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真実

 オレはどうやって家に帰ったんだろう。

 いつもの校舎の出口にフッカは現れず、ぼんやりと校門へ向かう無数のランドルたちの流れを見つめていた。

 ただひとり、ふらふらと道を歩く自分の姿を遠くから眺めていたような、そんな気がした。

 玄関を開けて沈んだまま、二階への階段を上り始めたとき、リビングの方から母さんの声がした。

「文香ちゃん来てるわよ」

 オレは返事代わりにデカい足音で階段を駆け上がった。

 そうだ、そうだよ。きっと何かの間違い、勘違いだったんだ。すぐそこに大事そうにチョコを抱えた笑顔のフッカがいるんだ。開けっ放しになった部屋に飛び込んだ。

 フッカの姿はなかった。

 敷きっぱなしの万年床はなく、誰かが掃除したみたいに散らかってたがらくたはキレイに片付けられて、がらんとした空間は、まるで引越しを待つ独り者の部屋のようだ。

フッカが、やったのか…………。

 部屋の隅の座敷机には、壁に掛かったフッカの写真を前に、お供え物のようにロッテの赤いガーナチョコレートと封筒が二つ並んでいた。

 机に駆け寄って跪いて封筒に目を落とす。

 ひとつは聖隷学園からのもの。

 もうひとつはデカいA4の書類の入るようなヤツで、フッカが持ち込んだものに違いない。

 封筒に英語の会社名が入ってるが、オレでも知ってるパソコン関係の企業のだ。こういうのはフッカのママさんが持ってたものだろう。

 デカい方を取り上げて急いで中身を机に広げた。二つ折りになった書類と淡いブルーの封筒がひとつ。それに通帳とハンコとカードがそれぞれ二つずつ?

 何だ?

 書類を広げると、この間二人で書いた婚姻届と、霧生市の様式の〝離婚届〟だ。フッカの欄が見慣れた文字で埋まってる。

 慌ててブルーの封筒を開くと、中には封筒と同じ色の便箋が分厚く畳まれていた。



『けーくん ごめんね

 いつもだいじにしてくれてありがとう。

 ずっと好きでいてくれてありがとう。

 でも、わたしはけーくんにうそをついていました。

 ずっとないしょにしておこうと思ったんだけど、もう会えなくなるから本当のことを書きます。

 ――――――――』



 背負っていたランドセルを放り投げて、机の横の手箱から〝必要になった物〟を掴んだ。

 そうか、コイツがあった〝意味〟はそういうことだったのか。

 そいつをポケットに押し込み、階段を駆け下りた。

 デカい音に驚いた母さんが玄関に出てきた。

「文香ちゃんは?」ずっと部屋にいるもんだと思ってたんだろう。

「母さん、ごめん!」

 靴を履きながら、背中で母さんに叫んだ。きっとオレはこの家の全部をぶち壊す。

「いいから、あんたはいま自分がいる意味を見つけなさい!」母さんもあの三連休で変わった。いや、復活したと言うべきか。

 母さんの言葉を背中に受けて玄関を飛び出した。


 フッカの家のインターホンを鳴らす。

 すぐにママさんが出た。

「フッカは!?」

『お兄ちゃんのところじゃないの?』

 そう言って家を出たのか。

「だめか……」

『啓示くん、文香をお願い!』ため息混じりに出たオレのつぶやきにママさんが応えた。やっぱりフッカの様子はおかしかったんだ。

「はいっ!」

 フッカの家の様子は詳しく聞いてないが、駆け落ちから帰ったとき、パパさんの姿はなかったらしい。ママさんもきっと変わったんだ。

 オレのやることは決まった。


 オレは走った。

 宝町の交差点からバイパスの高架道を抜ければ最短距離だ。

 自動車専用区間でも構わない。路側帯は緊急車両が通れるぐらい十分にある。

「くそっ、離婚届ってなんだよ、慰謝料ってなんだ! オマエの通帳まで要らねえよ! オマエのせいじゃねえだろ、馬鹿野郎!」

 親に、ママさんに言うべきだったか?

 言って警察に……、いや、ダメだ。

「オレが、ケリをつけてやる!」

 たった2キロちょっとだ。全力で七分と掛からない。掛かってたまるかよ! 前のオレなら走れたはずだ。本気で、死ぬ気で走るんだ。

 大型トレーラーの派手なクラクションにどやされながら命懸けで脚を動かした。

 足首が悲鳴をあげる。

 窓から飛び降りたあのときのオレに戻れ!

