52「ザップ 十二」
◆
「おまえ、馬に乗れるか?」
「自信はあまりありません……あっ。馬車の運転ならできますよ?」
メテウスは上目遣いで言った。
半遊牧民であるバロート人は鞍も鐙もなしで乗れて当たり前なので、もしも裸馬を渡されたら困るのは自分だ。子供の体で裸馬を乗りこなす自信はなかったし、馬に乗るための筋肉が育っていないので、エーテルを使わずに長時間乗れば確実にお尻がべろんべろんになる。ロワットラは見下した目を返した。
「チッ。外の人間はこれだから──リージェント!見送りはいいから、戦士団に休息をとらせておけ。明日には戻るから、深酒をしたら殺すと伝えておけ。では、いくか」
……いくの?困惑するメテウスを置いて、振り向きもせずロワットラは発進した。
問答無用である。
やると決めたらやる人間が貴族だとこうなるのだろうか。
なおすれ違う人々はロワットラの視線を受けると露骨に目を反らすので、察するものがある。
迷路じみた通路を長いあいだ歩き、やがて巨大な厩舎に到着した。ロワットラは歩幅を子供のそれに合わせないのでメテウスはすでに体力の半分を使い果たしてゼーハーいっている。
「替え馬はいらん。ルネードを用意してくれ。あと水を二人分。飯はいらん」
挨拶すらなくロワットラは馬丁に指示をだした。
立派な青毛の馬に、馬丁が手早く馬具をとりつけていく。メテウスは『あ、馬具つけてる……よかった……文明的だ』と安心した。戦場では、裸馬にすっ裸で乗った大男が血まみれの武具を振りかざし勃起しつつ雄たけびする姿を目撃していたので、蛮族度合いを過度に見積もっていたらしい。おそらく錯覚だった。
ロワットラは馴染みの馬の額をつぎつぎに撫でて優しい声をだしている。
……どうして人間性に欠落のある人種というものは動物に過度に優しいのだろうか、人間を愛することができないから消去法で動物が好きになるのか? 人に優しくしたいという本能を満たすことができないねじくれた人格を持つ分際で、動物を愛でているのか?
ちなみにメテウスは動物好きだが、自分はノーカンだと考えていた。
自分のような善良で人好きのする動物好きの印象まで悪くなるから、人格のねじ曲がったやつは動物と関わらないでくれないか?とまで考えていた。
ロワットラもやはり呪われた動物愛好家の末裔らしく、優しい顔をしているので、メテウスは勇気を出して目的を聞くことにした。
「すみません、今からどこに行くんですか?」
「おまえを親戚に預けに行く。城に置いていても戦のない冬の間は使い道がないしな。鍛錬を怠るなよ」
「!?」
──いきなり親戚に預けられるの!? おれがただの子供だったら観賞魚みたいに環境の激変で衰弱するぞ!?
メテウスは自分の扱いが犬猫レベルだと思い知り絶句した。正確には、ちょっと愛着のある犬ならもう少し配慮するので、愛着のない野良犬くらいの扱いである。いつなんどき犬鍋にされてもおかしくはない。犬や猫を虐げる人間のことを許せない愛心を持つメテウスとしては自分のことも虐げてほしくない所存である。
「そんな顔をするな。一度兄弟と呼んだからには、この姉を信じろ。悪いようにはしない」
他人が『悪いようにしない』と言ったとき、ほぼ確実に悪い扱いをされるというメテウスの経験則が激しく抗議していたが、とりあえず信じることにした。なぜなら信じなくても結果が変わらないので信じたほうがお得だからである。信じたほうがお得、唯一神の信仰と同じ原理だ。
「証拠に、金をやる。蔵遮腑に入れておけ」
ぽいっと革袋を手渡された。ずっしりと重い。銀棒を詰め込んであるのかな、とのぞき込むと、金棒が数十本入っていた。
「!? こんな大金、受け取れねえよ! なに考えてんだ!?」
「言葉遣いをあらためろ。まったく──下賤の生まれというのは動転すると地金がでるからいけない。血の色がよくないんだろうな。盛っては好き勝手に番う野合で生まれた野人に気品を持てとはいわん。だが、せめて生まれの悪さを隠してほしいものだ。まったく──」
……めちゃくちゃ言いやがるなこのアバズレ! どんな馬鹿貴族でももうちょっと本音は隠すだろ、オイ! ここはひとつ、おれが平民を代表して睨みつけてやる!
