第7話 結婚しよう
「……で、最後にその商人が言ったんだ。『新領主様、麦の値段が下がったので祝いにもう一樽いかがですか』ってな」
「ははっ、なんだそれ」
レイが肩を揺らして笑う。
晩餐会の灯りが
金色に揺れていた。
磨かれた皿。
焼きたての肉。
香草を散らした白いソース。
甘い果実酒の香り。
長い卓の向こうでは
カヤが骨付き肉にかぶりついている。
「んんー! 幸せの味がするー!」
「おい、少しは淑女らしくしろ」
「今日はお祝いなんだからいいの!」
明るい声が広間に弾ける。
窓の外には
領地の夜景。
新しく灯した街路灯が
ぽつりぽつりと夜を押し返していた。
人が住み。
店が開き。
笑い声が増える。
ほんの少し前まで
誰も見向きもしなかった辺境が
今は熱を持ちはじめている。
その熱の中心に
自分がいる。
ノーボディーは
少しだけ不思議な気分になる。
「……どうした?」
隣のレイが
首を傾げた。
赤い髪が
蝋燭の火を受けて柔らかく光る。
「いや。夢みたいだと思ってな」
「夢じゃない」
レイは迷わず言った。
それから
ナイフを置いて
まっすぐこっちを見る。
「おまえが、ここまで来たんだ」
肉料理の脂が
舌の上でほどける。
黒胡椒の刺激。
焼けた皮の香ばしさ。
濃い赤ワインの甘い渋み。
幸福ってのは
こういう温度をしているのかもしれない。
湯気。
火照った頬。
隣から伝わる体温。
「乾杯!」
カヤが高くグラスを掲げる。
「新領主さまと!」
「女剣士さまに!」
「この街の未来に!」
わっと声が上がる。
ガラスの触れ合う音が
夜に小さく跳ねる。
ノーボディーも杯を上げた。
レイの杯が
かちりと当たる。
「未来、か」
「嫌か?」
「いや」
彼は少し笑う。
「悪くない」
晩餐は長く続いた。
領民たちの祝いの言葉。
同盟の使者の挨拶。
商人たちの機嫌のいい笑顔。
けれど
気づけばノーボディーの意識は
隣の女にばかり向いていた。
肉を切る指先。
杯を持つ手。
時おりこちらを見る目。
強い女だ。
戦うことを恐れず
血を浴びることもためらわない。
なのに今夜のレイは
どこか落ち着かない。
耳が少し赤い。
それが妙に
目についてしまう。
やがて宴も終わりに近づく。
カヤがにやにやしながら
顔を突き出してきた。
「ねえねえ、お兄ちゃん」
「なんだ」
「今日は送っていってあげなよ」
「子供みたいに言うな」
「子供じゃないもーん。空気が読める呪い師だもーん」
レイが咳払いする。
「カヤ」
「はいはい。私はもう寝ますー」
わざとらしく立ち上がり
カヤは手を振った。
「お幸せにー」
「おい」
「おやすみー!」
逃げるように去っていく。
広間に残ったのは
二人と、名残の灯りだけだった。
しん、と静かになる。
遠くで食器を片づける音。
窓を叩く夜風。
残ったワインの甘い匂い。
レイが
グラスの縁を指でなぞる。
「……賑やかな妹だな」
「否定はしない」
「でも」
彼女は
少しだけ笑って
こちらを見る。
「ああいうの、嫌いじゃない」
「そうか」
「うん」
沈黙。
悪くない沈黙だった。
火がはぜる。
その音を合図にしたみたいに
レイが小さく息を吸った。
「ノーボディー」
「ん?」
「私は、おまえに助けられた」
「大げさだな」
「大げさじゃない」
即答だった。
「私は剣しか知らなかった。戦って、勝って、名を上げて、それで終わりだと思ってた」
彼女の声は低い。
でも震えている。
「けど、おまえは違った」
「……」
「街を作って、人を集めて、食わせて、笑わせて」
レイは
自分の掌を見つめる。
剣だこだらけの手。
「そんな生き方があるって、初めて知った」
ノーボディーは
少しだけ目を伏せる。
「俺は、ただ生き残りたかっただけだ」
「それでいい」
レイが言う。
「それでも、おまえは前に進んだ」
彼女の指先が
そっとこちらの手に触れた。
熱い。
戦場で冷えた鉄を握っていた手とは思えないほど
ちゃんと人の温度がある。
指と指が重なる。
柔らかいわけじゃない。
でも、心地いい。
「……俺でいいのか」
口からこぼれた言葉に