 何があってもフッカを守るんだ。

 フッカのあの瞳の意味がいまなら分かる。

『お兄ちゃん、たすけて』だ。オレの心の曇りがフッカのSOSを覆い隠してしまってた。

 フッカの痛み、フッカの苦しみ。

 痛め、右足の木偶の坊野郎、死ぬほど痛んでオレにβ-エンドルフィンってヤツを出させてみろ!


『――――けーくん、わたしに合わせてバカなふりしてたら、ほんとにバカになっちゃうんだよ。

 けーくんは、もっと上に行かなきゃ、でしょ?

 みんながあこがれるぐらい、カッコイイけーくんでいてください。

  ずっとずっと、大好きなけーくんへ

                 フミカより』


 ちくしょう! カッコよく決めてやるよ!

 これからも、ずっとこれからも好きでいさせてやる!


 道路沿いに久坂内科の看板が見えた。

 表通りに内科の診療所があって、その裏が自宅だ。水曜日なら親は診療所にいて自宅はヤツだけのはず。母親は……、運が良ければキミトにいる。

 裏道に入ったところに自宅の門があった。

 大したお屋敷だ。

 二階を見上げる。たいてい子供部屋は二階のはずだ。

 ドアホンは鳴らさずに門扉を乗り越えて庭に回る。門の脇に警備会社のシールが貼ってあった。さあ、時間との勝負。

 ここからは、空振りなら児相行き、当たりなら家裁行きだな。どっちもカッコよくはなさそうだ。

 いきなりの侵入者に犬が飛び掛かってきた。

 オレは犬は嫌いだ。何故なら、フッカのアレルギーの原因だからだ。

 なので、このオレの左腕を食いちぎろうとしているデカい犬がなんていう犬種なのかは知らない。だが、コイツには少し大人しくしてもらわないと困る。

「静かにしろ!」

 我ながら、動物愛護の精神に欠ける行動だと思うけど、小学生が大型犬に襲われている場面では正当防衛ともいえる。少なくともこれぐらいで死ぬことはないだろう。情けない鳴き声で引き下がったヤツの鼻先にもう一発喰らわして足止めをする。やたらとキャンキャン吠えるヤツだ。多分、人間に痛めつけられた経験なんて一度もないんだろう。

 オレの左腕は……、大丈夫だ、ちゃんと痛むし、ちゃんと繋がっている。

 庭に面したでかい掃き出しの窓はカーテンで目隠しされているが、間違いなくリビングだ。

 手頃な庭石を掴んで濡れ縁のようなウッドデッキに上がった。

 サッシのクレセントの横を石で殴りつける。二重窓でも石の方が強い。派手な音を立てて手を入れるには余りある大きさの穴が開いた。

 クレセントを外してリビングに侵入し、すぐに窓を閉める。庭に取り残された犬が痛めつけられる心配がなくなって安心したのかやたらと喚き散らす。

 これだけの騒ぎになればすぐに隣の医院からも人が駆けつけてくるだろう。

 急いで二階に駆け上がるとドアが四つもある。外から見上げた二階の構造を思い出す。ベランダのない東南向きの角部屋。

 ドアハンドルを掴んで捻る。ハンドルがロックされていて回らない。

 閉まってるってことは中に人がいる。ここだ。

 ドアハンドルのすぐ下をありったけの力で蹴りつけた。

 木材が割れ砕ける派手な音がして、ドアが中に開いた。

「フッカ!」勢いのまま部屋に飛び込んだ。

 ムッとするような暖房の熱気と異様な生臭さに息が詰まりそうになる。

 臭気の中心にベッドの上でフッカを組み伏せているヤツの姿があった。

 くっそ! ビンゴかよ!

「なんだよ、おまえ!」

 知るか!

