35「蜘蛛 十」
◆
>メテウス
決断を下した。
──そこは死地だった。しかも自分から飛び込んだ死地だった。
おれはこの旅がはじまって初めて自分の意思で、流れに逆らっていた。
剣を構えなおしたグノークスは鷹揚な笑みを浮かべているが、隠し切れぬドロリとした殺気が漏れ出している。疑いようもなく殺されると肌が泡立ち、腹で内臓が恐怖に暴れだす。
刃を両手で掴んでいるような金属質の怖気が止まない。小便漏れそうだ。
──極限状態で気づく。
これは、本当に恐怖か?
傭兵時代に死にかけたときの恐怖とは、どこか違っている。
恐怖と似ているが、どこか違うような──まるで、恐怖というよりも──
頭がおかしくなりそうだ。
ああっ……。
やってしまった。なぜ一目散に逃げなかったんだろう?
わかっている。自分の本音に気づいてしまっている。死にたくないとか、生きてやるとか口では言いつつ、命を守ろうとしていない。本当は人生なんて終わりにしたかったのだ。希死観念がついに行動を操り始めたというわけだ。
──この世なんて。
まともに生きてやる価値がある代物とは到底思えない。
生き延びてなんになるだろうか?
滅ぶはずの人類だって滅ばないかもしれない。だが、間違いが起こって人類が救われたところでなんになる?
この世で王になったところでなんの価値があるだろうか?
千人の女に子を産ませ、至上の薬物で法悦を極め、百万の軍団に号令を放ち、永遠の生命を得たところで──黄金都市の王座に座ったところで、そんなもの自分にとっては大した価値はないのだ。
ある日眠って二度と目覚めないほうがよほど最高じゃないか?
少女を一人生き延びさせたところでなんになる?
そこらの人間の一匹や千匹の生命を救って、たかが寿命を五十年伸ばしたところで何も変わらないと感じてる。他人の人生なんてプラスにもマイナスにも興味がない。目の前でどうでもいい他人が死ぬと少し気まずい気分になる、逆に気にくわないやつが死ぬとすごく嬉しい、そいつらの家族が泣いているのを見ていると射精しそうになる、それくらいのものだ。
──なのに、なぜだ?なぜこんな勢いだけで飛び出してしまったんだろうか?
逃げ出す算段をやめてしまって、グノークスのような恐ろしい相手と相対している。パニックを起こしている。なぜこんな無意味なことをしていて──とても高揚しているのだろうか?
──本当はわかっているんだ。
希死観念はいつだって生命力の警告でもある。
おれは不合理な行動をとることになっても、虚無に打ち克つものを見つけ出さなくてはならないのだ。自分の生命力が自分を生かしているあいだに、なんとかもがいて手足をからめとる虚無をぶっ殺さなくてはならないのだ。
「孤狼児……死にたいのか?」
グノークスは完全に遊びを捨てていた。顔は笑っていても、構えでわかる。
紫色の燐光を放つ魂膜を見る間に増幅させ、力を溜め込んでいる。
一般人でも目視できるほど溜めた分厚い魂膜を、一挙に解放して殺しにくるだろう。
死ぬんだろうな。勝てる気はしない……
「やめなさい……逃げなさい!」
無様に倒れ、両腕を動かせない芋虫と化した少女が言う。
「黙ってろ!!」
ガレアーンは勘違いしている。こいつを守るために戦っているわけではない。
激しく汗をかいた日に飲む水は旨いとか。おれの人生はそれくらいの意味とか価値の連続なんだから、放り捨てたって別に惜しくはないと思ってる。適当な理由をみつけてそこに全額を突っ込んでいるだけだ。
極論、グノークスと戦っているわけですらないのだ。八つ当たりをしているだけなんだから。ただ正体のわからない激情に駆られて七転八倒しているだけなんだ。
「くくっ……ヒヒッ」
「孤狼児、楽しいのか? 私は君を生かして返してやろうと考えていた。君のような目をした人間が、まさかレアに情を抱いたとは思わない。敵対する理由がないだろう?退く気はないか?」
グノークスは、優しく微笑んで巨剣を右に構え、先を僅かに地に触れさせていた。こちらの身長に合わせているのだろう。言葉とはうらはらに、殺す気マンマンである。
「退く気?あるわけないだろうが……鏡をみてみろ!おまえは信じられない!殺されるくらいなら、一太刀入れてやる!」
「本気で言ってるのか?そうは見えないな……」
バレてる。だが、まだだ、まだ準備が整っていない。死地に飛び込んだとはいえ、死にたいわけではないのだから。
幸い、グノークスはおれのことを侮りつつも、隠し玉を警戒している。もうすこし時間を稼ぎたい……。
「逃げるのなら、追うつもりはないのだが」
「信じられない! 上の口から出る言葉を信じるなって、知り合いの女衒婆が言ってたな。おれも同意見だ。信じてほしかったら別の口で話せよ!ええ!?」
おれは傭兵ジョークで場を和ませた。
グノークスは破顔した。同じ遊びをする相手をみつけた子供のような笑み。
「ッ──これでも真情を明かしている。孤児が徴兵され、戦えるようになるまで生き延びる。私にはそのとてつもない労苦がよくわかる。人はいうだろう。父無し子など獣に等しい、と。母に愛されたことのない人間など、真っ当な人間ではないのだ、と。
恵まれて育っただけの虫けらにはわかるまい。
なにも知らぬのに、知っている顔を見せびらかす滑稽な虫けらに、おまえの価値はわかるまい。
だが、私は違う。
孤狼児を尊敬しているのだ。その膨大な苦しみこそ、人なるものの価値であるがゆえに……ククッ」
「ぜったい本音じゃないだろ!」
グノークスの目がぎょろぎょろと動き、罠を警戒している。そうだよな。突っ込み待ちにしか見えないだろう。
「死ね!」
感情の高ぶりでにじみ出るエーテルをそのまま膂力とし、おれは渾身の力で宝斧を切り上げた。
瞬間、刃先に氷が生成され、衝撃を嵩増ししてグノークスの足に襲いかかる!
