔も思い出せない無意味な死人になりたいと願う……
煙草が短くなっていく。
煙草を吸い終えたら、大食らいの牧童たちのために、人手を集めて朝食を作らなくてはならない。
死人の記憶が増えるたび、アナスタシアはいつかその重みで歩けなくなる日が来るのだと理解している。
熟慮の結果、アナスタシアは子供に安らかな生活を与えようと決めた。特別扱いはかえってよくない結果を生む。当人の気質を確認して、影ながら配慮するのが最上だろう……
──神象を刻まれた子供。戦で使い捨てにされる子供。扱いを間違えれば災いとなる子供。
これ以上ない厄種だ。
だが、人の股から血を流して生まれた子供だろう。
子供には可能性がある。大人には持ちえないものだ。
アナスタシアは子供に幻想を抱いていない。
生まれながらに生意気だったり、嫉妬深く怒りっぽかったり、利己的で邪悪な子供なんていくらでもいる。人を苛め抜くのが好きな子供だったり、猫の腹を裂くのが好きだったり、鶏の首を切って遊ぶ子供だって稀に、しかし珍しくないほどいる。子供は悪いことが大好きで、盗み、嘘をつく。子供が子供を強姦することもよくあることだ。親にしか可愛く見えない子供なんてたくさんいる。
けれどアナスタシアはそういった子供を見捨てられない女だ。
アナスタシアにだって、好きになれない子供もいる。性質の悪い悪戯を好む子の片腕を切り落としたことは何度もあるし、排泄物を隠し持つ男の子が来たときは辟易としたし、女の子ときたら生まれがらに女だから、同じ女のアナスタシアにはいやらしい嘘と演技を感じさせることがよくある。それは稚拙で無害で見え透いていて、罪のないものであるがゆえに、かえってその可愛らしさが勘に障るのだった。
だが、そんな憎たらしい気持ちにさせられる子供たちだって愛される価値があるはずだった。
自分なんかにはわからない、途方もない値打ちがあるはずだった。
世界にいくら棘の生えた壁があろうとも、目の前の子供を愛することには、理屈に頼る頓馬な人間には伺い知れない、完全な意味があるはずだった。
子供が生まれることを祝福し、子供が育つことを手助けし、そのすべてを肯定できないなら、アナスタシアにとって人間など無価値だった。
アナスタシアにとって子供を愛することは損得勘定を超えていて、この損得にしか興味のない哀れなけだものの世に残った、救いのような事柄だった。
一人の子供を愛することができるならば、どれほど人を憎々しく思おうとも、真実すべての人間を愛するに等しいものだった。
それが錯覚でも構いはしない。
それは博愛でもなければ倫理観でもなく、夜眠るときふと寒々しい心地になったときの祈りだった。あらゆるものの中に一つの愛があるかどうかの話だった。子供を愛することができるのならば、世界は救われているのだった。
妾たちの子供を無理やりに引き取ったのも、大人の都合で子供たちに殺し合いをさせないための措置だ。女たちは腹を痛めた子供──すなわち自分の未来に等しい──を産んだそばから奪われ、アナスタシアを恨みぬいたものだし、多くの人間は眉をひそめたものだが、アナスタシアはてんで気にしなかった。
女は、産んだ子供をある程度自分と同一視するものだから、乳幼児を無理に取り上げたアナスタシアの憎まれようは尋常なものではなかったが……
これは明白な欠点だが、アナスタシアは血の繋がった親族とか、腹を痛めて産んだ子供を取り上げられた女の底知らぬ恨みなどに一切の配慮をしなかった。
子供の親がどうとか、人様の子供を預かっているとか、そんな他人が考えるようなことはアナスタシアにはなんの興味もないことだった。
アナスタシアは強情な女だ。
アナスタシアは行動に対する申し開きなど、後ろくらいところのある人間が考えるものだと開き直っている。
普通の人が大切にする、財産や評判や余命に安心感を覚えるほど、アナスタシアは人生を無価値だとは考えていない。
王都という一つのセカイから別の異国にやってきたアナスタシアには、それらは馬鹿げた慣習でしかなかったし、理解しようとするとっかかりもなかった。
世間体のために、あるいは、周りの人間を不快にさせない最低限の礼儀として、そういったことは隠せと言われたこともある。
アナスタシアにはわからない。
正しい人のふりをするなんて、いかにも卑劣な人間のやることでゾッとしない。人間は生きているというだけで真実人を殺すに等しい害悪を無辜の他者に与えて続けているもの、なのに、無害でいようとすることはあまりにも卑劣だ。さらに、理屈をこねくり回して話してみせるなんて、一線をこえて滑稽で、詐欺師だけがやらねばならない地獄の行脚だ。そんな境遇に身を落とすほどアナスタシアは人間に絶望していない。
他者との取引で成り立つすべてのものは珍奇で醜悪な美食家の好む魚のようなもので、いかにも少し別の土地や時代に行けば綺麗さっぱり無意味になってしまうもので執着が湧かない。
金や地位でさえ、異国では意味が変わる。
バロートでは戦士であるということがそれらを凌駕する財産でありうる。何もかもが衣服の飾りにも似ていて、アナスタシアには興味の沸かない事柄だった。
ゆえにアナスタシアは憎まれ……異国の女だというのに、バロート人にこの上なく尊敬されている。殺され憎まれることを恐れない、理屈ではない闘争。それがバロート人の希求する、第一の美徳であるがゆえに。
──厄介払いでやってくる子供に、せめて帰れる場所を与えようと考える。
神象を持つ子供は稀にいる。恩寵者として大権を振るうまで成長するものは稀で、ほとんどが不幸な末路をたどるし、周りを巻き込んで不幸にするものだった。
だが、それがなんだというのだろうか?
年端もいかない子供が腕の中にやってきて、その動物臭い子犬じみた血の通った熱を守れないなら、アナスタシアは自分のことを嫌いになってしまうだろう。世界など無価値になり、生きることに意味がなくなる。だから牧場で子供を預かると、首を吊るようなことにだけはならないよう、気を配ることにしている。
たとえ、そのあと子供がどのような運命をたどるとしても……
アナスタシアは政治のわかる女だ。牧場に骨休みにやってきた、リヤルトの従士を務める戦士たちに話を聞くため、煙草をもみけし、前掛けをぎゅっと占めて歩き出した。
大股だ。アナスタシアは分をわきまえていて、情深く、並外れて鋭い女だから、ブウェイック家に徴用された才能ある子供のほとんどが五年以内に死ぬということも理解している。
アナスタシアが気後れしていたのは、近く死ぬ子供を預かるという話だったからだ。
◆




