ウサギのパンツ
「ねえ、お兄ちゃん。いつもは外で遊んでたら帰りたくなくなるのに、いまはこんなに早く部屋に戻りたくなるのって不思議だね」
やけに大人っぽい口調でフッカが窓の外を眺める。
「そうだな。オレはフッカが家にいるならいつだって早く帰りたくなるだろうけどな」
背中から寄り添って抱き締める。胸にフッカの背中が熱い。
「ずっと、一緒だよね」
前に回した手にフッカの細い肋骨を感じる。少し手をずらせば柔らかな膨らみに触れることができそうだ。が、いまは焦らない。
ここがチャンスだ。
左手をフッカの左手に重ね体の前に上げて、右手でポケットの中に仕舞っていたものを摘み出す。そのままそれをフッカの左の薬指に嵌めた。
「ずっと一緒にいよう」
「えっ!?」
フッカがそれを顔の前にかざした。
「指輪?」
窓の外からの傾いた陽に指輪に嵌め込まれた赤い石がキラキラと輝く。
「誕生石って、ルビーだろ」
「うん、でもどうしたの、これ?」
「きょう雑貨屋で……、もちろん本物じゃないけど、そんなヤツでごめん」石段街の店であらかじめ目を付けていたヤツを、フッカが石段の湯に浸かってる間に買いに走ったんだった。見るからにおもちゃだ。でも、いまはそれが精一杯だった。
「ううん……、可愛い」
フッカが嬉しそうに指輪を光にかざしながらこちら身体を向ける。
オレはフッカの両肩に手を置いた。
「結婚しよう、フッカ。オレ、絶対オマエのこと幸せにするから」
「お兄ちゃん……」
フッカの瞳が潤んだように見える。
さあ、フッカが目を閉じれば、いよいよ誓いの口付けだ。
「……そうだ! ちょっとまって」
オレの手をすり抜けて、フッカがバッグを仕舞った戸棚に駆ける。中のボストンから封筒を引っ張り出して、こちらに戻ってきた。
「お兄ちゃん、これ」
目の前で封筒から一枚の紙を取り出して、弾けそうな笑顔でそれを広げて見せた。
「えっ、婚姻届?」霧生市のマスコットキャラクターの霧丸が描かれたオリジナル婚姻届出用紙だ。
「うん、前に貰ったのがあったの。書こ」
「そだな」
誓いの口付けはまだないようだが、きちんと記録として残すことは有意義なことだ。これをどうやって手に入れたのか知らないけど、ともかく婚姻届をテーブルに広げてフッカと並んだ。サインをするときはさすがに緊張する。並んで書かれたフッカの文字がいつもより愛らしく見える。新しい本籍地はこの旅館にした。
二人のハンコを押して、保証人は空欄になったが婚姻届が完成した。
一枚の書類を書くことでこんなに幸せな気持ちに包まれるんだ。
「お兄ちゃんが18歳になったら、一緒に出しに行こうね」
「でも、女の子も18歳にならないと結婚出来ないようになったんだよ」確か、何年か前だったかにそう決まったと聞いたことがある。
「えーっ、ウソ、そんなに待てないよ」
大げさな仕草でガックリと崩れるようにもたれかかってくる。どうやらフッカの頭の中では〝女の子は16歳で結婚〟という古い情報がアップデートされないままだったようだ。
腕を回して体を支えてやると、自然な感じで手のひらがフッカの左胸に重なった。
「オレたち、もう結婚したんだから、心はいつも一緒だよ」
手のひらが包み込んでいる柔らかな曲面からフッカの心臓の鼓動が伝わってくる。
フッカの頬が紅に染る。
「体も一緒がいいなあ……」
フッカの吐息が甘い。
子宝饅頭の黒糖の香りだ。
「体だってずっと一緒さ。夫婦なんだから」
「ホント?」
違うぞ、違う。
フッカの言ってる『体』はオレの思ってる『体』とは違うぞ。
でも、もう止められない思いがここにある。
「ホントだよ」
このままフッカの体を引いて倒すか、押して倒すか――。
「よかった!」
フッカが勢いよく立ち上がったせいで、オレの方が後ろにひっくり返ってしまう。
「でも、トイレは別々にしとこうね」
そう言って小走りに洗面に向かう小さな背中を見送る。
別にトイレも一緒でもいいんだけど。
左手のモヤモヤした感じがなんともいえず、顔に押し当ててフッカの匂いにひとりニヤついた。
「あっ!」誓いの口付けの後で渡そうと思ってた記念のカードをポケットに忍ばせといたんだった。
さっき書いた婚姻届の隣に黄色いカードをそっと置いてみた。さり気なさ感があるか?
