36「蜘蛛 十二」
◆
朦朧としたまま、ガレアーンは過去を夢見ていた。
盲車蜘蛛の背の上で揺られ、エーテルによる止血のみを念じながら、意識は己のルーツを夢見ていた。
揺れる──馬に揺られ、幼い私は父の前に座って無邪気に喜んでいる。
なにもかも大きくって、駆け回っても駆け回っても、世界がどこまでも続いていたあの夏の日。
草原にぽつぽつ散らばる家畜を追って、牧羊犬が駆け回っているのを眺めながら、父の低くて優しい声に耳を傾けながら私はまどろんでいる。
「レア、美しい青空だね。街にこもっていては世界が美しいことを忘れてしまいそうになるものだね。
レア、すばらしい草原だね。春先は清冽な風が吹いているね。羊と馬だけならまだしも、龍馬まで放牧できるあの牧童は優秀だ。おまえも戦士になりたいのなら、家畜の世話を覚えなくてはならないよ。
家畜と、それを扱う牧童こそが我々の真の財産なんだからね」
「はい!」
私は父の言っていることなんて一つも理解できなかったのだけれど、元気よく返事をすると、父は大きな手で頭をなでてくれる。それが嬉しくってしかたがなかった。
「我々、ハヴォック家の底力は、家を燃やされたところで痛くもかゆくもないということなんだ。土地や貨幣や宝物など、すべて失ったところでなんの問題もありはしない。それらは弱い民族がすがる弱い財産だ。
燃えれば灰になる。
穢れれば価値がなくなる。
人間と同じだね。
街や農村で人を増やして兵隊を作る敵たちは、そのあたりを理解できない。
我々は土地を追い出されても、別の土地を奪えばいいだけなんだからね。
さらにいえば、大切な兵隊や庇護すべき民草たちも、本当に必要ならすべて使いつぶしてもよいものだ。代わりの効くものだからね。だが、家の牧童だけは守らねばならないよ。我々の先祖は遊牧の民だったし、いつか我々も遊牧の民にもどることになるんだからね」
民や兵を愛し守れ、それがハヴォック家の力になる……民を慈しみなさい、それがおまえのためになる……いつもは義母にそう教えられたのに、その日の父は違うことを言っていた。
土地を追い出されてもいい?
生まれ育った牧場に、ハヴォック家の支配する広大な平原も、失ってもいい?
民や兵を使いつぶしてもいい……なんて……。受け入れがたい考えだった。
だから、私は「なぜ……ですか?」と聞き返した。
そのときの答えはよく覚えている。
「なぜかというと、すべての戦に勝つことは不可能だからだ。
人が必ず死ぬように、あらゆる貴族は必ず没落する。
まるで運命を示すラフェレンの車輪のように。
栄えれば堕ちる。それは定められている。
ハヴォック家とて、いつか戦ですべてを失い、生き残りはこの美しいダスカーニャ草原を放浪することになる運命なのだ。
人を殺したことは気にするな、レア。
運命に逆らったって、意味がないんだからね。
そう、人にはそれぞれの運命があるものだよ……」
私は一月ほど前に、喧嘩した男の子を殺していた。
父の真面目な顔の意味もよくわからずに、ただ父がかまってくれるのが嬉しくて、「運命なんて嫌い!女だからって侮られる!わたし、男に生まれたかった!」と生意気に返したものだった。
「安心するといい。レアは間違いなく戦士になれるし、侮る人間もすぐにいなくなる。喧嘩友達を殺せる戦士に、悪い戦士はいないものだからな……」
「でも、デリア母様に怒られたわ。お嫁に出せない!って。デリア母様は好き、だから怒られたくない……」
父の第一夫人であるデリア様は立派な方で、他の夫人の子と実の子を分け隔てなく接してくれた。
だからこそだろうか、子供のしつけにとても厳しかった。
他の夫人の子を、ハヴォック家の子として育てるため、いっさいの遠慮なくしつけられた。だから慕う気持ちと一緒に、恐れる気持ちがいまだ消えない。それがたとえ子供のためだとしても、厳しく接してきた大人を子供は純粋に恐れるものだった。
母様や他の夫人は、実の子を勝手に教育された恨みをデリア様に抱いているのだが、デリア様はそんなことを気にせず、喧嘩で人を殺した私を徹底的に殴った。
歯が折れ、血を吐くまで殴られた。骨を折られ、血のおしっこがでた。
大した理由もない喧嘩で、殺人沙汰を犯した子供には当たり前の処置だ。
あたりまえの話ではあったのだけれど……。
大目玉を喰らい、仕上げに本当に痛く苦しい棒打ちを受けた私は怯えていた。
暴力への恐怖ではない。暴力は水のようなもので、いつも隣にあるものだ。
ただ、デリア様に失望されたくなかった。
幼い私は他人に失望されることに怯えていて、自分が間違っていることに怯えていた。好きな人に、好きではない、という顔をされるのに怯えていた。
父上は優しげな目で、馬に揺られながら見上げる私に笑いかけた。
「家族に嫌われたくないという心がけはよいことだ。
だが、人がなにを言おうと、気にする必要はない。
だれもおまえの運命を知らないのだから」
「でも……デリア母様は、女が戦士なんかになるもんじゃないって……」
「あれは心根の優しい女だ。
おまえに人がましい幸福を与えたいのだろう。
無駄なことだと、言い含めねばならんかもしれんな。
幸福にすがる人生と、そうでない人生がある。
おまえはおまえの運命を生きなければならない。
たとえ、どれほど人と争い、謗られようとも……己の運命と向き合わなければならぬ。
闘って死ななければならない人間というものがいるのだよ。
相食らうけだものの園に生まれた、先祖返りの我が娘よ。
おまえのことをデリアは理解できないし、おまえを侮る人間はおまえのことを理解できない。
本当のところ、おまえの人生など気にも留めていない他人に配慮してなんになる?
