32「蜘蛛 七」
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視界に景色が戻ったとき。
後遺症のような小さな発狂を抱えつつ、メテウスは正気を取り戻していた。
コミカルに慌てて左からやってきた蜘蛛が、ようやく次の影に隠れようとしている。
五秒も経っていない。
手を見ると血が滲んでいる。
遅れてかゆみにも似た痛みを知覚し、血の匂いに惹かれて手を舐めた。
ぺろぺろ。なめくじのように舌をはい回らせる。
とてもまずい。
狂っているわけではない。酒に寄ったときに意図して寄ったふりをして正気を取り戻すように、狂気に抗うなんて不可能だから、狂ったふりをしてなんとか正気を保つ。
まだ歌が聞こえる。
舌ったらずの子供の声が闇に溶けている。
星を見上げる。
夜空に声がしみこんでいる。
必死で耳を抑えるが、頭の中に直接歌が響く。
虹色をした蛾が、視界の裏で何万匹も飛んでいる。
平坦でまともに発声していないのに、意味だけが直接意識に滲みこむ。
──これは、呪歌だ。
『けだものわたしは
けだものではない わたしたち
八番目のネルトラユプルをうたいましょう
世界にあらたな法則をあたえましょう──
怨嗟の匂いがする
憎悪の歌が聞こえる
惨苦の呻きと調和して
理不尽に圧殺された死者の叫びがこだまする──』
内容は無意味にしか聞こえなかったが、その言葉の裏にある意図だけは理解できた。
嘲りの歌。
世界に”おまえは本当にくだらなくて低劣で無意味な代物だ”、と投げかけているのだ。
呪い子は憎悪し、どうやら神を嘲る背反を楽しんでいる。
視界の端に、虹の鱗粉を振りまく蛾がチラチラと飛んでいた。
極限の苛立ちで全身に鳥肌が立つ、抵抗できない。感情失禁に近い。この短時間で自分がつくりかえられたという実感がある。
瞬間、グノークスの言葉を思い出した。
『本当は手足の腱を切断し、目玉を抉って髪を剃るべきなのだ。
覚えておくといい、呪い子は人ではない。命を喰らう災厄なんだよ』
──わずかな正気で、おれは笑った。
あのうさん臭いオッサンの言うことは、なにもかも正しかったのだ。
呪い子なんて、全員抹殺するべきに違いない。
「っ、ふ、ハ……ははっ」
笑いが込み上げてきた。
いよいよ世界と自分の境界線が破れる。
生臭い女性器が目の前で開いたかのようだ。
あらゆる予感と嫌悪感が綯い交ぜになって、吐き気がする。
人間を非人間にしてしまう、悍ましい恐怖の本流。
──おれは、自分が人間でいられる最後の境界線を飛び越えようとしていた。
抗えない……
「やッ──やめろッ!!!」
人の声。
隣をみた。
少女だ。
同じく耳を抑え、身もだえているガレアーンが、地面に向けて剣を振っていた。
狂人め、幻覚をみているのか?
考えてしまったが、少女の足元に小さな蜘蛛がまとわりついているのに気づく。
……蜘蛛?いまさら?おそってきた?
歌が止んだ。
地面がまっくらやみになる。
そら?
月光のさえぎられた空をみあげる。
真っ黒な、山。
巨大な蜘蛛が、足を広げて──のしかかってきている。
「あ」
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