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真っ白な世界で

 フッカは朝飯の時間になっても起きることはなかった。熱は下がったようだが、まだ体が回復しないのか。

 しばらくして部屋の電話が鳴った。

『おはようございます。高森様、お食事の準備ができております』

 朝食会場からのようだ。

「すみません、いま起きたところで。少しお遅くなりそうなんですけど」

『承知致しました。会場にお出でになられましたら係の者にお声掛けください』

 受話器を置いてため息をついた。

「電話?」

 フッカの声に振り向く。布団から覗くフッカの顔があった。

「ああ、起こしちゃった?」

「ううん、なんだったの」

「ああ、朝飯の時間だって」

「もうそんな時間か……」

「どうする?」

「なんか、食べる気しないな。お兄ちゃん、行ってきていいよ」

 そういわれて一人で食べる気にもなれない。

「ああ、いいよ気にしないで、もう少し寝てなよ」

「ごめんね、お兄ちゃん」

 昨日から何度目の『ごめんね』だろう。

 気晴らしにと、テレビをつけてみた。七時過ぎで朝の情報番組をやっている。

 地元の話題だ。

『……年ぶりに氷上ワカサギ釣りが解禁になり、多くの釣り人で賑わっています……』

 このあたりの風物詩の氷上ワカサギ釣りの映像が映し出されている。真っ白な氷の平原に穴をあけて釣り糸を垂らすおじさんの映像とインタビュー。風があるのか、時折氷上に積もった雪が舞い上がりカメラの視界を白くしている。