 駆け寄って固めた拳をヤツの顔に叩きつけた。人を殴ったのは生まれて初めてのことだが、案外うまくいくもんだ。

 ベッドから転げ落ちるヤツの体から飛び散った体液が一雫顔にかかって、総毛立った。

 ベッドの上ではフッカがオレを見詰めている。ホッとしたのか頬が緩んで微笑んでいるように見える。

 安心しろ、ケリをつけてやる。

 足元に落ちていたナイフを拾い上げた。フッカが持ち込んだオレのエモノだ。

 彼女の力では使いこなせなかったようだけど、だが、ついに役に立つときが来た。

 そいつを握りしめて、ベッドの向こう側で呻いているヤツのところに回り込む。

 起き上がろうとする鼻先を踏み倒して靴を履いたままだということに気が付いた。こんなことならアイゼンでも付けてくればよかった。

 鼻から赤い体液を派手に撒き散らしながらのたうち回るヤツの胸倉を締め上げてやりたいが裸では掴むところがない。

 腹と胸に何度か蹴りを入れて、もう一発、顔を踏みつけた。腕か脚の二三本でもへし折ってやりたいが、階段を駆け上がってくる足音と女の声が聞こえた。

 母親――久坂美子カウンセラー――か。

 騒がれると面倒だ。

 ナイフを握り直して、狙いを定めた。

 心臓の位置は図鑑で読んで頭に入っている。

「死ね、クソ野郎」

 ヤツの顔が恐怖に歪む。もっと怯えろ!

「けーくん!」

 フッカ、止めても無駄だ。オレは殺人者になっても構わない! 体重をかけてナイフを振り下ろした。

「そんなヤツ、殺しちゃえーっ!」

 切先が骨に当たる感覚が掌に伝わる。

 耳障りな悲鳴。

 骨膜は血管や神経が集中してて、最も痛みを感じる部位のひとつだ。だが安心しろ、これが人生最期の痛みだ!

 手首を捻って刃を肋骨の間に捩じ込んだ。

 ヤツの絶叫と部屋に飛び込んできた女の悲鳴が重なった。

 体を起こすと部屋の入口に腰でも抜けたのか血の気の失せた顔でへたり込むヨシコ先生の姿が目に入った。

 フッカはベットの上からさっきの願い事が叶えられたかどうかを確かめようと胸から血を流して倒れているクソ野郎を覗き込んでいる。

「けーくん、殺った?」

 悪の首領のようなフッカの台詞にベッドの下にあった布切れを摘み上げて放り投げた。

「いいからとっととパンツぐらい穿けよ!」

 裸でいることに妙に慣れてるようなフッカの雰囲気にイライラして足元で剥き出しになったヤツの股ぐらを踏みつけた。


 オレとフッカは小さな会議室のような部屋で待たされた。

 自宅と診療所は廊下で繋がっていて、診療所の中にスタッフや業者と打ち合わせするための部屋が用意されているのだ。

 まあ、オレたちを自宅に置いておきたくないというのもあるかも知れない。

 すぐに警察を呼べばいいものを、うやむやに収めようと言うのだろうか。警備会社の緊急部隊は子供のイタズラだったと言いくるめて追い返したようだ。

 ただ、オレもフッカも連絡先を聞かれた。親が呼び出されているらしい。もうじき母さんとママさんがやってくるだろう。

 あの騒ぎで久坂内科の午後の診療は取り止めになったみたいだが、どういう理由をつけて待合室にいる患者を帰したのかは知らない。

 その院長さんはただいま大事な息子の緊急手術中だ。

 内科・小児科のヤブ医者でもちょっとした雑巾ぐらいなら縫えるんだろう。消毒薬も豊富にあるだろうし。

 母親はおそらくさっきの二階で片付けと着替えだ。漏らしたままのパンツでは気持ち悪いだろうから。目の前で息子が刺されたんだから無理もないが。

 少しして、その母親が会議室に入って来た。

 美人で明るいヨシコ先生の面影もなく疲れたオバサンになっていた。

 手にはグラスに入れたジュースを乗せたトレイを持っている。客でもないオレたちに飲み物を出してしまうのは、習慣だからだろうか。いや、もう考えるのも面倒なのかも知れない。

 テーブルをはさんで向かい側に座ったが、すぐにチャイムが鳴って席を立ってしまった。

 母さんかママさんが来たんだろう。

 オバサンが部屋を出るとフッカがグラスを手にした。

 喉が渇いてるんだな。まあ、毒は入ってないだろう。

 フッカに言いたいこと、聞きたいことはあるが、なんとなく話をする雰囲気ではない。ずるずるとジュースを啜って「はあ」と息を吐いた。

 ノックの音がして、ドアが開いてママさんと母さんが入ってきた。オバサンは母さんたちを部屋に案内して、そのまままた落ち着かないようすで出て行った。家に連絡したのはあの母親か。二人になんて言っているのかは分からない。