自分で驚く。
レイも
少し目を見開いた。
「何がだ」
「その……」
うまく言えない。
英雄だの領主だの
そんな肩書きじゃない。
もっと単純な話だ。
一緒に生きる相手として
自分でいいのか。
追放された男で。
名前すらまともに持たない男で。
明日どうなるか分からなかった男で。
レイは
しばらく黙っていた。
それから
笑う。
いつもの豪快な笑いじゃない。
困ったみたいな
でも、ひどく優しい笑いだった。
「おまえじゃなければ」
彼女の声が
夜の中に落ちる。
「私は一生、誰とも結婚なんてしない」
胸の奥が
静かに熱くなる。
ワインじゃない。
暖炉でもない。
もっと深いところが
じんわり温まる。
「……そうか」
「そうだ」
「後悔するかもしれないぞ」
「しない」
「俺、案外めんどくさいぞ」
「知ってる」
「寝相も悪い」
「それは今から知る」
思わず吹き出す。
レイも笑う。
肩の力が抜ける。
そのまま
二人の額が近づいた。
触れそうで
触れない距離。
レイの呼吸がかかる。
果実酒の甘い香り。
肉料理の余韻。
湯上がりみたいな体温。
「ノーボディー」
「ん」
「……結婚しよう」
今度は
彼女の方が言った。
真っ直ぐだった。
戦場で突撃するときみたいに
迷いがない。
でも
耳だけ真っ赤だ。
「それ、普通は男が言うもんじゃないか」
「じゃあ言い直せ」
「難しいことを言うな」
「簡単だ」
彼女は
こちらの手を強く握った。
「おまえも、そうしたいなら」
ノーボディーは
その手を握り返す。
指の節が当たる。
固くて、温かい。
「……結婚しよう、レイ」
今度こそ
自分の口で言った。
レイの喉が
小さく鳴る。
「……ああ」
本当に
それだけだった。
でも、それだけで十分だった。
部屋へ向かう廊下は
やけに静かだった。
灯りが足元を金色に染める。
窓の外には星。
遠くで夜番の声。
並んで歩く。
肩が時々触れる。
そのたびに
レイが少しだけ呼吸を乱すのが分かった。
扉の前で
二人とも立ち止まる。
さっきまでの勢いは
どこへいったのか。
レイが
妙に真剣な顔で言う。
「……確認だが」
「なんだ」
「今さら逃げるなよ」
「それはこっちの台詞だ」
「私は逃げない」
「知ってる」
「でも」
彼女は視線を逸らす。
「その……こういうのは……あまり慣れていない」
「俺だってそうだ」
「そうなのか?」
「そう見えないのか」
「少し落ち着きすぎてる」
「内心はだいぶうるさい」
レイが
くすっと笑う。
その笑いで
張りつめていた空気が少しほどける。
扉を開く。
寝室には
柔らかな灯りが残されていた。
白いシーツ。
厚みのある毛布。
洗いたての布の匂い。
窓辺から入る夜気が
火照った頬に気持ちいい。
ベッドは広い。
広すぎるくらいだ。
なのに
二人で立っていると
なぜか部屋が狭く感じる。
レイが
そっと外套を外す。
革の擦れる音。
その下の肩が
灯りに照らされる。
戦いで鍛えた体。
傷跡。
しなやかな線。
見惚れていると
彼女が睨む。
「見るな」
「無茶を言うな」
「……うるさい」
でも
本気で怒ってはいない。
ノーボディーも
上着を脱ぐ。
指先が少しもつれる。
その様子を見たレイが
今度は笑った。
「やっぱり落ち着いてないじゃないか」
「言ったろ」
近づく。
手を伸ばす。
レイの頬に触れる。
少し熱い。
彼女も
おそるおそるこちらの胸に手を置く。
服越しでも
掌の熱が伝わる。
鼓動が速い。
どっちのものか
分からないくらいに。
「……本当に、俺でいいんだな」
つい
もう一度聞いてしまう。
レイは呆れた顔をした。
「しつこいぞ」
「悪い」
「何度でも言ってやる」
彼女は背伸びをして
額をこちらに預ける。
髪が頬に触れる。
石鹸の清潔な匂い。
少しだけ残った酒の甘さ。
「おまえがいい」
シーツが
そっと沈む。
白い布の重さが
やけに現実的で。
指先に触れる温度が
やけに優しくて。
窓の外では
新しい領地の灯りが
夜の向こうで静かに瞬いている。
二人は
その灯りに見守られるみたいに
ゆっくりベッドへ腰を下ろしていく。




