46「ザップ 六」
◆
二つ目の冬の夜に昇る、青白いカルナーンの月がちょうど半円になった日。
高熱に伏せっていた少年が目を覚まし、夢遊病のように立ち上がった
。
安楽椅子に座っていた老婆は老眼鏡を外し、水差しを手に取る。
ふらふらと立ち上がった子供は、力を失いバタンとベッドに戻って倒れ伏す。
「ようやくお目覚めになられましたか」
「……そ、その声は誰だー!?」
老婆は心得ていた。そうとわかってみれば、顔立ちには父の面影がハッキリとある。悍ましい緑の目をした少年は──知己の息子だ。
「う゛ぅ……」
少年は、譫言を呟いている。
死んだはずなのに、と。
老婆が含ませたガラスの吸口を無我夢中で吸った。
皺顔を歪ませた老婆は、縦割れの瞳をニンマリと歪めて椅子へ戻り、言った。
「さ。峠はこえたろう。水を飲まないと、死んじまうよ……メテウス様」
「ぅ、ん……?」
寝たきり生活で衰えた体はキシキシと音を立てたが、子供の体は回復も早い。一晩寝ると熱が下がり、状況を飲み込み始めたメテウスは現実に狼狽えた。
城だ。
窓からは真っ黒な山森と、その麓にへばりつく城下町が見下ろせた。
老婆のいないときにこっそり扉を開くと、奉公人らしきお仕着せの女がジロリと睨んだのであわてて引っ込む。質問しようとは思わない。貴族の使用人と孤児では身分の差がありすぎて、下手に会話を試みると体罰を受ける可能性が高い。
冷たい石造りの城は広大で、人間の気配がいきわたっていない。
中央の尖塔群から翼を広げるように幾つも城塞があって、見張り櫓にぽつぽつ兵の人影がみえた。
──貴族の城か……。バロート人にしても、そうとうの大貴族の本拠地だぜ、おい……。
「あの、ここって……貴族様の城ですよね?」
「どうしてそんなことをお聞きになさる。まだ記憶がハッキリしておらんようじゃな、ここはブウェイック家の城じゃ。ご当主も子供を急かすような真似はせん。頭と体を休めるがよろしい。退屈でも、起き上がらんようにの」
理由もわからず、謎の老婆に世話をされる毎日が始まった。
謎しかないので居心地はよくない。
──あれから、どうなったんだろうか?
◆
朝に薪が運ばれ、火が灯される。
暖炉は透明な仕切りがされており、放射熱だけが部屋に届く高級品だった。高温に耐える加工ガラスは奇跡か魔導の代物だ。
炎を見つめながら、なんとか記憶を思い出そうとする。
それは不定形なアメーバのように、具体的なことを掴みかけるとするする指から逃れていった。
『……じゃあ、けいやく ね……』
呪い子に、命を捧げたことだけは覚えていた。そのあと……
──なぜ生きている?
今度こそ死んだはずだ。なのに……。
──紫の空。無限に続く大地。紫の巨人が暴れる。双子の太陽がおれをみつめる。
鋭い痛みが首筋に走った。心臓と、背が痛む。
たまらずベッドに倒れこんで頭を抱える。無限の恐怖。
『殺して、ボクに魂を捧げてくれ給え!』
邪神と出会ったのだ。詳細な記憶は、夢の中のように思い出せない。だが──
たまらず服をはだけ、部屋の隅にある姿見の前に立った。
灼熱の痛みがほとばしる首筋から、右胸にかけて紋様が刻まれている。
──まさか──
それは膿んだ傷跡のように紫がかっていて、二度折れ曲がった雷の文様が幾重にも輪となって重なり、その部分を花とするなら根が右肩まで伸びている。意味があるのに、意味のわからない意匠。
見たことも聞いたこともない紋様だった。
──神象。神が世界に刻んだという神秘のしるしだ。紋様の意匠そのものが力を持ち、偽造は不可能である。光の神々や闇の神々は聖堂に神象が飾られているため、見たことがないということは弱小神か、はたまた──
「は、ハハ……これってもう、ほぼアウトだろ……」
状況を理解する。
呪い子の前で死んだかと思ったら、なぜか生きていて、神象が刻まれている。
