43「ザップ 三」
◆
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──死んでしまった先に、何があるか知っているだろうか?
あの世。彼岸の向こう岸。天国か地獄か。魂の旅立ちあるいは虚無。
不可知のヴェールに覆われた、闇の向こう側。
死ってのは生きているうちには知れない場所だが、おれは知っている。
「ねえ。君の魂をすこしだけくれる?」
というか体験している。
「た、魂ぃ? いえ、それはちょっと……考えさせてください」
「はっきりしないなぁ!くれるの?くれないの?どっち!?」
まさか本当に神さまと会うだなんて、な……。
機嫌を損ねた子供そのままの身振りで手を引っ張ってくる元気な子供。跳ね回っている。
クリクリと光る紫の目に、子供らしからぬ理性的な顔立ち。大げさな身振りで跳ねまわる影は愛玩犬のように小さく、華奢な天使のような容姿をしていた。
敵か?
すべて人間味がなくって信用ならない。
というか魂をくれとか言われている。露骨に闇に属する存在だった。
「いいか、これだけはハッキリ言っておく!
おれには人間としての誇りがある……一人の意志ある個人としての尊厳がナ!
魂なんて売らない、絶対にだ!」
「ええ?ほんと?ケースバイケースだと思うなぁ」
この疑り深い子供は、自分のことを『神さまのようなものだ』と名乗った胡散臭い存在だ。
それだけなら、まあこんなこともあるか、なんて納得できないこともなかった。
――なんせ、おれには死んだのに意識がある。それに比べたら神様なんて不思議でもなんでもない。
「大した価値なんてないでしょ!君の魂を買ってくれる神さまなんて他にいる!?ほら、いっちゃおう! 契約しちゃお! とても簡単なことだよ。魂、ちょっとだけ捧げてみようよ! ね!ね!」
ただ、あらざるべきことに魂を捧げさせようとしてくる……。めっちゃプッシュしてくるし……。魂をちょっとだけ捧げるっってなんだよ……。
おれは猜疑心をひた隠し、口を半開きにした純粋無垢な顔で問い返した。
「魂にちょっとだけとかあるんですかぁ?」
「お得な取引とはえてしてそういうものさ。うんと高値で買ってあげる!なにも全部売る必要なんてないんだよ?そう、たったの、51パーセントでいいんだよ……これはお得」
そこはかとなく権利の譲渡みを感じる。お得な感じは一切ない。神さまが、こんな露骨に魂を捧げさせようとしてくるなんて、な……。
おれは真っ暗闇のなか座り込んだ。
なぜか簡素な服を着ている。
袖で顔を拭い、「契約しようそうしよう」と腕を引っ張る神?(仮)に「もう少し考えてから……」とつぶやいては決断を引き伸ばしている。
こういう場合、どうすればいいんだ……?
きっぱり断ることもできず、言葉を濁しつづけるはめになっていた。
「キミってば優柔不断だなぁ! 死んで女神様と出逢えたら、下等な人間は喜ぶものなんじゃないの!? ボクの神域にいるっていうのに、頷くこともできないのかな!? 意志薄弱っ! お得な取引はいつまでも待ってはくれないよ!?」
むちゃくちゃ言われてる……。
詐欺師ってどうして架空のタイムリミットを設定して人を焦らせようとするんだろうか、殺したくなるぜ。
腰に両手をあて、「怒ってます!」というゼスチャーをした少女はおれの腰あたりの身長である。
この少女──神さま?──はどうやら善なる神ではない。
だって、神域(仮)とやらの景色がとても暗い。
めっちゃ怖い。
空を見上げると、紫に渦巻く暗闇の果てに、∞マークみたいな形をした双子太陽が鎮座し、赤黒いコロナを纏って世界を睥睨していた。
闇を放射するネガティブな太陽。
聖なるオーラとか荘厳な神殿とか、そんな高望みをしたつもりはない。でも、「地獄かな?」という感想は抑えきれなかった。
(こんなん絶対天国じゃないし……)
まさか地獄なんてものが実在するなんて、な……。
「悩むことはない、ボクに売っぱらっちゃおう、魂!」
癇癪を起こした子どものように服の裾をひっぱり、上下してくる神(仮)に、曖昧模糊とした返答をする。
「いや魂とか言われても……具体的な説明なしにサインするなって、あの、ばっちゃが言ってた」
「誰なのばっちゃ!? おばあちゃんっ子!?」
曖昧にニコリと笑ってみる。
これ絶対罠だし……
「善意だよ!此処は冥府の底、業魔府だよ? ずっと閉じ込められることになってもいいの!?
