18「幕間〈曼荼羅に抱かれて眠れ〉」
『曼荼羅に抱かれて眠れ』
白い肌。透き通っている小さな背中。浮き出た肩甲骨へ、冷水の滴る布を押し付けた。
「……冷たい」
文句をいって震えたカノンの背に、真っ白な髪が垂れた。華奢な骨に張り付いた紙のような肌を、構わず拭いていく。
「冷たいのは我慢して。こんなの、授業に比べたらなんてことないでしょう?」
「もう」
肩越しにふり向いたカノンの青い瞳。無邪気な残酷にいたずらっぽく光ってる。
カノンの怜悧なシルエットのなかで、唯一柔らかな頬に手を添え、こちらを向くようベクトルを加える。
くるりと正面を向いたカノンは氷の海に沈んだ人形のようだ。浮き出た肋骨を隠すように、薄く固い乳房へと髪が流れている。なんとなく手を伸ばして髪の中を泳がせるとくすぐったそうに笑った。肌の血を拭ってやると、さらにくすぐったそう身をよじる。
「ね、ね!やめてって!」
「逃げないで。拭いているんだから」
「いや、無理だよ……わざとやってるでしょ!」
胸から愛おしい思いが噴き出る。
嫌悪感も。
視界の端、足元で蠢く指先に気づいたから。
蠕動する指先は芋虫じみて、ひどく穢らわしい。
生理的な嫌悪に任せ、強く足を踏み降ろした。
ぐちゅ、と。
骨が砕け、素足の裏から血が滲む。
ぐちゅ、ぐちゅ。
踏みしめる。
闇に轟くうめき声。カノンが口元だけの笑みを浮かべる。青白い幽魂灯に照らし出された長髪は、遠い昔に仰ぎ見た、夜空を染めた乳白色の銀河に似ている。
髪はところどころ赤に染まっていて、真っ暗な部屋に血の色だけが浮かび上がった。
叫び声が響いたので、さらに足裏をねじった。
ヒクヒク、まだうごめている。芋虫のように。穢らわしい。
「うわ……まだ生きてる。頭に穴空いてるのに」
「すごいね。感心するよ。フェンス先生、精力強かったもんね」
カノンは膝をつき、柔和な微笑みを浮かべ、右腕に光を宿す。
白銀に輝く魂光が、暗闇を照らし出した。
衣を血に染めた男女のたくさんの死体に囲まれている。身をよじった男が、照らされた同僚の死体に狼狽し、慈悲を請う言葉を並べた。
私たちの言葉なんて、一度も聞かなかったくせをして。
カノンは薄い笑みを浮かべる。
「ばいばい先生」
ずぐり、男の胸をえぐり取った。
とても楽しそうに。
口元に歪みを浮かべて。
返り血を浴びて。
今日、はじめて発見したことなのだけれど。
カノンは人を傷つける時、静かに興奮していて、肌の透明に血が差す。
氷の人形のようなカノンに血が通うと、人でもなく人形でもなく、そのアンビバレンスがとても美しい。
カノンは血をはらった。半ば凍りついた死体の上で、ダンスを踊っている気持ちになったのか、私に笑いかけてくれる。
血の匂いが嬉しい。
血は美しい。穢れを洗い落としてくれる。鉄錆の香りは好ましい。穢れた匂いを上書きしてくれる。死んだ人間は安心できる、生きている人間よりも好ましい。
だから、けしてカノンの行為に反対というわけではないのだけれど。
人を潰すたび、血が流れるたび、命が消えるたび。カノンが離れていってしまうような気がして、いつか終わる関係性にいまから怖くなってしまう。とても勇気を振り絞り、カノンの肩に額を当てた。
「楽しそうにしないで……怖いよ」
「ごめん。でも、違うんだ。
嬉しいだけ。
復讐ってね……魂にとって一番良い栄養らしいんだ。
だから許して? ね……洗って?」
椅子に座ったカノンの裸体。背中をこすり続ける。
私はいつしか泣いていた。
とても、とても残酷なこと……。
これから起こることを、理解していたからだ。
だって、これは夢だ。
それも他人の夢。
