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湯巡り

 左腕が重い。

 右に寝返りを打とうとして、思わぬ抵抗で目が覚めた。

 動かない左側に顔を向けると、肘の上にフッカの頭が乗っていた。頭の中で、なぜ隣にフッカが寝ているのか、瞬時に記憶を辿った。

 そうか、オレたち駆け落ちしたんだ。

 家を捨て、家族を捨て、全てを擲って、僅かな荷物を抱えて未明の列車に飛び乗った。あてのない放浪の果てに辿り着いた旅の宿……。って感じだ。

 フッカの寝顔にほっとする。実に愛らしい寝息だ。たぶん、60デシベルはあるだろう。

 こんな無防備な素顔はさすがにいままでも見たことがなかった。たぶん、オレが何かをしでかしていたら、こんなに穏やかな顔でオレの隣にいてはくれなかっただろう。オレも、フッカを悲しませるようなことは絶対にしてはいけないのだ。それは間違いないだろう。だから、夕べは何もなくてよかった。ちょっと……、かなり残念だけど。

 落ち着いてじっくり観察すると、唇が5mmほど開いている。これは口呼吸というヤツに違いない。

 これが耳元で流れている可愛い、昼間の交差点レベルのイージーリスニングの一因だろう。口呼吸は無気力な表情になったり、歯並びが悪くなってブス顔の原因にもなるらしい。

 まあ、フッカがブスになって誰も声を掛けなくなったらオレが独り占めできるからいいか。いや、こんな可愛いフッカがブスになるなんて想像できようか。そもそも、女の子がこれ以上ブスになるものなのか。

 そう考えればフッカの性格が飛び切り良いなら兎も角、現状のままでもコイツに食指を伸ばすヤツなんて何処にもいないはずなのだ。何しろ、フッカのクラスには絶世の美少女沢木ほのかがいて性格も表向きは申し分ないんだ。男子なら断然そっちがいいに決まってる。

 だが、フッカの真の魅力はそんなもんじゃない。

 ……なんだろう?

 真剣に考えたこともないな。

 強いていえば、存在そのものが魅力だろう。そうでなければ、こんな音量のいびき、余程好きな子でも鼻を摘むか、口を塞ぐか、首を絞めるかしたくなるだろう。

 それが、ここにフッカがいるというだけで幸せを感じる。

 コイツの口を塞ぐなら当然オレの唇でだな。口元だけを見てると艶めかしくさえある。この、ちょっと開いた隙間に舌を差し込んでもいい。指とか、なんかそんな細長い感じのものを突っ込んでみるのも官能的だ。