そんなことになったら君、かわいそう……。
せっかく死ねたのに、君、これからは死ねないんだ……!
そんな理不尽なことがボクの信徒(予定)になるはずの君にあっていいはずがない!
ほら、契約しよう!ちょっとだけちょうだいよちょうだい、たましい!
……それとも、永遠にこの暗闇でさまよい続ける恐ろしい残酷な運命を受け入れるの?」
魂を捧げるか、この邪神域(仮)で、永遠に暗闇の中をさまよい続けるか、二択を提示されている。究極の二択だ。
おれは袖に顔を埋め、ヒュッと息を吸いながら、現実逃避がてらこの神さま(仮)との邂逅に想いを馳せた。
なぜこんなところにいるのか?思い出そうとすると、記憶は断続的な印象としてしか残っていないが、なにか、ひどい目にあったような気がする……うーん。
うーん――おれは回想した。
そう、たしか、おれは死んだんだった。格好良い死に方だった気がする。
死んだあと――
「ちょ、ちょっと聞いてる?自分で言うのもなんだけど、ボク神さまなんだけど? あれ、威厳とかないかな? がーんだな……」
◆
飢えている。飢えている。飢えている……。
男は、拳を虐めるように地面を殴りつけては痛みで気を紛らわしていた。
骨が砕け、神経が馬鹿になり、意識が焼き付くような痛みでようやく飢えを忘れられる。
だが……死ねることはない。
いざ意識が闇に吸い込まれると、また、五体満足の姿でこの地獄で目覚める。
空は毒煙にも似た薄紫色をしていて、真っ暗な太陽が2つ、双子のように浮かんでいる。いつもの光景だ。
思えば、この悍ましい暗闇に閉じ込められて、どれほどの時が過ぎただろうか。
はじめは何かの間違いだと考えた。こんなバカげた苦痛が自分の身に起こることはないと。
茫漠とした闇の世界。足が潰れるまで、何度も、何度も、はてなく彷徨ったあげく、これが現実だと悟るほかなくなった。
男は、飢餓と苦痛と恐怖の塊になった。
景色は変わらず、死ねることもなく、ただ間延びした絶望の時間が過ぎる。
しかし、絶望に浸ったところで解放されるわけではなかった。
絶望や悲観が物事を解決することなどなかった……。罪悪を減免することもなかった。
男は次に、こんなことが許されていいはずがない、と怒り狂った。
呪う言葉が唸りのように喉から飛び出た。
神を呪う言葉、世界を呪う言葉、生み出した親を呪う言葉、すべての人間を呪う言葉……。
しかし……紫の空に叫んだところで、なにかが返ってくることはない。
殴りつけるべき敵など、この暗闇には存在しなかった。
ただ非情な現実を前に、やがて男は悟った。
なるほど、許すも、許さないもないのだ。男が何を考えようと、怒ろうと、嘆こうと、この闇の世界と自分が只在るだけ。そこに理由も意味もない。解決方法も、原因もない。たしかなものは、ただ苦しみだけ……。
慈悲もなければ罰もない。
そこには悪意なんてなく、現象としての苦痛と自己が等価性を持っている。
一人の人間が苦しんでいるという事実のほかに、この世にたしかなことなどないのだ。
自分をふくめてあらゆるものは存在するか否か定かではない。だが、苦しみだけは確かに存在する。ならば自分とは苦しみなのだろう――
一切皆苦。
絶望に寝転んだところで、やがては目覚める。
狂った激情が脳裏をぐるぐる侵した挙句、やがて消える。
珍しく平穏な気持ちが続いても、やがてまた激怒に震える。
無限の時間のなか、極限の苦痛に魂を焙られつづける。
長い年月のすえに、男は最後に残ったただ一つの衝動をもてあました。
渇きだ。
飢えている、飢えている、飢えている……。
渇望。と一言で呼ぶにはその衝動は深く耐え難い。
あらゆる想像を超えた飢餓。奥歯を砕く痛みで、ようやく一瞬紛れるような飢え。
腹が空いているとか、喉が渇くとか、そういう苦しみではない。