トイレから戻ってきたフッカは直ぐにカードを見つけて、ひょいとつまみ上げると「あ、ありがと」とサラリとひとこと言ってくれた。
おーい、そろそろ誓いませんか?
婚姻届を書き上げたせいか、指輪の効果なのか、多少はカードの効果もあったのか、フッカの密着度が上がった。
夕食でも中居さん達に「お兄ちゃんに買って貰った」と左手の薬指を芸能人の婚約発表みたいに見せびらかすのがくすぐったい。
食事中も時折うっとりとした目で、指輪を撫でるフッカの頬は上気したみたいで色っぽくもある。
「もう、胸がいっぱいで食べられない」
きょうは自分の料理を平らげると、オレの分まで手を伸ばすことはなかった。
部屋に戻ると、食事の間に布団が敷かれている。
「今夜はどっちがいい?」
きのうと同じ質問に、ふたつ並んだ布団にさっきまで腕を組んで寄り添って歩いていたフッカの温もりを思い浮かべる。
『一緒がいい』とも言えずに「じゃあ、こっち」ときのうと同じ手前の布団を指した。
すると、フッカが自分の布団にあった枕をオレの布団の枕と並べて置いた。
顔を上げて、立てた人差し指を口に当ててオレにはにかんだ笑顔を向ける。
「内緒だよ」
その言葉の意味を頭の中で探しても、オレの都合に合わせた解釈しか浮かんでこない。
仕方なくオレは、さも『わかったよ』という顔で頷いてみせるしかなかった。
フッカがふわっと立ち上がって、オレの手を取った。
「ね、お風呂、入ろ」触れる手が熱い。
オレは、フッカを好きでいることが出来るのだろうか。
自分のイタズラな妄想が現実味を帯びてくることの不安に、フッカの手を強く握りしめた。
お風呂、というのはつまり、この部屋の露天風呂だ。手前の脱衣場は造り付けの棚に脱衣用のかごが並べられているが、横には品のいい洗面化粧台があって落ち着いた雰囲気の和風のパウダールームといった感じになっている。
かごを選んでフッカと隣合って脱ぎ始めたが、帯を解く仕草にドキドキして見ていられない。自然とお互いに背を向ける格好になっていった。
浴衣をカゴに放り込むときに、視界の端に彼女の手が見えた。
フッカもいま、下着姿に違いない。
先程までおしゃべりをしていたのに、今の無言が重い。
背中にフッカの気配を意識しながらシャツを脱ぐ。視界の端にちらちらと覗くフッカの動きにシンクロするみたいに靴下を脱いだ。
ああ、あとは一枚だけだ。
腰のゴムに指を掛けて下ろそうとして前が引っ掛かった。気持ちが盛り上がりすぎだ。
最後の一枚をカゴに入れて、一つ息を吐いた。
でも、この状態をフッカに見せていいのだろうか。棚のタオルを取って前にあてがってみたが、不自然なような気がする。
風呂で裸は当たり前じゃないか。
フッカだって見せるんだ。
それに、隠してもすぐに見せ合うようになる。ひょっとしたら、中で〝洗いっこ〟とか、なんかそんなこともするかもしれないし。
これが今のオレの気持ちの表れならフッカにも見られたっていいじゃないか。
自然に、自然にだ。
半ば期待も込めてゆっくりと振り向くと、フッカがいない。
「フッカ!?」
足元の床に倒れていたフッカの体は焼けるように熱かった。
「お兄ちゃん……」
「おっ、フッカ、目が覚めたか?」布団の中でフッカがぼんやりと目を開いた。
「ごめんね……」
「しんどくないか?」
「うん」
フッカが額に貼られた冷感シートに手をやる。
「お兄ちゃん、なんでも持ってるんだね」
「な、なんだって役に立つことがあるだろ」
フッカが苦笑いをする。
「薬、飲んどくか?」
救急セットにはバファリンも入っている。
「うん、その前にトイレ行きたい」
「ああ」
起き上がろうとしたフッカの胸が覗く。裸なのを忘れていた。
「浴衣、羽織るか?」
頷くフッカに浴衣を渡す。ぼんやりとした顔で起き上がると浴衣に袖を通した。
何も着けない上半身の姿をいけないと思いながらも盗み見てしまう。去年の夏の写真よりも綺麗に見えるのは肌を紅く染める熱のせいだけではないだろう。