 ああ、朝からダメだ。昨夜の妄想が溜まったままでこれじゃあ健康だが健全じゃない。

 壁の時計は六時少し前だ。

 少しトイレに行きたい気もするが、腕に乗ってる重みのせいで動けない。まあ、もう少しフッカの寝顔を見ておくか。

 しかし、起きたら起きたで布団から出にくいのは確かだ。何しろ一糸まとわぬ姿なのだ。

 そう考えて、フッカも同じだということを思い出した。

 いま、ちょっと布団を捲って見たらどうだろうか。少し、隙間を開ける程度だ。

 空いてる手を掛け布団のフッカの首元に伸ばした。

 フッカの目がパチッと開いた。

 オレを認めると、にっこりと微笑む。

「おはよう」

「ああ、おはよう」

 布団を捲ろうとしていた手のやり場に困ってフッカの頭を撫でる。

「お兄ちゃん」

 フッカが胸に飛び込んできた。

 小さな体が熱い。オレの体があちこち突き当たるけど、フッカが気にしないならもういい。

 オレもフッカを抱きしめ髪に頬ずりした。朝からいい感じ――ああ、いつものうさぎの匂いだ。

「ゴメンね、夕べ、寝ちゃったね……」

「やっぱ、疲れてたんだろ」

「もお、起こしてくれればよかったのにぃ」

 フッカが鼻に掛かった猫なで声で胸に顔を埋めて甘えてくる。

 コイツ、こんな女の声を出せるんだ。やばい、クラクラしてきた。

 体の一部が微妙な感じでフッカを突っついてる。これ、絶対何が当たってるかバレてるよな。

いや、フッカの方がオレを刺激してるとも言えなくもないような動きとしか思えないようなことばっかりが頭に湧いてくる。

 落ち着け、落ち着けぇ。

 同じ言葉や行動でも、10歳と12歳じゃあ意味が違うんだ。

 でも、チュウ。いくら幼いオレたちの恋でも、キスぐらいなら……。

「お兄ちゃん、お風呂入る?」

 ああ、このまま半露天の静かな温泉に二人っきりで! フッカが誘ってくださってるんだ。

 風呂場までならこのまま手に手を取って行けばいい。

 何しろ布団の中は既に裸だ。

「ああ、そうだ、な。入ろうか」

 声がかすれて震えてしまう。

 フッカはオレに回した腕を解いて、掛け布団に潜ったまま隣の自分の布団に戻って行く。体を起こして見ると布団の真ん中が盛り上がってゴソゴソと蠢いている。

「とりゃあ!」

 突然、奇声と共に掛け布団を跳ね飛ばしてフッカが立ち上がった。

 見事にはだけているが浴衣姿だ。下着を付けてなかったら大変なことになる。

 フッカを見上げて鑑賞していると、浴衣の乱れに気付いたのか、背を向け帯を解いて前合わせを直し始めた。

 こっちを向くようなサービスポーズを入れてくれることもなく、着付けが終わると「よし!」と腰の辺りをぽんと叩いてこちらに向き直った。

「ほら、お兄ちゃん、行くよ」

 そっか、朝風呂は、男女の浴室が入れ替わった大浴場に行こうって言ってたんだった。やっぱり、10歳と12歳じゃあ全然意味が違うんだね。


「やっぱり露天風呂は岩風呂がいいね」

 頷く。

「朝から温泉って贅沢だよね」

 頷く。

「お肌、すべすべになった気がする」

 風呂上がりのフッカが矢継ぎ早に話し掛ける。

 オレは朝っぱらからの長湯と眠気でぼんやりと頷くか相槌ぐらいだ。

 ああ、少しばかりの失意もあるかも。

「お兄ちゃん、大丈夫? 眠いの?」

 何しろ昨夜はモヤモヤしたまま寝付けなくて、今朝は今朝であんなことがあったんだ。

大浴場で「この檜風呂に昨日フッカが入っていたんだ」と思うと、もう、その状況が頭に浮かんできてしまって、完全に妄想疲れだ。

「朝飯って何時だったっけ?」

「八時からだよ。あと、もうすぐ」

「そっか……」

 欠伸を噛み殺そうとしたけど、無理だった。


 フッカと二人っきりの朝食は幸せだ。二人だけの時間を過ごした今があるということを実感させてくれる。

『夜明けのコーヒーを二人で飲む』というのはきっとこういう気持ちなんだ。

 目の前には大好きな女の子がいて、心地よい声で喋り続けてくれる。

 実に幸せだ。

「お兄ちゃん、どしたの?」

「えっ?」

 フッカが元気よく食べるのについ見とれてしまっていた。

「ああ、フッカがあんまり可愛いんで見とれてた」

「へへっ、可愛いでしょ?」

 フッカがにっこりと笑う。ああ、フッカがこんな反応をするなんて。

「うん、可愛い、可愛い」

「お嫁さんにしたい?」

「うん、したい、したい」

 フッカとならなんだってしたいんだ。

「じゃあ、頑張んなきゃね」

 ん、何を? …………!

「あ、ああ、ああ、うん、頑張る、頑張る!」

 そうだ、駆け落ち中にプロポーズするんだった。

「頑張るからさ、OKしてくれよな」

「えーっ、カッコよくないと嫌だなぁ」

 いたずらっぽく澄ました顔で、味噌汁にご飯をぶち込むと生卵を割り入れて口いっぱいにズルズルと掻き込んだ。家ではパパさんに叱られることでもオレとならなんだってできる。