記憶を盗み見るように、私は『覚えているはずのない記憶』を夢見ている。
死んだ人の目から見た、私の記憶。
なんとか眠ったままでいようと努力する。
なのに、自分が夢をみていると自覚したとたん、水底から浮上する泡の速度で意識は目覚めてゆく。
嫌だ。
つぎ、気が付いた時には──
●
──暗い穴倉で、カノンは夢から現実に戻った。
手足に絡みついた鎖がしくしくと痛む。擦れ傷は化膿しており、体は熱っぽい。
気怠い頭のまま周囲を眺めると、めざとく看守が立ち上がり、カノンの腰を蹴飛ばした。
「ぐ、がっ!」
「目覚めたら申告しろ!この呪い子が!」
カノンの薄い胴体は踏み潰された。
お腹の中が破裂したような衝撃。肋骨が軋む音。血混じりの胃液を嘔吐する。カノンを生かしてきた直感が、この痛みは生命に関わると警告している。
(ころして……ころしてやる……)
胃液の酸っぱい味を舌で転がし、カノンは呪い言葉を呟く。
呪い。
それだけがカノンの武器だった。
「昨夜あれだけ痛めつけてやったのに……もう治ってやがる。ほら、起きろ!仕事だ!」
格子の隙間から、早朝の青さがわずかに差し込んでいた。
半球状をした一人用の牢獄から連れ出されたカノンは、いくつも並ぶ牢獄の間を縫ってすすんだ。並ぶ牢獄の森を進む。法術で成型された画一的な建築物には遊びというものがなく、格子まで土の黒色をしていて、なにかそういう〈異界〉に迷い込んだような景色が続く。
ブーン、と。
死体に集る羽虫が周囲を飛び交う。
囚人の労役で建てられた、即席の火葬場には次々と死体が投げ込まれ、燃え盛る炎に蛾が突っ込んではじゅっと焼けている。
戦場の後始末。
ナフサを巻き散らかされた死体に火が灯る。
めらめらオレンジの輝きが灯り、カノンは足を止めて見入る。
ジュッ、と。
また一匹、死体の燃える炎に太った蛾が飛び込んだ。
光に向かう本能のある蛾は炎に飛び込まずにはいられない。
それがカノンには嬉しい。
蔑むということが蔑まれるということであるように、呪うということは呪われるということ。カノンは呪いに愛されている。過剰反応した〈権能〉により、遠い記憶がまたカノンに絡みつく。
『……ねえ。呪いってなにか、知ってる?
呪いって、罪の話なんだって。
私たちの始祖は大罪人だから、子孫も呪われていないといけないんだって。
何百年前も、ずっと前の……笑っちゃうよね……お爺ちゃんのお婆さんのお爺ちゃんの……そのまた大昔の人が、罪を犯したから、私たちはこんなところにいるんだって。
でも、それならさ……生きている人ってみんな、私たちと同じはずじゃない?』
少女がささやいた言葉は、カノンにとって晴天の霹靂だった。
それまで、大昔の罪によってこのような罰を受けていると信じていた。
だから苦痛を受け入れようと、ただ恐怖して……汚くて……みじめで……殺されるのを待つばかりだった。
すべて罪を償うためだ。
罪があるからこのような苦痛がある。罪もないのに苦しいはずがない……。
そうして罪を償っているのに、罪を認めないようなことを言うのは、とてもとても恐ろしいことだった。
私たちは移民で……
『昔からこの土地に住んでいる正しい人々』に対して、昔、悪いことをしたから、罰を受けている。
でも、その罪がないというのなら、どうしてこんな仕打ちを受けるのだろうか……?
『なにを怯えた顔をしているの?
ねえ、考えてもみてよ……
人殺しを祖先に持たない人間なんて、いるはずがないのに、どうして私たちが罪人の血を引いているというだけでこんな罰を受けているの?
私たちを罰する彼らは、どうして祝福されているだなんて思い込めるの?
私たちを傷めつけて、殺すことは、罪じゃないの?