キッ!!
地面を睨みつけ、メテウスは内心だけで猛り狂った。
表にだせば殴られるので控えめだ。あとはそっと胸あたりを見つめて反撃ということにした。おっぱいを見ることで怒りは静まった。無力とはかようにみじめである。
「一応はブウェイック家の傍系ということになるんだ。金に困って馬鹿なことをされたくないから、はした金くらいはやる。おい、変な目でみるな」
けっしてツンと上向きのおっぱいを睨みつけているせいではなく、怪訝な目をしたからだろう。
はした金というには額が大きい。平民の家族が10年食えるような額だ。すくなくとも子供に手渡すような額ではありえない。
「私が考え無しだとでも思っているのか?
メテウス、おまえがブウェイックに帰属意識を持っていないことは重々承知の上だ。大人になった前世もあるんだから、機会があれば逃げようと考えているのだろう?」
「(ギクリ)」
「神象持ち──恩寵者になるか呪い子になるかはわからん存在を放置することはできんし、戦争で使える駒だからな。逃亡されて山狩りするとなったらこんなはした金ではすまん面倒になる。
だから、折衷案だ。この金を倍にして返せるくらいに月日が経ったら、その時は解放してやる。了承しろ、いいな?」
──逃げるにしても金を返してから逃げろ、という心理的な鎖をつけるということか。
メテウスにはロワットラのやりたいことがよくわかった。
リスクヘッジ。蛮族じみたブウェイック家だが、貴族らしいところを一つだけ発見した。
徹底してリスクをコントロールできる範囲に収めようとしている。少なくともリスクを管理しようという思想がある。
金の貸し借りというのは馬鹿にできない。
無視できるやつはとことん無視して借金を重ね、そのうち腹を裂かれて死ぬが、そんな馬鹿は多数派では決してなく、普通は金銭の重みは恩の重みになる。相応の重みがあるからこそ、人生が行き詰まったら金を借りるだけ借りてこの世からおさらばする、というプランに人はほの暗い魅力を感じてしまうわけだ。
メテウスはその重みを理解しつつ、金を受け取ることにした。
金を借りているあいだ、逃げるにしても引け目がうまれ、たとえ呪い子になったとしても、ブウェイック家にとことん復讐しようとまでは思わなくなる──なんせ、しばらく過ごせる金は与えてくれたのだから。悪いようにされたという印象は強くは残らない。
そんな、言葉にされない思惑があることはわかりきっていたが、反抗する理由はもっかのところ見当たらない。逆に受け取らなければ決別の意思と受け取られてしまうだろう。蔵遮腑を扱うためのエーテルが動かないため、腰につるした。
「姫様。できやした」
笑うと意外に若い馬丁に手綱をとられ、ロワットラは外套を格好良く翻して馬に跨った。
「ほら、前に乗れ。走っているあいだ無駄口は叩くなよ」
「…………もう好きにしてくれ」
襟首をつかまれ、一瞬の浮遊感のち、着地。
子供のように、というか子供なわけで、女の前にスポンと収まって馬に揺られた。
城の二重壁を越え、堀を渡り、石畳の城下町を駆け抜け、街道を走る。
四つの蹄鉄が軽快に鳴る。ブウェイック家のお膝元らしく街道は整備されていて、ところどころ狭くなったりもするが馬車が行き交える広さをしている。歩きの旅人や荷車を引く農民が多い。隊列を組んだキャラバンなんかも見かけるが、見るからに戦士階級のロワットラは何を言うまでもなく道を開けられる。ときおり巡邏の兵隊とは手をあげて挨拶をする。
他人の操作する馬はなんとも居心地が悪いし、慣れてくると今度は眠たくなってくる。後ろにいる女が、いくら怪物とはいえ、女の柔らかい腹や胸に背を預けていると、安心感のような錯覚も生まれてくる。ムキムキの男ではこうはいかない。
「(すやぁ……ハッ。ダメだ。落ちたら殺されかねん……)」
スピードが早いわりに風も揺れも寒さもほとんど感じないのは、なにかしらの術をかけているからだろう。
浅い雪を蹴飛ばす馬をみるに、バロート地域特有の奇跡だろうか。
発光を伴っていないことから、洗練された〈燐術〉と知れた。