 ただ、ママさんはフッカの隣に座ると心配そうに頭を抱き寄せている。

 母さんは、オレを厳しい目で見つめながら隣に座った。

 何をしたのか、怒鳴りたい気持ちかも知れないが、フッカの様子から声を出せないでいるのだろう。

 重苦しい雰囲気に、オレはポケットから血に塗れたナイフを取り出しいてテーブルの上に置いた。母さんたちの注目がそこに集まるのが分かる。

「久坂を殺し損ねた。それだけ……」

 ドアが開いて、死に損ないの主役が登場した。


 テーブルを挟んで向こう側。

 真ん中に内科医が座り、左に久坂、右に母親のヨシコ先生だ。

 医者は怒りを押し殺したような険しい表情だ。

 一方久坂は青白い顔を歪ませている。歪んでいるのはオレのスニーカーの底のせいなのだが、鼻が折れてないのは残念だ。胸の包帯をぐるぐる巻きにして、重傷アピールなのかそれが見えるようにシャツの前を開けたままだ。

 母親は、相変わらず律義にも全員に飲み物をサービスした。ただ、それを口にしてるのはフッカだけなのだが。

 内科医が一つ小さく咳払いをして口を開いた。

「お宅の息子が、家に忍び込んでうちの子をナイフで刺した」

 母さんに向かってそういうと、オレの悪行を細かく話し始めた。

 門扉を乗り越えた。

 犬に重傷を負わせた。

 リビングのガラスを割って侵入した。

 子供部屋のドアを蹴り破った。

 息子をナイフで刺した。

 しかも、悪びれた様子もなく、謝罪もしない。聞いただけでとんでもないことをした奴だと誰だって思う。いまも靴を脱いでないことについては構わないのだろうか。

「母さん、オレはちゃんと反省してるよ」

 母さんがうっかり相手に謝らないように制した。

「こいつをちゃんと殺さなかったことを」

 あのときヨシコ先生の悲鳴に、ついためらってしまったんだった。

 目の前のオヤジの顔が赤くなった。

「オレがあんたの息子を刺したとき、あんたの息子は部屋で何をしてた?」

 返事ができるはずがない。

「遊んでたのか? 久坂?」

「そうだよ。白井さんと」

「あんたの家では女の子を脅迫して無理やり辱めるのを遊びっていうのか」

「どういうことですか!?」ママさんが思わず声を上げた。

「こいつはフッカを騙して撮ったいかがわしい写真で脅して、ずっということを聞かせてたんだよ」

「言いがかりも止せ」

 親父が怒鳴り声をあげる。

「写真って何ですか」ママさんが問いただす。

「仲が良くなれば少し羽目を外した写真ぐらい撮ることもあるだろう」

「どんな写真か、見せてください」

「わたしも見ていない、家内が処理した」

「処理?」

 クソ野郎にはお似合いのいい表現だな。

「子供には不適切だから全部削除した。もうない」

 こいつらはクズだ。一ミリでもカウンセラーに温情を掛けたオレはバカだった。

「それでも、その子のスマホとパソコンを見せてください」ママさんが食い下がった。

「もうデータはないんだ」

「見せてください!」ママさんがテーブルを叩いて立ち上がった。

 ママさんはヤツのスマホを掴み取って、オバサンと一緒にヤツの部屋にパソコンを見に出て行った。

「そんな写真が何枚かあっても、仲が良かったぐらいしか分からないだろうに」

 親父がバカにしたような口ぶりで腕を組む。隣のバカ息子は親父に任せていれば安心という表情だ。治療中に作戦を立てて、母親と一緒に実行したってわけだ。

 ママさんは、あっけなく帰ってきた。

 やはり、写真はなくなっていたのか。

 あとから入ってきた母親は泣いている。己の行いを恥じる心はわずかでも残っていたのか?