おまえが死んだところで、自業自得の一言ですませる他人の機嫌など伺ってなんの意味がある?
明日になればおまえのことなど忘れる人間の意見に、どのような価値があるというのだ?
おまえは戦う生き物だ。
理解や評価など求めてはならない。
己の宿命をだれかに理解されるかもしれないなどと、欠片たりとも考えてはならない。
親である私を含め、だれもおまえの運命など知らないのだからな。
遠慮する必要など、どこにもない──相食らうけだものの園に生まれた我々は、運命に従わなければ、人面獣心の獣となり果てる。
可愛い可愛い我が娘よ。
本能で人を殺す悍ましい獣よ。
世俗の親のように、死んでほしくないなど決して言わん。
いくら命を拾い、長生きしたところで不幸になるだけの人間がこの世にはいくらでもいるものだが、医者と親心だけはそれを理解できない。ゆえに私は親としてでなく、人間として言っている。
戦士として生まれたおまえには、戦って死ぬか、戦わずに死ぬかの二択しかない。
決断しつづけるのだ。運命に逆らって無駄に生きながらえるよりも、戦って死ぬべきなのだと。
それは、とても幸福なことなんだ。太陽がいつもおまえに微笑んでいるようなものだよ」
「……はい!」
今度は、私は、父の言っていることをすべて理解できた。
戦士とは、死を許容しなければ、魂が死んでしまう生き物なのだ。
頷いて、青空と、草原の清廉な風に感謝をした。
自らの運命がこれほどまでに明白であることが、類まれな幸運であると信じた。
いや。これを幸運と呼ぶか不幸と呼ぶべきか、どちらかを選ばなければならないということを知っていた……。
自分がほんとうは途方もない馬鹿で、人を殺した出来損ないで、死ぬべきなのか……
自分がとても恵まれた人間で、殺人もたいしたことではなく、運命が明示された幸運と考えるか……
選ばなければならないと、幼い私は知っていたのだ。
◆
盲車蜘蛛の揺れは、ガレアーンに馬の背の上で父に抱かれて歩いた記憶を呼び起こした。
さきほどまで怯えていた。
慕った叔父がガレアーンの死を願っているなどと、認めたくはなかったし、いつまでも目を瞑って現実から逃げたかった。
だが、もうガレアーンに怯えはない。
叔父の裏切りに涙を浮かべていた少女は、これが運命であることを思い出したとたん、晴れ晴れとした心地になった。
──闘って死ね。すべて戦神スモルクの聖句にあるままに。
これほど単純明快で、絶対の掟などほかに存在しない。
両腕が使い物にならない? エーテルを絞り出して間に合わせに動かせばいいだけの話だ。
片足が重傷で、動かない? 走って逃げられないだけだ。それがなんだというのだろうか?
──人にはそれぞれの運命がある、父はそう言っていた。
わたしはもう死ぬのだろう。
だけど、勝利条件を変更すれば、まだ戦う意味は残ってる。
盲車蜘蛛の背の上で、口論する男たちを盗み見する。
呉越同舟という言葉があるではないか。下賤な男たちも、いまだけは仲間と認めてもいいかもしれない。
幼い頃、あの清冽な青空の下で夢見ていた、戦士になったのだ。
死ぬ。
されど戦友がいるなら、無意味な死は恐ろしいものではなかった。




