29「蜘蛛 四」
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暗闇に順応し、エーテルで強化された視界を獲得するまで二十秒。
月光に撫でられた広場は輝いていた。白糸が重ねられ、大地は滑らかな光の絨毯と化している。視界の端にチラチラと動めく影があり、目を向けると糸の中に隠れてしまう。
「あれは……なに?」
化け物に違いなかった。
「どうする?」
「襲ってこないなら放置しておく。あの中に、回巣があるはずだから、呪い子を殺して投げ込むわよ」
「あ、ああ……」
メテウスは顔を袖で拭い、頬を噛んで血の味をたしかめる。
とっさに背負いなおした重みは、暖かくて手足の生えた子供だ。
──この子供を殺す?おれが?
同情や罪悪感ではなく、不条理な危機感を覚えた。
敵は、目に見えるものばかりではない……。
名前のついていない敵が、たしかにいるのだ。
いま、メテウスの心の大部分を占めているのは、回巣や呪い子ではなかった。
歩きながら、しきりに周囲を見回す。
広場の外から脅威がやってくるのを警戒していたが、隅に転がっている物体に気づいて近寄る。
「なにしてるの?」
「いや……これ、人骨じゃないか?」
少女は棒を拾った。
「女の腕の骨……こっちは、壮年の男の腰骨。青年の頭蓋骨まである……」
「なんで種類がわかるんだよ怖いわ……。こっちは鹿の頭だ。これ、糸の下は、骨だらけだぞ」
少女の目が、驚きで丸まった。
起伏のある地面。月光に透かされ、白糸の下には、人の頭蓋骨や動物の骨が並んでいるのがはっきりと透けて見えた。
──まるで蜘蛛の巣を祀る異教の祭壇のようだ。強大な神々が支配するこの世界で、それはちょっと馬鹿にならない印象でもある……。
少女が、警戒心を限界まで高めて剣を握っている。
「なぜ?」
「餌だろうな。捧げられた。ゆっくり、目だけで、後ろを見てみろ」
ガレアーンは頭をわずかに動かした。
──消えている。
血の海に沈んだ死体が、跡だけを残して消えていた。
音があればもっと早くに気づいただろう。
視界の端、半鐘にすがりついていた死体が、ずるずる音もなく動いている。
哀れな死体の下に、何かがいた。
音がない──音をなんらかの理で消している。エーテルを扱う生き物、魔獣だ。
死体の下からは長い八つの足が突き出て、カサカサと動いていた。
──蜘蛛。
ヤトリムは、蒐魂蜘蛛とかいっていたか。
蒐魂のための手足、冥府を連想させる言葉だ……。
「あんなに小さいのか?」
「大きさは問題じゃないでしょう?」
──たしかに。
いよいよ広場の中心へ進んだ。
うずたかく積もった糸でちょっとした山や谷が形成されている。
地形の影に、逃げ遅れた蜘蛛の姿が何度か見えた。
人の視界から消えそうとする習性に、なんの意味があるのだろうか?隠れなければならない理由があるのだろうか?動物と同じような捕食者から逃げる習性だろうか?それとも罪や恥で隠れているのだろうか?一方的に人間の文脈で判断してよいものだろうか?
判断がつかない。
すべて悍ましい化け物の姿をしていた。
小さな蜘蛛たちは、真っ黒だった。
体格は人の半分ほどで、さほど脅威と感じない。
だが顔面にあたる部分へ、頭蓋骨や動物の頭の骨が嵌め込まれ、眼窩に青白い光が宿っている。
呪術か神秘が関係している……尋常の生命ではないのだ。
「きっしょ……」
「えっ? ちょっと可愛くない?」
「おまえ趣味悪いぞ……痛ッ。ガレアーン様、お趣味がよろしいようで……痛ッ!なんだよモウ!」
なにを言っても脛を蹴られる。
みじろぎする子供を背負いなおした。恐怖のワードを何度も刻まれた四肢は縛られ、目隠しをされていたが、意識があるようだ。
──こいつ、子供のナリをしちゃいるが、殺したところで命を食って復活するんだ。あの蜘蛛どもより恐ろしい化け物かもしれないな……。
中庭の外で高まる騒ぎとは対照的に、青白い月光が照らし出す中庭は、奇妙な静寂につつまれている。
緊張と相反する静寂。
人骨だらけの敵地だというのに、胸に安らいだ心地が生まれた。
深夜の散策に似ている、警邏のランプが遠くに点々とゆれているのを目に映しながら、広大な墓地を散策しているのに似ている。闇が味方だと感じるようになったのはいつからだっただろうか?
死者を恐れなくなったのはいつからだっただろうか?
死者は秘密を語らず、いかなる生者よりも心地よい隣人でありうる。そう考えると、転がる人骨も不気味ではないのかもしれなかった。
「これがあの兵器の本体ね……」
たどりついた最奥には、糸の丘に隠れ、巨大な蜘蛛が鎮座していた。
都会に寄港するような空飛ぶ船を思わせる大きさをしている。
うず高く築かれた糸の谷に四肢を這わせ、腹の下にうじゃうじゃと集った成長途中の小蜘蛛になにかを食わせている。
──ちょっと笑ってしまうくらい化け物。
田舎で祀られる、勘違いした邪神みたいだ。
一瞬、目があった気がした。
身構えたが、首をかしげるだけで攻撃をしてこない。
無言でガレアーンが横に並ぶ。
言葉にせずとも、少女の気配は安堵に満ちていた。
もう、任務は達成したようなものだ。
もしも見つかっても、同時に、呪い子を殺せばそれだけで基地は壊滅する。
しばらく待つつもりだ。
作戦では、できるだけ陽動役の逃げる時間を配慮することになっていた。
子供を下ろし、しばし蜘蛛の威容を眺めて待つ。
闇に溶けた巨大な輪郭がそびえたつ。月光すらも反射していない。
やはり小蜘蛛と同じで、体躯は光を吸収する漆黒をしていた。
目を引くのは、頭の部分に不気味な仮面を備えていて、釘で引っ掻いたような特徴的な三角形が重ねられた紋様──神象が刻まれていた。
──うん? うぅん!?
「──あれは……!? 兵器の紋章だぞ、おい!」
「……これって兵器なの?ちょっと大きい魔獣にしか見えないけど……」
「間違いない。あの仮面の紋章──バルフト神族が、古い神を祀って使う神象だ。眉唾だと思ってたが、本当に神族製の兵器だな。壊さないとここら一帯、どうなるかわからないぞ……」
「どうして知ってるの……おまえ……怪しくない?」
ガレアーンは不信に満ちた目で少年をみつめた。
説明のできない因縁があるため、対抗して怪訝な目で見つめ返すと、やはり脛を蹴られた。
フンと目をそらし合う。
……やる気がでてきたな……さっさと壊すか。