燐術──素朴な奇跡はエーテルに熟達していない人間でも扱える。未熟者が奇跡を扱うと発光を伴うことから、そういった素人でも扱える素朴な奇跡はおしなべて燐術と呼ばれている。
〈炉心〉を経由する必要のない素朴な奇跡は定式化がされておらず、出自の違う軍隊が集まると微妙に進軍速度が違ったりして面倒ごとの種にもなる。
本物のド田舎からやってきた文字も知らないような地域の人間だと馬にエーテルの術をかけるということも知らなかったりする。
こういった術式は、昔には秘匿されていた。
たとえば、馬が雪に適応して走れるようにする術で考えるとわかりやすいが、余所者に知られると攻められる可能性が高まるし、だから兵士を拷問してでもその技術を奪い取る輩もでてくる。兵隊が馬にかける術を知らない地域は、大きな戦争──生存競争が起きていない証拠でもあるため、馬に奇跡を使えてはじめて一人前の兵隊だとみられる風潮も存在する。
ただ、近年は事情が変わってきているので、こういった技術の秘匿は義務とされていない。
活版印刷技術がいきわたったここ数十年で世界は大きく変わったのだ。
曾祖父の時代には夢物語だったことが、今の子供には児戯に見えることもある。
家の秘奥とか工房の秘伝みたいなのはもう時代遅れで、知識の占有が通用しない時代が到来していた。
有用な技術を独占しようとすると普通に戦争を吹っ掛けられて大国にスポイトされたりするので、まともな権力者は田舎の大将ではやっていけないと悟り、地域は一つに連帯する流れが最近の世情である。
世が変わる時代には混乱が起こる。
貴族たちにとっても、血筋に確率でポップする暗君が民の命を浪費しても、一代限りの悪行ならギリセーフ判定だったような、古きよき時代は終わりを告げた。
単なる暗君が金を浪費して女を集め抱きまくっているだけなら名君の一種でもありうる。
政務に興味を示さず、汚職がはびころうと贅沢をして女を抱きまくっているだけならギリギリ名君の一種でありうる。
戦争に血道をあげて領民を半分に減らそうと、勝っているうちは名君でありうる。
しかし、ガチ勢の暗君には辛い時代だった。
夫を殺されたとか、女を奪われたとかなら世の習いで飲み込む民も、子供を犯して首を切り裂くのが好きなサイコタイプ暗君だったり、戦争でボロ負けする弱者暗君だったり、他国に土地や権利を売り渡して妾屋敷をつくってもらう売国系の暗君には、黙っていない。
子供を誘拐された力なき平民が、順当に自殺せず、反抗的にビラを撒いて非道を訴えかける時代である。
情報の伝達が噂話の領域を超えた瞬間、文字を読めることの価値が跳ね上がり、民衆は迷信よりも新聞を信じるようになって、その連帯は力を持つようになった。
無能な暗君は淘汰され、有能な暗君でなければ対処できない時代の変遷があった。
モノ言う平民の時代。
旧来の貴族にとってはあまりに図々しい身の丈をわきまえぬ不快な存在である。
小さな領地をもつ零細貴族たちが、古き良き時代より受け継いできた正当な利権を守るため立ち上がり、
〈無知は力なり〉〈自由とは隷従なり〉〈貧困は裕福なり〉〈非暴力とは平和なり〉
と正義を叫びながら活版印刷技術を禁止したり焚書したりしてときどき討伐されている。
なんせエーテルの力があるため、死を覚悟すれば一人で貴族を殺せる平民というのが普通にそのへんを歩いており、人口に膾炙する強烈なヘイトを買った瞬間に私刑が確定してしまう時代だ。
こうなってしまってはどうしようもない。ある学者は、一つの地方が一つの王国であった時代が終わりを告げた、と語る。
──というのはすべて、文明的な土地の話。
此処はバロート。
化外の蛮族がひしめく戦争の大地。
ビラを配れば首だけになることは疑う余地がない。
メテウスには常識がないという自覚があった。この土地の事情がいまいち掴み取れていないため、警戒してしすぎるということはなかった。
それはまるで紛争中の外国に、身寄りない子供の姿で紛れ込んだような危機感である。というかそのままである。
馬に揺られながら考えているうち、メテウスはいつしか眠りについた。
「すやぁ──」
「寝顔だけは可愛らしい少年だな──やはり目つきが悪いのか。目をくり抜けば男娼として高値で売れるかもしれんな、こいつ」