ひどい不快感と絶望、焦燥感と偏執、不条理への怒り、狂気と正気の境界線を噛み締める胆汁の味。
失われたものへの悲しみ、理不尽への嘆き、それらが渾然一体となって脳髄から臓腑を液体のように浸し、渇望として魂に巣食っている。
男の渇望は、妖しく昏い紫の光に似ている。
それは憎悪に似ている。
極彩色の感情に似ている。
理由も意味もないその衝動は、やがて不純物を失い、魂を苛むあの原始の痛みへとたどり着く。
飢えている、飢えている、飢えている……
闇の空に哄笑が響く。
男は、人間という輪郭を脱ぎ棄てた。
狂っては正気に戻り、自分の肉を食らっては吐き戻し、ひとり笑いを漏らす男は、飢えた獣そのものに成り果てた。
肉だ。肉が震えているだけ。
苦しみは肉の震えだ。人間なら耐えられなくても、肉の獣には耐えられる。
そう、もとより、人は獣だったのだ。
人間性なんてものは、飢えた獣が被る毛皮にすぎない。
地位を気にするということ。会話を楽しむということ。家族や友人を慈しむということ。価値観と同化するということ……。
神を信じ、世界を肯定するということ。
憎悪に身をゆだね、報復にすべてを捧げること。
毛皮にすぎない。脱げば寒いところでは大切にする、脱げば殺されるところでは脱げなくなる。しかし、暑苦しければ脱ぎたくなる、それだけのしろもの。
人として生きるためのすべては、けっきょく利便性によって後付された代物で、負荷がかかれば消えてしまう。残るものはなにもない。
人間に本性なるものがあるとすれば、それは毛皮の内側にある――飢えと苦しみだった。
衣服や財産という後付けの毛皮を人間はたくさん発明してきたが、それは寒さに耐えるためのものではなく、内側にある虚無と孤独を覆い隠すためのヴェールにすぎなかったのだろう。
ゆえに人は毛皮を纏わぬ人間を本能的に嫌うのだろう。
なんの意味がある……?どうしてだ……?
おそらく深い意味などないのだ。
毛皮を纏っているだけの原始人に、理由を問えばポカンと馬鹿を見る目で見つめ返される。
人間がそうあってほしいと信じるような理由は、この世には存在しない……。
虚無ですらない。
虚無とは人間を前提的に肯定している状態への反証だからだ。
世界を信頼していない人間には、虚無という観念そのものが生まれない。
信仰さえも剥がれたグロテスクな肉には、毛皮の内側にある痛みには、意味も理由も存在しえない。
いまでは、男はすべてが幻にすぎないことを確信している。
男は自分が罪深いせいでそうなった、と考えることをやめた。
原因のない罰に、罪などあるだろうか?
このような苦しみに見合う罪など存在しえないのだから、この世に罪など存在しない……。
数年?
死がかように恐ろしいものであると知っていたなら、男はなんとしても永遠の生命を獲得するために生きただろう。だが、すべてはもう遅い。
百年?
五十年は確実に過ぎただろう。
無だ。無だけが救いだ。
五百年?
終わった人間に時などない。だが時間は過ぎ去っていく。
忘我と狂気の境界線だけに正気が存在した。
いや千年、二千年?
さらに時が過ぎた。
はじめは狂気に救われたが、狂気さえも地獄に耐えられず消えていった。
恐怖も、悲しみも、抱えていては邪魔なので消えていった。
葛藤も、思い出も、考えるという苦痛を捨てるために消えていった。
時間の感覚が消え失せたあとも、男は暗闇を放浪した。
あまりにも広大な冥府には、けれど変化がなく、変化がないということは時間も苦痛もない。
時間を失った男は、ただ足を動かす刺激という無の波に乗って放浪を続けた。
死んだまま歩きつづける。永遠に、永遠に──
擬似的な死を、男は救いと思った。
しかし、死ねない男に救いなど本当はなかったのだろう。
「やっほー」
闇を放浪した男は、異神に契約を迫られた。