事実は一つ。
呪われたのだ。
死ぬことさえ許されず。
「畜生!ハイ終了!人生終わった!!」
胎児の姿勢でシーツにくるまる。とてつもない無力感。一度飛び跳ね、ばたんきゅーとベッドに倒れこんで、尻を振ってバウンドする。人生、終わった。
一度ならず、二度までも蘇った。だが、なにか重く笑えない代償を支払っているという確信がある。三度目がない保証はどこにもない。死んだところで、永遠の安らぎを得られるという救いもないのだ。
冷静に自覚すると、なぜこの城に閉じ込められているのかは理解できた。
神の寵愛を受けた証、神象が刻まれたということ。それはつまり、恩寵者になった──否、あの呪い子の呪いを感染させられ、縁のある邪神と契約してしまったのだから、呪い子になったといえるだろう。
戦争のない文化的な土地の恩寵者でさえ、古い言葉では神の手と呼ばれ、土地の貴族に見つけられたら一瞬で保護され地位を与えられる。
あの呪い子が爆弾扱いで敵陣に投下されたように、バロート人ならば恩寵者たちを見つけ出しては戦争に駆り出すだろう。
蛮族たちは、メテウスを利用する算段を練っているのだろう。
病で世話になっているという感覚が一瞬で消えうせ、怒りが湧いてきた。
従順なふりをするのが最適解だということはよくわかっていた。看病をしてくれて感謝しているとか、ありもしない感謝を言い連ねるのが印象がよいということもわかっていた。反抗の恐れがなければ扱いがよくなることもわかっていた。
だが、メテウスは生まれ変わってから自暴自棄になっているせいか、恐怖をあまり感じない。
もとから気分次第で何もかもどうでもよくなることがある、ゴロツキによくいる人間性をしているため、長期的な利益を享受しあう関係性を邪魔だと感じる刹那的な価値観で生きている。
────それは宇宙を刺し殺そうとする真紅の槍のような怒りだ。
灼熱の鉄柱にも似た怒りが頭に突き刺さり、一度火がつくと白熱して消えないのだ。なんとか温度を下げると恨みに代わり、永遠にじくじくと頭を痛ませる。
意識や頭脳ではなく、神経が極限の復讐を叫ぶような怒り。それをなんとか沈静化し、理性的に、ブウェイック家の人間に怒鳴り散らかすようなことはやめようと誓った。
──貴族に怒鳴るなんて、自殺と変わらないからな。
砂色の髪をした少女に舐めた口を叩いてぶん殴られた光景が一瞬浮かんだが、もう死んだ相手だと忘れることとする。
一晩たつと人心地も生まれた。
灰っぽいごつごつとした煉瓦造りの部屋は広く、二つの小部屋と厠がついていた。
赤の縁取りのある黄土色の厚い絨毯が敷かれ、暖炉はいつも燃えており、窓の外の雪景色は見続けても代わり映えがない。たまに外をマントを羽織った十人ばかりの人間が闊歩して歩いていく。ほかは、雪に覆われた山が見えるだけだ。たまに戦車みたいな牡鹿がいて、冬の厳しさがよくわかる。
……田舎すぎる……こっそり逃げられんな、これは……。
日がな寝転んでいるのは拷問に近い焦りを生んだ。
情報を集めようにもあてはなく、無口な老婆は会話の相手をしてくれない。何を言っても、今は体を休めろと言われるだけだ。
三日、四日と経過した。体はもう治っている。頭は怪しいが……。
壁に打ち付けられたタペストリーには、バロート人の教えが刺繍され、詩のように描かれていた。
──旅は長く重く苦しいものになる。
肉体は朽ち、精神は擦り切れ、心を失う。
それでも歩みを止めてはならない。
戦って死ね。
赤き春はそこにある。
青い野を駆け、草木を前に飢え死にする狼よ。
すべての糧を燃やし、家族の肉を喰らい、そして飢え死にするがよい。
戦って死ぬか、戦わずに死ぬか、二つに一つ。
恐ろしいことだ。
戦って死ねなかった魂は、永遠にさまよい続けるに違いない。
「文化が違う……!」
蛮族にとって命とは消耗品であるらしかった。




