33「蜘蛛 八」
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大蜘蛛は巨体すぎて、アリからしてみればスローモーの速度で迫りくる。
降り注ぐ死に、狂気が沈静化した。
メテウスは呆然と口を開け、見上げた。
……こんなところで、死ぬのか?
「ん、ふっ……目ざわり」
……こいつ。
小さな嘲りの声。
その主である呪い子は、片腕を空に向けて掲げていた。
「──壁」
音すらなく顕現した虹の輝き。
目を焼く虹色の障壁が、大蜘蛛の質量を受け止めていた。
人間業ではありえない。
莫大なエーテルが形而上から堕ちてくる特有の気配に、体が怯懦を覚えた。
”……GYYY”
仮面に開いた八つの穴を青白く燃やし、身じろぎした蜘蛛が腕を振り上げる。
──パキン、と甲高い音が響く。だが虹の障壁は六角形を幾重にも重ねた形状をしており、何十層もの障壁が破壊されつつ蜘蛛の足先を止めた。
ぶわ、と呪い子の小さな子供の身体から青白いエーテルが噴き出る。
夜空と交じった蒼炎が蜘蛛を覆う。
だが、蜘蛛が仮面の頭を振り回し、ギ、ギ、ギ──と木の軋むような鳴き声をあげると、呪い子の青白いエーテルは沈静化した。
「めんどう……おいしくなさそうだし、どうしよっか……」
メテウスには見ていることしかできない。
非現実的な化け物と化け物の戦い。
大蜘蛛にとって呪い子の呪いは不快なものらしく、沈静化させているおかげでメテウスは正気を取り戻すことができたのだろう。この隙を逃すわけにはいかない。
「がぁッ!フゥ、フゥ……」
外界の音が耳に舞い戻る。
ガレアーンが涎をはきながら、大剣を支えになんとか立っている。
メテウスは駆け寄った。
傷ついた獣の目で剣を取ったガレアーンに両手をあげ、無害をアピールする。
「どこ、いってたの……」
「呪い子と蜘蛛の戦いに巻き込まれてたんだ。それよりもおまえ、その足……」
駆け寄り、片膝をついて少女の足を見た。
些細な裂傷は無数にあるが、とくに右ふくらはぎが半分食われている。
なんとかエーテルを廻して止血だけをすませたのだろうが、これはもう……
「──歩けるか?」
「無理ね」
敵地で歩けないということは、死ぬということだ。
「念のため聞くが、〈再生〉持ちだったりするか?」
「無駄なこと聞かないで。おまえ、なんとか呪い子を殺せる?」
「ガレアーンの剣が通らないなら、無理だな……」
「でしょうね……」
少女は口の端を噛んで血を流し、されど平然としていた。
痛みに目尻をヒクつかせているものの、空色の瞳は戦意を失っていない。
死を覚悟しているのだ。
メテウスは驚嘆した。己の人生の終わりを受け入れている。たとえそれが表面上の強がりであったとしても、死を前にして平静を保てる人間は多くない。生き残る目があるとか、仲間を逃すためならまだしも、こんな化け物に殺されると知って平静を保てるような人間は歴戦にも少ないのだ。
──バロート貴族。やはり侮りがたし。
「ねえ、任務を達成してから死ぬわよ、手伝いなさい」
「……ハハ、ガレアーン、アンタは本物の戦士だよ。おれが認めてやる」
「いまさら気づいたの?おまえなんかに認められてもうれしくないけど?」
言葉と反対に、砂色の前髪をいじってはらう少女は得意げだ。
慌てて肩を貸し、大蜘蛛と呪い子の怪獣決戦から二人で離れた。
「どうする?」
「もう、覚悟は決まってる。戦って死ぬだけ」
「そうか……」
死地では身分の垣根が低くなる。
どのみち破滅するのだから、とんれば人は簡単に暴動を起こすし、憎い人間を殺すものだ。
ゆえに貴族というものは死地に出ないし、逆に死地にでることをこの上ない名誉と考えるものだが、ガレアーンは違う。
身長差があり、肩を貸してもガレアーンのほうが背が高い。しかし二人とも子供である。
女の汗のにおいがメテウスの鼻をくすぐる。本当に女か? 逆に、ガレアーンはやはり裏切らなかったメテウスに体重を預け、ちょっとだけ仲間かもしれないと感じた。
仲間とともに死地で戦う戦士。憧れていた。戦友役が皮肉屋の狂った子供というのは不満があるのだけれど、まあ、ありあわせの人材で我慢するしかない……。