よろよろと立ち上がって浴衣の前を合わせた。
オレも立って体を支えてやる。
フッカは浴衣の胸元を手で押さえると、そのまま帯も締めずにトイレに入っていった。
トイレの間に急いで薬と水を用意する。
ふらつきながら戻ってきたフッカは布団にペタンとへたりこんで、オレから薬と水の入ったコップを受け取ると、喉が渇いていたのか、それを一気に飲み干した。浴衣の前合わせが支えを失ってだらりと広がる。
オレはこんなときに何を見ているんだろう。
「寝てろよ、シート貼り替えてやるから」
「うん、ごめんね」
「いいって……」
フッカが布団に潜り込んでいる間に救急セットから冷感シートを取り出す。
乾き始めたシートを剥がして、額を撫でると、シートのおかげか少しひんやりとしている。額に張り付いた前髪を払って、新しいシートをそこに貼った。
「気持ちいい」
フッカの目が細くなった。
「薬も飲んだし、明日になったら熱も下がってるよ」
「うん」
フッカが目を閉じる。
静かだ。
時刻はまだ八時を回ったところだ。
フッカの寝顔を見ているのもいいが、そばにいると身体に触れたいという衝動を抑えられなくなりそうだ。
明日の予定でも考えておこうか。
そう考えて、明日もフッカの体調がよくならなければどうすればいいのだろうという不安が頭に浮かんだ。この寒空に病気のフッカを連れて回ることなんてできない。明日は天気が良ければグリーン牧場にでも行ってみようかと思っていたが。
フッカが集めたパンフレットが窓際のテーブルに纏めておいてある。
それでも見て時間をつぶすか。
窓際に席を移して、深く腰を落とす。心地よかったクッションの利いたソファーが、いまは体全体が気持ちと一緒に埋もれてしまいそうに思えてくる。
テーブルのパンフレットに手を伸ばした。
フッカと笑いながら計画を練った宝の地図が、なんの面白みもない案内図にしか見えない。
〝お薬〟でも飲めば意識を失ってぐっすり寝られるかもしれないが。
そうか、フッカもお薬を飲めば元気が出るかもしれない。大浴場の前にビールの自販機があって、そこに例のお薬のソーダ割りのがあったはずだ。ああいうのって、年齢確認とかってあるんだろうか。
ちょっと覗いてみるか。
フッカはよく眠っている様子で、オレは残額の少ない財布を握って部屋を出た。
大浴場は時間帯のせいか人の出入りがあった。オレは人待ち風の感じで長椅子に腰かけて人がいなくなるのを少し待った。
さりげなく、隅に置かれた自販機に目をやる。ジュースの自販機に並んで酒のものがある。ビールやチューハイに並んで〝お薬〟があった。
アイツならこれ一缶ぐらい軽いだろう。
人の流れが途切れたのを見計らって、オレは自販機の前に立った。
でも、本当に飲ませて大丈夫か? いくら百薬の長とか言っても、フッカはまだ四年生だ。熱があるならスポーツドリンクとかの方がいいんじゃないか?
「お酒はいけませんよ」
背中の声に振り向いた。
「あ、西浦さん」
オレは、ゆっくりと近付いて来た彼女とお酒の自販機の間に挟まれてしまった。
「ちょっと、見てただけです」
慌てて投入口に入れ掛けてた三枚の百円玉を掌に隠すがきっとバレバレだ。
西浦さんはクスッと笑うとちらっと浴場の暖簾に目をやった。
「文香ちゃんをお待ちですか?」
そうか、出てくるのを待ってると思われてるのか。
「いえ、フッカが……、文香が喉が渇いてるみたいなんで、ちょっとジュースでもって思って買いに来たんですけど」
「そうですか。湯疲れもありますから、水分はしっかり摂ってくださいね」
「湯疲れ?」
「はい、湯疲れというのは……」西浦さんは一旦言葉を切ってオレの顔を見た。
「お風呂に入りすぎて熱中症みたいになることですよ。体に熱がこもって脱水症状になるんです」
「へえ、そうなんだ」つとめて平静に答えたが、フッカはそれだ!