 これは、寒そうだ。あんな中で一日座って釣りをする人間の気が知れない。

「お兄ちゃん、あれ、どこ?」

「ああ、榛名湖だよ。温暖化のせいか長いこと氷が張らなくて今年は7年ぶりらしい」

「行きたい、あそこに行きたい」

 フッカがテレビに顔を向けたまま、布団から体を起こした。

「えっ!?」

 オレが驚いたのはフッカがワカサギ釣りに関心を持ったからじゃない。布団の上に正座したフッカが何にも身に着けてないからだ。

 オレの驚きを他所にフッカは画面を見つめながら布団の脇に置いてあった浴衣に手を伸ばしてそれを羽織った。

「ねえ、榛名湖って行ける?」

 袖を通しただけの浴衣姿でテレビに釘付けになりながら布団の上で足を投げ出してウサギのパンツに足を通す。

「ねえ、行ける?」

 オレはフッカのそこに釘付けでテレビどころじゃない。

「ねえ、ねえ、お兄ちゃん、榛名湖って行ける?」

 重ねて聞かれて我に返った。

「えっと、パンフレットにも載ってたし、割と近いよ」

 フッカが立ち上がった。まるでガウンを羽織ったプロセスラーみたいな格好だ。

「ほら、お兄ちゃんも着替えて! 早く行こ!」

 お兄ちゃんもって、フッカだってその恰好じゃ行けやしないよ。

「焦んなくて大丈夫だって! ちゃんと連れてってやるよ!」

 傍に落ちてた帯を渡したけど、テレビを向いたまま腰に巻き付けただけだった。


 ①着替える。

 ②顔を洗う。

 ③朝食をとる。

 ④歯磨きをする。

 ⑤帰りの支度をする。

 ⑥チェックアウト。


 落ち着かないフッカにパンフレットの余白に旅館を出るまでの流れを箇条書きに書いて説明する。

「わかった」

 とはいうものの、ふらつくフッカの着替えは手伝わなくてはならなかった。


「メシ、大丈夫か?」

「食べる」

 食事会場に向かうフッカの手を引きつつ支えた。

 係の人に遅れたことをお詫びして席に着いた。黙々と食べ進めるフッカは何かに憑りつかれたようだ。

「無理すんなよ」

 言っても口に入れ過ぎて頷くしか返事ができない。

「落ち着いて食べろよ」

 いったいどうしたっていうんだ。

 そんなに榛名湖に行きたいのか。榛名湖に何があるっていうんだ。人一倍寒いのが苦手な癖に氷の張った湖なんて。

 フッカは聞いても答えてくれなかった。

「お兄ちゃん、もう食べないの?」

「ああ、食うよ食うよ」

 フッカが早すぎるんだ。学校の給食じゃないんだ。食べ終わって校庭の場所取りでもしようってわけじゃないだろう。

 朝食のスタートの遅れを通り戻すようなスピードでオレたちは食事を済ませた。

 部屋に戻るとフッカは布団にへたり込んだ。きっと食べ疲れだ。

 フッカに風邪薬と途中で買ったポカリを渡す。

「先、歯磨きしてくるから、ちょっと休んでろよ」

「うん、荷物片付けとくよ」

 疲れてても少しでも早く行きたいのか。

 洗面で歯磨きをして、ついでに隣の脱衣場に干していたタオルを取り込む。

 戻るとフッカは布団の上で眠っていた。

 薬は飲んだ様子で、上から羽織を掛けてやる。ペットボトルも空になっていた。

 まあ、まだチェックアウトまで時間はある。

 少し苦しそうな寝顔に額に手をやると微熱を感じる。また冷感シートを貼ってやると、薄く目を開けたが起きることはなかった。

 このまま、出掛けることは出来るのだろうか。今のうちにチェックアウトの後で休めるところを探しておこう。旅館のロビーもあるけど、落ち着いて休めない。

 散らかったパンフレットを纏めながら昨日行った黄金の湯館の休憩室は使えないだろうかと考えた。

 入湯料を払っても、休めるんだったらいい。そこで休んで、回復したら榛名湖へ行こう。

 後は、分からない。

 荷物を整理して、フッカのそばに戻った。

 羽織の上から体を撫でる。フッカの小ささが不安を大きくさせる。

 もう最終日だ。

 旅館やじいちゃんにオレたちの関係がバレたって構やしない。西浦さんならきっと助けてくれるだろうし、最悪、迎えを頼む方法だって残されているんだ。

 考えているうちに、部屋の電話が鳴った。


 フロントからのチェックアウトを知らせる案内に、フッカは目を覚ました。

 オレたちは子供だ。

 誰かに助けを求めることもできたのだろうが、オレたちは藻掻くように部屋を出てフロントに急いだ。

 ぐにゃぐにゃだったフッカはチェックアウトのときにはしゃんとしてて、女将さんと西浦さんにお世話になったお礼をオレなんかじゃできないぐらいしっかりと言葉にして、本当に奥さんって感じになっていた。