門前まで逃げ、座り込み、暴れる大蜘蛛の影だけを黙ってみつめた。
二人は仲間意識に近いものを共有していた。
あとは、最後の時を──
ポンポン
メテウスは肩を叩かれた。
「なんだ?」
ポンポン
「なんだって言ってる!」
「なに言ってるの?」
メテウスは怒鳴るが、ガレアーンの怪訝な顔にハッとする。
……じゃあ、この手は……
「ち、くれない?」
「!?」
神速で振り向くと、そこには呪い子が背伸びしてメテウスの肩を叩いていた……
「ぎゃ、ゥギゃああああああ!!!」
ダッシュで逃げようとしたが、膝が笑って無様に倒れこむ。
発狂に追い詰められた体が拒否反応を示していた。
「ヒッ──!? なんだ!? くるな、くるなよォオオ!!」
「……うるさい。血、くれない?つかれちゃったし……。おまえ、アペイロンの血がまじってる……おいしそう。けいやくするよ。血をくれたら、あのくもをころしてあげる……」
「おまえどうせ戦うんだろうが!!! 詐欺じゃん!」
真っ白な髪をした子猫のような子供。体を丸めて、だるそうにしているので、大型の猫みたいでいっそう小さくみえる。
青白い光を放つ目と、嘲りに数ミリ歪んだ口元にメテウスは怯えた。
いつのまにか不当な契約に巻き込まれている気配がある。
「おまえ!酒をやったら呪わないって言ったのに!呪ったじゃねえか!信用ならないんだよォ!」
「う、うーん……
さっきのは いとてき じゃなかったから……けいやくの はんいがい だよね……
せんもんようごで……てくにかるたーむでというと……こらてらるだめーじ……」
「コラテラルダメージ!?」
ヤクザ者ですら約束を守ろうとしているふりぐらいはするとするというのに、呪い子にその意思はないようだ。
人間社会のルールを内面化していない人間は、正しいという記号を纏うことに一切の意味を見出さない。それどころか、健気にも、正しさを証明しようとする世間の人間をどこか見下げているものだ。呪い子の目にはそういった異常者の視線があった。
「くも、ころしてあげる。だから、ち、ちょうだい?」
「畜生。『蜘蛛を殺してくれ』なんておれは言ってないだろ……?」
「それがもくてきなんでしょ?ち……血 を ちょうだい
ちを くれたら なんだって ねがいを かなえてあげる……」
──悪魔かな?
しきりに首元へ手を伸ばしてくる子供の手を跳ね除け、混乱していた。
白い糸の絨毯が足を絡め取っている。
大蜘蛛がこちらに突進しては、虹色の壁にぶつかって、夜空に破光を散らしていた。やはり音はない。
遠くから盛んに兵の声があがっているが、中には入ってこない。
すべての状況が混沌としていて、なのに警戒心だけが極限を更新しつづけていた。
──本当の敵は、まだ顔をみせていない。
ポンポン
今度はガレアーンがメテウスの肩を叩いた。
「このままだと私たちは死ぬわ。血くらい、やればいいでしょ?」
「……考えがあります」
警戒をつづける。
メテウスの耳元をチリチリと直感が焼いている。
一つの確信があった。
考えが正しいなら、もうすぐ──
──パリン!
ガラスが割れるような音がして、大蜘蛛が虹の壁を食い破った。
「むぅ──ちがあれば ざこざこ なのに──」
呪い子が飛び上がろうとするが、ピンと足を延ばしたものの、ころんと前転して尻もちをついた。
大蜘蛛との攻防で力を使い果たしていたのだろう、呪い子は、やはり命を喰らわなければ本領を発揮できない兵器なのだ。
闇と化してのしかかる大蜘蛛は落下を重力にまかせているため、奇妙なほどのろく感じられる。
──メテウスは斧を構え、弾き飛ばされて逃げる万一の可能性に賭けることにした。
──膝をついたままガレアーンが大剣を構える。闘って死ね、それが戦神スモルクの聖言であるがゆえに。
──ふと、大蜘蛛が首をかしげて遠く空を見上げた。
空に光があった。
夜空を疾走する流星。それは人間だった。
燃え盛る貴紫の魂膜を纏った人影が、巨大なデスサイズを振り上げ、直角的な軌跡を描いて瞬く間に蜘蛛の頭に激突する。
「──待たせたな」
グノークスがそこにいた。
「叔父様!」