──パキン!
あっけない振り払い。
目視できぬ速度で地面をこすった巨剣が、斧を迎撃してあっさり氷を叩き割った。
おれはふっ飛ばされそうになりながら、かろうじて斧を保持した。念入りに魂膜で保護していた手首を痛めかけたが、相手は何も感じていない。根本的に何枚か役者が違う。
返す刀で頭上から襲いかかった巨剣を、宝斧で無理やり弾き返す。
斧に罅が入ったのがわかった。ほとんど衝撃を殺せず、さらにおれはふっとばされた。
「畜生……!」
──想定どおり、距離を取れた。
だが、グノークスは想定よりもさらに強い。天才的なエーテル遣い。才能のあるエーテル遣いと正面から戦えば、おれは明確に劣っていた。これが周りを気にする必要のない決闘ならば、瞬殺されかねない力量差がある。
「──隠しだねも無いようだな。もういい、殺す前に一寸同情してやろう。
君はもう死ぬのだから。
つまらない、取るに足らない最期だとは思わないか?
だが安堵するといい。
すべての人間は結局のところ、本人や他人の思い込みとは関係なく、全員が無駄に死ぬのだ。
人はよく虚偽にすがりつき、優しい慰めを信じたふりをするものだが……くくっ、それが通用するのは自分に差し迫った苦痛や病がない間だけだ。
親しい人が死ぬと、人は健気に切に願うものだ。せめて苦しまずに死んだと信じたい、そんなと願いと関係なく、人の半数は苦しみ抜いたうえで死ぬのだ。多くは自分の番が来るまで、そのことに気づくこともなく……おまえも、おまえの大切な人も、苦しみぬいて残酷に死ぬのだよ。覚えがあるだろう?」
歩み寄る男の笑顔は悍ましい。
人を殺す前にいつもと同じように笑える人間。
おれは無理やり笑い顔をつくり、叫んだ。
「ガレアーン、剣を受け取れ!!」
狙いすまして吹っ飛ばざれた場所に転がっている、少女の剣を投げつける!
戦場では曲芸じみた技がよく活きる。投擲された剣は、触手から抜け出そうと藻掻くガレアーンの近場になんとか刺さったが、少女は呆然としたまま剣に手を伸ばさない。
一つの賭けだったが、悠然とグノークスは周囲を警戒している。戦闘力を失ったガレアーンにわざわざ剣を投げつけた行動を囮だと考えているのだ。
──エーテル遣いの戦いでは一つの見落としが死につながる。だから人の行動の裏を読んでしまう。そういうやつの相手は得意だった。一番怖いのは空気を読まず突撃してくる脳筋である。
「おい!お嬢様、偉そうに命令してたんだから、すこしは動けよ……! バロート人は嫌いだが、命を惜しまない姿は尊敬していた!おまえは戦士になるんだろ!
──戦士になったんだろ!?