ふふっ、ばっからしい……!
ねえ、何百年前の罪のために私たちが『呪われた』のなら、私たちを呪った人も、呪われていなければおかしいでしょう?
この世に天秤があるなら──
私たちを責める人たち、みんな、共食いに強姦に殺人を繰り返してきた大罪人の血が流れてる。
同じなのに……
生きている人なんてみんなみんな、赤子をたくさん縊り殺した罪人の子孫なのに、どうして私たちだけが、罪人の子孫だからってこんな罰を受けているの?
ねえ、知ってる?
ほんとうは、私たちは、生贄なんだって……』
その言葉に、カノンは呪われた。
だからカノンは呪う。
ありったけの憎悪をそそぎこんで、自分と彼女をこのような目に合わせたすべてのものを呪い続ける。
そうでなければ生きている意味などない。
復讐だけが魂の希望であり、憎悪はカノンに唯一方角を教えてくれる星光なのだ。
光に向かって飛ぶ、蛾のように……。
死体の焼ける業火が揺れる。
また一匹、蛾が炎に飛び込む。
ジュッ、と。
蛾は光に抗えない。
死体を燃やした炎は、さらに蛾を招き寄せる。
ブーン、と。
また光に魅入られた蛾が炎に飛び込み、焼ける。
未来永劫終わらない。
悪夢の中のように、繰り返されている。
だから、ここはきっと煉獄なのだ。
カノンはすこし笑ってしまった。
だって、みんな呪われているのなら、あの蛾のほうが賢いんじゃないかって……
「なに止まってやがる!歩け!」
振り下ろされた鞭の衝撃。
体がバラバラになるような痛みに、記憶の再生が終わる。
生々しい記憶が途切れ、痛めつけられている自分の体を思い出してカノンは歩いた。
『ほんとう』よりも体が小さくって歩きづらい。何度もよろけ、そのたびに鞭がうなる。
「朝からうるせえぞ……」
「水をくれ……水をくれ!!」
「ガキなんて連れて、あの看守なにをしていやがる……」
カノンの視線は低いから、牢獄の中がよくみえる。
格子からのぞく顔つきは、一様に垢じみてみじめな風体をしている。
ここはバロートの貴族が用意した、戦奴たちのホテルだ。
前線に投入するための戦奴。カノンの同類たち。
こうして閉じ込めていなければならない。囚人たちは、前線に投入されれば百の命を奪う兵器でもあったから。
彼らもまた、呪われている。
カノンは体がすこしずつあったかくなって、力が満ち足りていき、呪いが大きくなってゆくのを感じた。
呪術の大切な原則。
天秤があるところには、呪いがある。
罪には罰がある。贄には対価がある。恐怖があるから憎悪が生まれる。
恐怖と憎悪は隣り合った親類みたいなもので、真に迫った憎悪のあるところでは際限のない恐怖が生まれる。
牢獄の森には、それぞれ住人がいる。
獣混じりの崑崙人が格子に頭を向けて寝転んでいる。狼頭なのに、なにもかもを諦めた犬の顔をしていた。
血を滲ませた戦奴が、潤んだ真っ黒な目で睨みあげてくる。狂気の滲んだ笑顔は、凄惨な歴史が噴き出すようだ。
戦用の魔獣(尋常の理に属さない生き物を総じて魔獣という)は行儀良く餌を待って首をかしげていた。馬に似た平静な目をしている。このあたりの生き物で唯一、安らかなのだろう。
即席の牢屋に閉じ込められた奴隷たち。
即席の監獄はそういう林のように、えんえんと続いている。
カノンは晴れやかな気分になる。だって怨嗟の匂いがする。憎悪の歌が聞こえる。惨苦の呻きと調和して、理不尽に圧殺された死者たちの声がする。
カノンは死者たちに祝福されている。
カノンのために用意された呪いの贄たち。
ここは牢獄だった。
無数の牢獄。
一つの牢に、一つの魂。
一つの人生、一つの生命が戦奴として集められる。
一つの牢獄、一人の人間。
一つの体に、一つの魂。
ここは煉獄なのだ。
一つの牢獄に、一つの魂。