「風呂入りすぎるのも良くないんですね」フッカは饅頭を食っても水分は途中ラムネ一本を二人で半分こしたのと、お昼に鬼川うどんを食ったときのお茶ぐらいだった。
西浦さんはにっこり微笑んで「何かありましたら仰ってくださいね」と頭を下げて本館の方に歩いていった。
その背中を見送ってから自販機に向かい、硬貨を投入して、ポカリスウェットの緑のランプを押す。取り出し口に落ちた冷たいペットボトルを掴み上げた。
よし、とりあえず、コイツを飲ませてやろう。
オレは別館までの渡り廊下を叱られそうにない程度で小走りに急いだ。
部屋に戻るとフッカを起こさないようにそっと扉を開いたのだが、奥からすすり泣くような声が聞こえてきた。慌ててスリッパを脱ごうとして上がり框に躓きかけた。
「どうした。どっか痛いのか?」
布団に駆け寄ると、フッカが中に潜り込んでいる。
「フッカ……」
頭がありそうな位置を布団の上から撫でた。
「……ごめんね、ごめんね……」
フッカは体調が悪くなったのを自分のせいだと感じてるんだ。
「なんだよ、ごめんって」
頭の辺りをぽんと叩く。
「せっかく……、せっかく、初めての夜だって、思ったのに……、もう、お兄ちゃんに嫌われる……」
鼻を啜りながら途切れ途切れに言うと声を上げて泣き出してしまった。
「そんなことないって、可愛いお嫁さんを嫌いになったりしないよ」
布団をさすりながらフッカが落ち着くまで待たなければならない。
けど『初めての夜』ってなんだ?
結婚して初めての夜。初夜!?
こんなときでも頭に浮かぶのは不純な妄想だ。二回深呼吸をした。
「ほら、喉、乾いてないか、ポカリ買ってきたけど」
「後で飲む。どこにも行かないで」
「なんだ、寂しかったのか?」
返事の代わりに鼻を啜る。
「どこにも行かないよ」
布団ごとフッカを包み込むように強く抱き締めた。
この小さな体が愛おしい。
「お兄、ちゃん……、苦しい」
「ああ、ごめん」
慌てて体を起こすとフッカが布団から顔を出してプールで息継ぎをするみたいに大きく息をした。危うく殺人事件を起こすところだったが、おかげで泣き止んだようだ。
「いまそこで西浦さんに会ったんだ。湯疲れってあるらしいんだ」
「湯疲れ?」
「うん、風呂入りすぎたら熱中症みたいになるんだって、フッカもそうかもしれないよ」湯疲れならそんなに重い病気じゃない。安静にして寝てりゃあ直ぐに治るだろう。
「そう……」
「だからさ、水分補給。ポカリ飲んどけよ」
頷くフッカを抱え起こしてキャップを開けたボトルを手渡した。
ボトルに口を付けてゆっくりと喉を鳴らすフッカは結局ボトルが空になるまで息を付かなかった。
「ふうっ」と息を吐いて、空ボトルをオレに渡すと、フッカはまた布団に横になった。掛け布団をかけて頭を撫でてやる。額の冷感シートはまだ冷たさを保ってるようだ。
水分を摂って落ち着いたのか、薄く開けた目も少しほっとしたみたいに見える。
「水分摂らないとオシッコ黄色くなるもんな」
オレのからかいに目元でふっと笑う。
「さっきの、アップルサイダーみたいだったよ」
色と泡立ちを思い浮かべる。脱水症状が進んでそうだ。
「なんだよそれ、美味そうじゃん」
「きっと美味しいよ……」消えるように言って目を閉じた。眠れるならこのまま眠ってしまうのがいい。明かりも消した方がいいだろう。
「オレも寝るかな」
部屋の明かりを消して、フッカの隣に潜り込む。布団の中はフッカの体温で汗ばむような暑さだ。
薬と水分補給で熱が下がることを祈るしかない。
しばらくして、フッカが布団の中でゴソゴソと動き出した。
「寝苦しいのか?」
「ん、ちょっとキツくて……」
何となくわかる。
「あんなの穿いてるから……」
「だって、お兄ちゃんとお泊まりだし」
「まだ穿けたんだな」
「覚えてた?」
「ああ、さすがにあのパンツは忘れないよ」
「てことは、見たんだ」
「いや、そんな、ちらっと目に入っただけだよ」
「ホント?」
「ああ、もっとじっくり見とけばよかったよ」
確かに気が動転してそれどころじゃなかったんだ。あのときフッカが身に着けていたのは一年前にオレがプレゼントしたウサギのパンツたった一枚。他に見るべきところはいっぱいあったはずなんだが。
「ふふ、また今度ね……」
そう言ってフッカがまどろみ始めた。オレも布団の中で浴衣と下着を取った。
寝る時はこれでいい。少なくとも下着の突っ張り感からは解放された。考えようによっては、風呂に入ってるのと変わらないじゃないか。
裸で顔だけが覗いている。
フッカの手を握った。
握り返す力は弱い。
「お兄ちゃん、ごめんね……」
目をつぶったままで寝言なのか起きてるのかわからない。
「ああ……」
曖昧な返事で眠りを促した。
これ以上起きてるのはフッカにとってもオレにとっても良くないだろう。
明日だ。
たぶん、ぜんぶ明日だ。
オレたちにはもうそれしかない。