姉を名乗るサイコ系貴族の独り言を聞かずにすんだのは、幸運かどうか、はたして──
◆
過去の夢をみる。
生きている意味が丸ごと欠如していることに気づいてしまう。
生きる価値などもう残っていないのに、生き続けることに耐えられるのは、自分はもう七割がた発狂しているからだ。
そして、過去を夢見ない夜も、決まって悲しい夢を見た。
ただ胸を掻きむしりたくなるような寂寥感に襲われる。
たとえば愛犬が死んだあと部屋に転がる犬用のおもちゃ。
捨てるに捨てられない愛人のコップ。肘から先を失った体。子供用の帽子。小瓶のコレクション。
グロテスクなほど陳腐なイメージの奔流。
その果てに、冬の海辺に佇むコテージで、安楽椅子にもたれかかり、老人になった自分が死を待っているのだ。人生のおわり……。
寂寞感が襲いかかり、一夜の夢となる。
もちろん起きた時にはまるで内容を覚えていないのだがーー寂寞だけが起きたあとも胸に残っている。
夢の忘却は救いか、はたまた……。
◆
──楽園で、私はめっきり弱くなってしまった。
病(つまりは拷問)を得て(健康と人生を失って)、苦痛に耐えることを学び(つまり馬鹿になって感性を失い)、何もかもを忘却した(ふりをしている)。
忘却する──。
どうでもいいことも、大事なことも、すべて忘却していく。
それでも私はいまだ飢えと寒さから逃れるために生きている。
望みはない。セックスはもう何の役にもたちはしない。
性器は機能する、射精はできる、薬でトリップすることはできる、美食も趣味も薬物もある。その気になれば性転換もできる。なんだってある。快楽はある。隣人を愛することはできる。それらより上等な、真実の聖愛さえあるかもしれない。それでも不死者の楽園でセックスは流行遅れになり、代わりに流行ったものは諧謔と拷問だった。
詩人ノヴェイク曰く、我々は束の間にセックスをする猿に生まれたのだそうだ。
学者猿は学問でセックスするし、金猿は金でセックスをするし、宗教猿は瞑想や神でセックスをする。無意味な猿は無意味なセックスをする。数学猿は無限でセックスをするうち宗教猿になることもある。下等な猿は優越感でセックスをするし、子供猿は子供たちのセックスをするし、老猿は空しいセックスをする。生まれながらの性器たちはまさしくセックスをする猿だった。
そうではないと言い張る猿もいる。
個々人に言い分があり、正義と信念があるが、それらがセックスのパターンであることを忘れようとしていることは共通している。もう、探求すべきことなどこの世には残っていないのだ。
詩人ノヴェイクは、私はチェーンソーになりたい、と言った。
この同族嫌悪に苛まれた哀れな猿たちは、自らの登っている木から落ちることを心底恐れているため、甲高いチェーンソーの音を聞くと発狂するほかないのだ。
機械的な鋸に情はなく、その歌声は美しい。チェーンソーの旋律を世界中に響かせ、それを福音と呼びたい、と締めくくった。
キッチュな詩人。嫌いな大衆作家だ。しかし私はノヴェイクを読むようになってしまった。すなわち、そんな人生はもう終わりにすべきということだ。
表面的な怒りは、そのマグマを自覚することで発作的な衝動として扱うことができる。根深い怒りさえも、地面の下のマグマを自覚することで怒りに操られることを避けられる。
そして、恐怖が肉体に属するものであることは言うまでもない。恐怖が反応的なものであることを自覚していれば、恐怖はともに肉体に住まう面倒な同僚にすぎず、思考を支配されることはなくなる。恐怖から逃げるネズミのように生きるには人間には無意味な喜怒哀楽がありすぎる。
だが、退屈だけは。
退屈だけは如何ともしがたい。
怠惰や退屈といったとんでもない業は、人間の人格などよりも根深いところから発生する宇宙の問題であるため、怠惰な人間や退屈した人間を治療することは不可能だし、よい薬を与えて安静にしておくほか対処のしようがない。もしも彼らが悪い薬を飲むことを覚えたら、もはや治癒は不可能である。
そう、トランキライザーがほしい。
ポルノや他人との人間関係といった、人生を救うトランキライザーが……