一つのなにかに閉じ込められてしまった、一つの魂たちが……
(呪われている……)
カノンは微笑み、場に満ちる呪いを寿いだ。なぜならそれはカノンの復讐を手助けしてくれる。
〈権能〉がまた一段高まる。極限の飢えにも似た憎悪が、すべての渇望と混交して極彩色の感情となり、カノンのおなかの中を満たしはじめる。
「なに笑ってんだ?おとなしくしてろよ……!」
カノンは子供だ。
肉壁として集められた戦奴たちの監獄にはふさわしくない。毛色が違いすぎて、ほかの囚人たちもカノンを見つめてくる。
すれ違う者たちには、小さな子供を警戒する看守を、せせら笑う者もいた。
看守は気にしない。
そして正しい。
カノンはまだ子供だが、危険性という点では場のすべての囚人より、カノン一人の脱獄を警戒すべきだった。
──だってカノンは呪い子なのだから。
「おら!!!止まるな、離れて歩け……!!」
激高した看守は鞭を何度も振り下ろし、カノンの小さくて真っ白な背中に、血のにじみでた太い線を幾重にも刻みながら、怯えていた。
前任者が、子どもの姿をした化け物に、跡形もなく捕食されてしまってから、まだ十日もたっていない。
カノンはよろよろと歩く。
ついにため込んだ呪いがカノンの小さな体に満ち足りて、はちきれそうになった。
静かで深いところに蓄積された呪いが、カノンの肉体から飛び出ようと波のようにカノンの意識に訪れる。
それは痛みと快感のちょうど真ん中にあるような低くて深い震動で、カノンはいつまでも我慢はしていられない。
あとはタイミングをうかがうだけだ。
急に立ち止まったカノンを警戒した看守は立ち止まり、泣きそうな顔を歪めた。
──この実験動物が暴発すれば、命はない。しかし命令違反をして、この実験動物を逃がせば、やはり命はない。自分は前任者と同じ末路を迎えるのだろうか──?
「おい」
そこに一人の戦士が足早に近づき、手綱を奪い取った。
「人を待たせておいてモタモタと……!
なにをしている!はやく鎖を貸せ!
この忌まわしい呪い子を、将軍方がお望みだ!
貴様……? ガキにびびっていやがるのか!?
ハッ!ガキにびびるおまえみたいな根性無しには、獣の調教師は務まらんだろう!
将軍方には、私が連れて行って引き渡す!
この十人長シエドラ様が、任を引き継いでやる!ありがたく思え!!」
看守は目を丸くした。
「あっ……ありがとうごぜえます!シエドラ様、あんたは天使だ!!」
「???」
「どうぞ!ご武運をお祈りしております!では!!」
シエドラは天使になり、看守はダッシュで逃げて命を拾った。
カノンははてなマークを浮かべたシエドラに引きずられ、ブウェイック家の天幕へ連れていかれた。
カノンは周りの人間のしぐさにいっさいの興味を持たず、ただ鎖を引っ張られるままに歩いた。
──呪い子のカノン。
男の子のように適当に切られた真っ白な髪に、泥土のこすりつけられたような風体。血の気のない肌をした、幽魂灯のような青い瞳の子供。華奢な体格と白い肌は捨てられた人形のように頼りない。
五歳にも見える子供。
どう背伸びしても八歳を超えないだろう子供だ。
ぼんやりと周囲を眺め、眠たげな顔をしているが、あどけなさはまるでなくふてぶてしい。
鞭を振るえば恍惚とした笑みで呪いを生み出す〈呪い子〉である。
その真っ白な右背には、神々がお気に入りとして人の刻む紋様──神象が刻まれている。
神々の一柱に特別に祝福され、特異な能力を持つに至った恩寵者であるカノンは、生体兵器としてバロート人の戦争に使われていた。
──〈呪い子〉を利用しているつもりのすべてを、カノンが目的のために利用しているとは、いまはまだ誰も知らずに。
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