どうせ死ぬなら、剣を抜いて死ね!」
ガレアーンは、覚悟が決まったのか、瞳をうるませて剣に手を伸ばしている。
「せめて戦士として死なせてやろうという差配か。愚か……愚かそのものだ」
おれの行動をあくまで悪あがきだと断定し、はじめて内面を顕にしたのだろう。
口が引き裂けるような、サディストの笑みを浮かべるグノークスに、おれも歪な笑みを返した。
「呪い子の首輪を千切れ!!!」
グノークスが外套を翻し、はじき出された小石のようにガレアーンへ駆け寄る。意図を理解したのだ。
一瞬、戸惑った少女は、その指示がどれほど危険か理解していたのだろう。だが、生き残る道はそれしかない。ガレアーンは、剣を巧みにあやつって、呪い子の聖輪を切断する。
「馬鹿な真似を……!」
グノークスが予備とおぼしき聖環を取り出した。触手を震わせ動き始めた呪い子の首をつかみ取り、地面にたたきつけて押しつぶす。
ガレアーンはその隙に、体にからんでいた触手を両断し、気力を使い果たして剣を取り落とした。
──上出来だ。
──ずっと、警戒していた。高位の貴族(それもバロート人!)がいちいち孤児や流れ者に説明をしながら行軍してくれる?呪い子の管理権を渡してくれる?そんな貴族に違和感を感じなかったらおれは生き残っていない。だから保険をかけていた。
肺から喉を魂膜で覆い、大口を開け、耳に両手をあてる。
〈炉心〉に刻まれた術式がエーテルの通り道を形成し、遍在するエーテルの呼び水として発火し、回路を形成する、そして刻まれたとおりの奇跡を再現した。
【──エリーゼちゃぁあああああああああああん!!! おいでー!!!】
◆
ビリビリと鼓膜が破れそうになる。
無属性燐術第二位〈拡響〉の音響が、喉から絞り出した声を増幅して夜空に響かせた。
「騒々しい……!小細工ばかりで、生き延びられるとでも!?」
グノークスは聖環を装着しなおした呪い子の首根っこを掴み、油断なく歩み寄ってくる。まるで人型の武器みたいだ。
面倒そうに目元を歪め、それでもこの期に及んで怪人は笑みを浮かべていた。
唐突に理解する──こいつの浮かべる笑顔に意味はないのだ。人が油断し、好意を抱くという経験則に基づいて素晴らしい笑みを浮かべているだけで、その背後には人の声を真似て旅人を捕食する巨人族のような正体があるのみだ。
「エリーゼとはなんだ?教えてくれると、苦しめずに殺してやれるのだがな……」
「いまにわかる!」
舌を出して笑って見せる。
ズン、と腹に響く震動があった。
中庭の外では、櫓がいくつも倒れ、人影が吹っ飛んでいる。
その騒動はこちらに近づき──盲車蜘蛛のエリーゼちゃんが、その巨体を押して突進してくる!
「おぉ!?」
高位の大型魔獣は機動性だけで災厄となる。
盲車蜘蛛が瞬きする間もなく12本の足を振り回して突貫し、グノークスが巨剣で迎え撃つのを横目に、おれは喝采をあげた。
「持つべきものは友達だな!」
小便の時の打ち合せ通り、グノークスを弾いた盲車蜘蛛がUターンして戻ってくる。
ヤトリムのなんともいえぬ顔が見下ろした。
「友達!?バカいうな、グノークスの旦那が生き残ったら、殺されるだけだって脅したのはおまえだろうが!」
そういう言葉で説得したし、説得できたということは、ヤトリムはうすうす勘づいていたということだ。愚痴を聞き流して指を差す。
「ほら、あっちに転がってるのが、ご所望のやつだぞ!」
「……なんだあの山みてぇなバケモンは!?
蒐魂のための手足……巨体すぎんだろ……!
こんなんじゃ調教しても使い物にならない……! 話が違う……!おい!蒐魂蜘蛛をやるっていうから逃げずにわざわざ来たんだぞ!?」
「約束通り現物はあるんだ。縮尺は努力でなんとかしろ」
「無茶言いやがる!」
ヤトリムの愚痴を無視して、ガレアーンに駆け寄る。
ひどい有様。よく剣を振れたものだ。
呪い子の胴体からあふれ出た紫の触手にからめとられ、片腕はぐちゃぐちゃに曲がり、もう片腕は二の腕が半ば食われていた。
足も動かない。内臓もちょっとはみ出している。
それでも生きている。
腹から抱き上げ、盲車蜘蛛の上に飛んだ。
──少年の胸を必死につかみ、少女は皮肉を意味する笑みを浮かべた。
「けほっ、げほ……孤狼児に助けられるなんて、屈辱だわ……」
「黙ってろ」
盲車蜘蛛は櫓を踏み越え、その機動力を武器にエーテル遣いを避けて基地の外延へ逃れていく。
「逃げるぞ、いいな!?」
「ええ、叔父様……グノークスの裏切りをロワットラ様に伝えるわ」
すんなり逃げられるなら、いいのだが……。
夜空にグノークスの叫び声がこだました。
「あくまで諦めないか! その闘志に敬意を表して、全力で屠ってやる! 〈隷襲〉!」
紫の触手が爆発して増殖し、タコの化け物みたいに踊りかかってきた。
第二ラウンドがはじまった。