 席に着くと、ママさんはテーブルの上にUSBメモリーを置いた。

「パソコンとスマホのデータは復元しました。画像はバックアップを取らせてもらってます」すごい、さすがママさんだ。

「全てのファイルはクラウドに残っていたデータも含めてこちらでパスワードロックしましたので」

 親父の顔色が変わった。

「合意があったとは思えないような悪質なものが何百枚もありました」

「無理やりという証拠はないだろう。だいいち、その子は和希にバレンタインのチョコレートを渡して付き合ってくれといったそうじゃないか」

「文香は高森くんに渡すために一生懸命手造りしてたんです。ほかの子に渡すはずがありません」

「子供のすることだ、すぐに考えを変えることもある。その子だって和希のことを好きだと言っていた別の子がいなくなってチャンスだと思ったんじゃないのか」

 久坂の野郎、親父にいろいろと入れ知恵したようだ。

「母さん、警察に電話してくれ。このオッサンが言うにはオレがフッカを寝取られた腹いせに久坂を刺したらしい。自首するよ」

「分かった。警察には一緒に行ってあげるわ」

「まあ待ちなさい。子供には将来もある。条件次第では穏便に済ませてもいいんだ」

「条件?」穏便に済ませたいのはアンタの方じゃないのか。

「ああ、君がきちんと和希に謝罪すること。それと、家族そろってこの霧生の街から出ていくこと」バカな父親だ。ハッタリでマウントを取ろうとする。

「なあ、久坂、おまえ、それでいいのか?」

「ああ、いいよ、謝ってくれれば僕だっていつまでもグジグジ言わない」心臓刺されてんのによく言うぜ。

「違うよ。お前は文香を脅していないし、無理やりしていた訳でもないってことでいいのか?」

「そうさ、白井さんの方が積極的だったんだ。僕も誘われるままでやり過ぎだったとは思ってるよ」

 フッカは、しきりに首を横に振っているだけだ。こんな時に自分の意見を言える性格じゃない。

 なあ久坂、オマエがしでかしたことは、お互いが子供で、初潮を迎えていないとか精通がまだだとか、そんなのは少しも関係ないじゃないか。

「ということだから、君もきちんと謝りなさい。警察に行っても君の将来が壊れるだけだ」

「母さん、ごめん。やっぱり警察に行こう」

「そうね。あなたはそうすべきね」

「そんなことをすれば、その女の子だって世間の目に晒されるんだ!」フッカを人質に取るつもりか?

 オレはポケットからフッカの言ってた〝デジカメ〟を取り出した。

「こいつは、文香の部屋にあったボイスレコーダーだ。古いけど親父が仕事で使ってた性能だけは文句なしのヤツだ。文香が律義にACアダプターを抜かなかったおかげで、1月7日の昼から2月10日の早朝までのおよそ八百時間、文香の部屋のすべての音が一つのファイルに記録されてる」はずだ。オレも聞いたことはない。こんなことならチェックしておけばよかった。

 レコーダーの再生ボタンを押してボリュームを上げた。

『えー、きょうはフッカとのおしゃべりを録音しようと思ったんですけど、眠っています。寝顔が可愛いですねぇ。オーロラ姫みたいです……。お目覚めのキスは、まだちょっと早いかなあ……』ボタンを操作して早送りする。キューっという連続音になった。音が変わったところで指を離す。

『…………の写真、みんなに見せていいのかよ! やめて、やめてって! だったらおとなしく………………』吐き気を催すような言葉の数々が次々と部屋に響いた。

 ビンゴだ! 我ながら引きが強い。できるなら聞きたくはなかったが。

 ママさんが顔を背け、フッカを抱きしめた。


「フッカ、帰ろうか?」イスの上で身を小さくするフッカに声を掛けた。

「うん」少し声が震えている。

「オレとフッカは帰るよ。あとは大人で決めてくれ。気に入らない結果なら自分で警察に行く」

「あ、あとで送っていくわよ」

「やっぱ、ここはフッカにはキツイよ」母さんの言葉を制して席を立った。

「それに子供のことは保護者がきちんと話し合うのが責任ってもんだろ。立派なカウンセラーもそこにいるんだし」嫌味という訳ではない。泣いていたヨシコ先生をもう一度だけ信用したい。

 ナイフとボイスレコーダーとそれからママさんのUSBメモリーをポケットに押し込んだ。証拠はオレが持っておくつもりだ。ママさんもオレに頷いた。

 それから、オレたちは部屋を出て玄関に向かった。

 母さんとママさんの見送りは断ったが、ヨシコ先生は戸締りもあるのでついてきた。リビングのガラスにあれだけでかい穴が空いているのに戸締りも何もあったもんじゃないだろうけど。

「あの、二人とも、ごめんさない」

「いいよ、後のこと、しっかり考えてください」

 子供のためのクリニックを創る夢はぜひ叶えて欲しい。その子供の中にあんたの子もフッカもオレも、みんないなきゃいけない。

 ヨシコ先生はもう少しなにか話したそうにしていたけど、フッカが早く帰りたいそぶりを見せたので家を離れた。やはり、この家には長く関わりたくないのだろう。

「さあ、フッカ、帰ろうぜ」

 道路に出ると、フッカがいきなり腕を絡めてきた。

「けーくん……」

 フッカが甘えるような声でこちらに顔を向ける。

 そうか、ホッとしたんだろう。ここでハグか、キスか。

 ちらっと後ろを見ると、もうヨシコ先生は家の中に入ったみたいだ。

 フッカにそっと顔を寄せた。

「ねえ、オシッコ……」

「はあ?」

「もう、限界。どうしよう」

 それで早く帰りたかったのか!?