 それでオレはフッカが実はもうすっかり大丈夫なんじゃないかと思った。

 でも、旅館の前で女将さん始め中居さんたちの盛大な出立の見送りをされて、それが見えなくなると立ち止まってオレに体を預けてきた。まるで電池が切れたオモチャのようだ。

 雲が厚く垂れ込めている。

 空気が冷たい。

「ちょっと休もうか」

 フッカの肩を抱き寄せて耳元に語り掛ける。

 すぐにでも榛名湖に行きたいと言うかと思ったが、フッカは項垂れるように力なく頷いた。

 黄金の湯館まで体を引き摺るように辿り着くと、休憩室のソファーに倒れ込んだ。息の荒くなったフッカに冷感シートを貼ってやる。

「ありがと……」

 言い終わると、力尽きたように眠ってしまった。コートを脱いで上から掛けてやる。フッカの隣に座って背もたれに体を預けた。


「お兄ちゃん」

 フッカの声に目を開けて隣を見るとこちらを見つめていた。

「ああ」寝てしまってたようだ。

「もうすぐ一時だよ」

「えっ」ソファから体を起こして周りを見た。

 ガラガラだった休憩室が結構混雑してきている。壁の時計は12時45分を示していた。

「体の具合はどうだ?」

「うん、随分楽になった」

 落ち着いた表情だが、まだ力ない。

「ねえ、もう行こう、このまま休んでても仕方ないよ」

 フッカはどうあっても榛名湖に行きたいらしい。

「わかった、フロントでバスの時間を聞いてくるよ」


 バスの出る時間は十分後だった。オレたちは急いでバス停に向かった。これを逃すと一時間以上バスがない。

 二分ほど遅れてやってきたバスで、空いた席にフッカを座らせて隣に立った。

 座ると座席に溶け込むように身を沈めて目を閉じる。次のバス停までの間に、またうとうとと寝息を立てはじめていた。

 バスに飛び乗ったのはいいが、フッカに言われるままに動いて良かったんだろうか。

 窓の外に雪が流れ始めた。

 榛名湖までは三十分ほどだ。

 オレたちはいったいどこに向かっているんだろう。榛名湖を知らせるアナウンスが車内に流れて、オレはフッカの肩を揺らした。

 降り続く雪の中、降りたバス停の前には真っ白な湖面が広がっていた。


 三連休の最終日ということもあって、氷上はワカサギ釣りで賑わっている。近くでは氷上ゴーカートが派手な音を鳴らしている。

 雪は降り続いているけど、それほど酷くはない。湖面に降りると降った雪のおかげで滑る心配はなさそうだ。

 フッカが先に歩き始める。

 追いかけたが、すぐに足先が痛くなってきた。オレたちは冬服ではあるが、冬山装備ではない。

湖の中央に向かって少し歩くと釣り客もまばらになってくる。おそらく、よく釣れるポイントがあるんだろう。

「フッカ、大丈夫か」

 頭と肩に積もった雪を手のひらで払ってやる。ほんの数分で真っ白になるほど、降りが強まってきた。

「どっか店で休んだ方が良くないか?」

「あっちに行ってみよう」オレの問いかけに答えず、足を速めた。

 ボストンバッグが結構な荷物だ。担ぎ直してるうちにフッカが数歩先に進んだ。降りがきつくなってきて、フッカがコートのフードを被った。

白いコートに黒い頭が隠されて雪の中で見えにくくなる。肩に掛けたバッグのオレンジ色だけが目印だ。

 振り返ると湖岸のワカサギ釣りが煙って見えなくなってきている。ゴーカートの音がしなくなったのはこの降りで中止になったからだろうか。どこかで何か放送が流れているが、よく聞き取れない。

「フッカ、結構降ってきたから気を付けて……」

 フッカの方に向き直ると、吹雪くような雪にフッカの姿が見えなくなっていた。周りを見回しても真っ白な雪ばかりだ。

 直系1kmばかりの湖の上なのに、遭難してしまったような気分になる。迷っても30分も歩けば向こう岸に着くんだ。

 だけど、フッカはオレが見つけたい、見つけなければならない。

 足元を見ると靴跡が残っている。

 足を速めた。

 フッカは走ってるのか?

 オレを振り切るつもりか?

 追いつけない。一人でどこに行くんだ。

「フッカ!」

 天気が良ければすぐ近くに湖岸が見えているはずなんだ。

「フッカ!」

 クソッ、息が荒くなる。心臓がドキドキする。自分がどこにいるのか分からなくなる。真っ白な世界が怖い。

「フッカ!」

 いつもはなんてことはないカバンがゴミ袋みたいに邪魔だ。

「フッカ……」

 どこ行っちまったんだ、いったい。

 息が詰まりそうだ。もう、歩きたくない……。

 足が止まった。バッグが重い。ボストンをその場に置いて、リュックを下ろした。

 このまま進むのは危険だ。天気が良くなるのを待とう。

「フッカ……」

 いや、フッカがこの雪の中で倒れてたらどうする。

 クソッ! 行くしかない。

 震える膝を拳で殴った。

 フッカはオレが守るんだ。一歩、まず一歩を踏み出した。

 何メートル進んだろう。

 突然視界に黒い影が小さく浮かんだ。多分フードを外したフッカの頭だ。

 ほっとした。少なくともあそこで立ってる。2mほどまで近づいて、ようやくこちらに背を向けて立つフッカの姿をはっきりと認めることができた。

 身体中に雪が降り積もっている。こんなところにじっと立って何してるんだ。

 駆け寄って、背中から抱きしめた。

「フッカ」

 ようやく捕まえた。雪の積もった肩口から顔を覗き込む。

 フッカもこちらに顔を向けた。眉や睫毛に雪がくっついているのに、穏やかな微笑みだ。

 頬に張り付いた雪を指先で小さくトントントンと払ってやる。

 フッカの瞳が『待っていたよ』と、そう言っている。

 唇がオレを呼んでいるみたいに微かに動いて、フッカが瞼を閉じた。



 真っ白な世界の中でオレたちはひとつになった。



 長い時間が過ぎた。

 いつの間にか雪は止んで、辺りは静寂に包まれている。

「けーくん……」

 フッカが唇を離して空を見上げた。

 オレもフッカの視線を追って顔を上げた。

「あ……」

 頭上にぽっかりと穴が開いたように青空が広がっている。

 その穴はゆっくりと広がっていく。いや、白い空間がその高度を下げていってるんだ。

 真っ白な空間に上空だけが真っ青に染まった世界。

 オレたちはいま、この世界の真ん中にいる。

 もう一度フッカを強く抱きしめた。


 風が流れて一瞬で視界が晴れた。

 オレたちは榛名湖の真ん中にいた。

 何事もなかったかのように湖岸には釣り師たちが並び、子供たちの遊ぶ声が聞こえてくる。

「フッカ、帰ろう。これからもずっとオレが守るから」

 フッカがゆっくりと頷く。

「ありがとう、けーくん」

「さっきからなんだよ、けーくんって」

「だって、もうお兄ちゃんじゃないよ。こんなことになっちゃったんだから、ちゃんと責任取ってね」

「そっか……、そうだな」

 思わず顔がにやけてフッカに嫌な顔をされてしまった。

 雪に埋もれたオレたちのバッグを探すのにずいぶんと苦労してフッカにこっぴどく叱られた。



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