狂気が引き潮のように現れては消えていく。
脳裏に無意味な思索の断片が浮かんでは忘却の波にさらわれる。
昨日も、明日も……。
もとより私の経験も思索も、海の底から浮かんでくる小さな泡のようなもので、水面にたどりつけばはじけて消えてしまう。このようなものにこだわっていた若い頃の自分など、いまとなって別人としか思えない。
死という前提があり、人生を続けたいという希望があった頃の自分とは、本当に別人なのだろう。
カエルは水を泳ぐときに何を考えるだろう?きっと、おたまじゃくしだった頃を思い出して幸福に違いない。生まれる前を思い出してはゲロゲロと泣くカエルたちは、そのうち水の中で溺れ死ぬことを望むに違いない。
人から生まれた不滅者たちは、あらゆる生き物の中で最も下等なけだものだから、泣き叫ぶ代わりにケタケタと笑ってそれを幸福と呼んでいる。
だって人生は無意味なのだ。意味があるというこの世のすべての言論を含めて、なお無意味だ。それは無意味と意味が人間にとって厳密に等価性を持つことに起因している。人の認識の底の底は無条件に肯定され、無謬のセックスに保障されているから、頭に浮かぶあらゆる意味は一切の理性的な裏付けがない。不滅の業火のなかで、百年やそこらならなんとか騙し騙し許された虚偽も、千年は保たない。
許されていない。
ここにいたって理性は敵だ。
理性そのものがセックスの保護者だ。
セックス、すなわち幸福こそ無意味の主題なのだ。
不死者にとって死は救いではない。
ならばどうすればいいのだろう?
とても若い頃、つまり千年も生きていない頃、私は実験をはじめた。
生きるよすがを一つ一つ丁寧に失い、歳月の残酷に破壊された老人がみなそうするように、耐えるための無意味な趣味をはじめた。
人間だったものの残骸が、夢にすがって希望をみつける。
ひどく病んだ夢だ。病による吐き気と頭痛と耳鳴りがまた狂気をいざなう。優れたトランキライザーがほしい。いままでの見つけたあらゆるトランキライザーは、もうなんの役にも立ちはしない。
人生などという、全くの嘘八百を信じられた、幸福な猿はどこで死んだのだろうか?代わりにこの肉体に押し込められた人間は、どういった罪を冒したのだろうか?
そういえば、あの偉大な神々はどこへいったのだろう──?
◆
「着いたぞ」
「うん……」
メテウスは夢の世界から呼び戻された。
目をこすると、湯たんぽのように温まった体と意識がすりあわされ、現実感を取り戻していく。
目覚めたくなんてない。起きたってなにもいいことがないんだから。なのに、体は願いを裏切って覚醒する。
いつもと同じように、悪夢を見ていた気がするのだけれども、その内容はもう覚えていない。
なんなら現実が悪夢に等しいので、多少の悪夢は相対的に単なる夢として記憶にも残らないのかもしれない。救われない話だった。
「出迎えが着ている、挨拶しておけ」
「うん……?」
寝ぼけ眼が視界を取り戻す。
一人の少女が馬に乗って目の前にいた。
砂色のショートカットには天使の輪が光っている。
前髪が切りそろえられていて、片方だけ耳を隠すように編み込まれていた。
気の強そうな顔立ちに、スカイブルーの瞳。どうやら驚愕しているようで、目を見開いている。
メテウスはよく服を見て人を判断する。
人品がどれほど下劣でも権力者ということはよくあるが、服の質とその人間の階級が相反することはめったにないからだ。
少女は、金の縁取りがされた乳白色の外套を腕を通さずに羽織り、前紐で止めていた。実用品なのにどこか優雅だ。天臥獣仕立てのパンツと色を合わせたゲートルを履いていて、そのような面倒な服を着ているのは旅人か使用人に用意させられる貴族しかいない。
葦毛の馬と服が調和していて、どう見ても貴族だ。
「──生きてたのね、メテウス」
「マジで?」
きびすを返してダッシュで逃げた。
林に突っ込んだメテウスはイノシシもかくやというスピードで消えていく。
「!? おまえ、どこいくの! 止まりなさい! に、逃げるなーっ!!おかしいでしょ!そんなことある!? バカーっ!!」
すぐに捕まってめちゃくちゃ怒られた。
◆