「久坂ん家で行っときゃよかったんだよ」

「あの雰囲気で行けるわけないでしょう! アンタはアホウですか?」側頭部を人指し指で突っついてみせる。

 コイツ、かなり限界来てるな。

「家まで持つ?」45分。

「ムリ」

「コンビニ」18分。

「ムリ」

「城山公園」11分。

「ムーリ!」

「どんだけ持ちそう?」

「いま……、ちょっと、出た……」

「もう! そこの畦の下!」裏道は周りは田んぼか畑ばかりだ。

「もふ、歩けられない」

 フッカの足が止まって、オレの肩に両手を乗っけて、内股で腰だけ左右に揺すってる。

「もう、行くよ」

 フッカを横抱きにして、かかえたまま、近くの畦の下に駆け降りた。道から1メートルも下りていないけど、人通りもないし、しゃがめば大丈夫だ。

 隅っこにフッカを下ろして、ズボンを脱ぐのを手伝った。憧れの白い肌をこんな形で目にするなんてまったく思いもしなかった。

 フッカは大慌てでしゃがんで水音を立て始めた。

「上、見張ってて!」

 一応、女の子ということに敬意を表して下を見ることなく見張り役を務めた。いったい、なんなんだよコイツはぁ。

「ああ、だめえ」

「どうした?」

「靴が濡れる」

「もう、それぐらい気にすんな」

「けーくんの靴だよ」

「えーっ」

 下を向くと、右の靴の周りが水たまりになって、さらに水かさが増えていってる。

「もう、いいよ」空を見上げて溜息をついた。

 靴に浸み込む感覚は冬に似つかわしくない生温かなものだった。


『オレの一番大事な人は 冬の田んぼの畦道で お尻出してる女の子』こりゃ、短歌じゃなくて都々逸? かな?


「けーくん!」

 手を引っ張られて下を向いた。

「何?」

 しゃがんだままだ。終わったらさっさとパンツぐらい穿けよ。

「ティッシュない?」

 なんだよ、まったく、世話の焼ける!

 ポケットからハンカチを引き抜いた。

「ほら、これ使えよ」

 これからは、またフッカのためにこんなふうにハンカチを使うことになるんだな。

 フッカが「あんがと」とハンカチを手に取った。このハンカチはプレミアもんだな、使用後は絶対に洗わないぞ。

「あれ、なんか落ちたよ」

「ん、なに?」足元を見ると湯気の上がりそうな水溜まりの中になにか四角いものが…………。

「あ、カード!」

 しまった。じゃあいまフッカが柔らか素肌を拭いているのは、ウサギのハンカチか!?

「えーっ、カードってアレェ!?」

フッカの悲鳴のような叫びに慌ててしゃがんで摘み上げたけど、これはもう悲惨な状態だ。

「もう、このカード、また作り直すよ」

 持ってる指先さえもできたてホットなアップルサイダーで悲惨だ。

「ダメだよ、それ大事な最後の一枚なんだから!」フッカが下から睨んでくる。

 立ち上がって手にしてた『わたしのワンピース』で水気を切るようにオレが摘んでたカードを大事そうに挟み取って胸に抱いた。

 そのハンカチの方も間違いなく大事な一枚なんだけど。

「そんなのでいいのかよ」グッショグショだぜ。

「いいわけないでしょ! ホント、肝心なときにアホウなんだから!」

 この状況で「ドジ」「マヌケ」「役立たず」と矢継ぎ早にこっぴどく責め立てられて、オレは仕方なくペコペコ頭を下げながらフッカの膝に止まったままになってるズボンその他の着衣を整える手伝いを精一杯させて頂いた。

「フッカ、オレこれからも絶対にオマエを守ってやるからな!」もう、半ばヤケ気味に宣言する。

「はいはい」フッカはようやく笑ってオレのきょうの活躍に、ご褒美のような温かいキスをくれた。

 でも靴が冷たくなってきて、思い出したように右足首がズキズキ疼き出して、ホントにさっぱり決まらなかった。



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