 この子をお嫁さんにしたら、オレは間違いなく尻に敷かれるに違いない。

 もう、早くフッカのお尻の下に入りたい。


 部屋に戻るとまだ敷きっぱなしの布団に転がった。フッカも隣の布団にペタンお尻をつける。

 近辺の観光施設が開くまで、まだ一時間以上はある。お腹の朝飯がこなれるまで、部屋でじゃれあっているのもいいか。

 フッカもこちらを見ている。

「フッカ、そっち行ってもいい?」

「ん、いいよ」フッカが手招きをしてくれる。

 這うようにしてフッカの傍に寄ると、腰に腕を回して腿に顔を乗せた。

「お兄ちゃん、何!?」

「ちょっと、甘えたくなった」

 こんなことをするつもりはなかったんだけど、フッカの太腿を見ていたらこうなってしまった。頬に感じるフッカの弾力が心地いい。

 浴衣の帯がすぐ目の前に見える。

「えーっ、なんでお兄ちゃんが甘えるの!?」

 フッカの声が太腿からの骨伝導と耳からの音で和音になっている。

「いいじゃん、膝枕ぐらい」

「もう、トイレ行こうと思ってたのにぃ」

「ちょっとだけだから」

「まったくぅ、男ってホントに、赤ちゃんみたいなんだから…………」

 文句を言う割には頭を撫でてくれる。目を閉じると食べ過ぎたフッカのお腹が遠くの方でキュルキュル鳴っている。すぐそこでフッカの香りがする。

 いい、実にいい感じだ………………。

 目を開いて帯に話し掛ける。

「ああ、気持ちいいなぁ……」頭に乗っているフッカの手が優しい。

「あ、お兄ちゃん、起きた?」

 視界の端でフッカがオレを覗き込んでいる。

「もう十時前だよ」

「えっ」

 手を突いて体を起こしたら口元から涎が垂れて、慌てて袖で拭った。

「寝てた……?」

 フッカが立ち上がって洗面に向かう。

「あんまり気持ちよさそうに寝てるから起こせなかった!」

 背中で怒鳴りながらトイレに入っていった。

 そういえば、トイレ行きたいって言ってたよな。一時間もよく我慢して頭を撫でててくれたんもんだ。フッカに触れていた頬がほんのり温かい。

 十分に時間を使ってフッカがトイレから出てくると、オレに向かって浴衣の前を示す。

「これ、オシッコじゃないからね! お兄ちゃんの涎なんだからね!」

 見ると、確かに微妙な位置が派手に濡れているが、女子のおもらしならああいう濡れ方をしないことぐらい過去のフッカで知っている。

 それよりも、あの位置で涎はオシッコよりもまずい気がする。

「それぐらい、すぐ乾くよ」

 布団に胡座をかいたオレにフッカがニコニコ寄ってきて頭に手を乗せる。

 また撫ででくれるのかと期待したら、割と強めのゲンコツだった。

「なんだよ、今度は間に合って良かったじゃん」

 小学生の男子というものは、好きな女の子に対して、つい余計な一言を口にしてしまうものなのだ。

「今度は、ってぇー!?」

 きのう風呂場にタオルと一緒にパンツが干してあった。あれは上ノ山で間に合わなかったやつに間違いない。

「みぃたぁなぁー!?」ホラーだ、ホラー。

 フッカが枕で殴りかかってきたのを切っ掛けに、枕投げが始まってしまった。

 息が上がるほど二人ではしゃいだのは久しぶりに思う。

 朝風呂が無駄になるほど結構汗をかいた。


 グダグダしながらもオレたちはようやく出掛けることになった。

 まず、すぐ近くにある黄金の湯館だ。バトルの汗を流すにはちょうどいいだろう。

「フッカ、ここ、一緒に入れないけどいいのか?」

「もう、お兄ちゃん、何言ってるの! さあ、入ろう」

 どうやらもう一緒じゃなくても大丈夫のようだ。

フッカの心境の変化はこの伊香保のせいだろうか。

 まあ、一緒に入るのは今夜のことでいいか。

 ホカホカのフッカが女湯から出てくる頃にはオレはすっかり常温に戻っていた。

 今日はフッカのご希望、伊香保の湯巡りだ。

 手を繋いで石段街の下までの道をのんびりと歩く。

「お風呂、明るかったよね」

 内湯のサンルーフは気に入ったようだ。岩風呂も良かったと、温泉の話題は尽きない。

 オレはご機嫌なフッカともっとくっつきたくて繋いだ手を両手で胸に抱えた。


 黄金の湯館のすぐ近くの竹久夢二伊香保記念館は入館料が高すぎて入れない。

 子供には夢二は理解できないと思われているのだろうか。夢二を伊香保に誘った少女はオレと同じ十二歳だったというのに。

「お兄ちゃん、観たかったら入っていいんだよ」

 文学や美術なんかには興味の薄いフッカがオレに気を使ってくれる。

「いいよ、夢二の美人画見れない分、本物の美人を見とくから」フッカに顔を近づけた。

 フッカも顎を突き出すようにニヤけた顔を寄せる。

「はい、無料公開中」

 このまま肩を抱けば容易にキスができそうだ。

 このひっきりなしに通る観光客がいなければだが。

 その代わり、公開中の美人の頬っぺたを両手で挟んで揉みほぐして、柔らかな感触を楽しんだ。

 しかし、可愛い館長さんに「展示品に手を触れないように」と、お叱りを受けてしまった。


 オレたちはその日一日、伊香保温泉を満喫した。観光案内のパンフレットそのままに温泉街を寄り添い歩いた。

 特に温泉には時間をかけた。きのう浸かった足湯や入らなかった立寄り湯の石段の湯、それに伊香保露天風呂にオレが倒れそうなほどの時間をかけて、フッカは念入りに体の中に温泉の湯の潤い成分を吸収していた。


 足だけを含めて延べ二時間近く温泉に入ったおかげで芯から温まっている。

 そのオレの倍以上お湯に浸かっていたフッカはほとんど温泉玉子みたいなもんだ。どこかトロンとして、頬っぺたがつやつやしている。

 つい、構って突っついてしまうが、「やめてよ」と言いながらも、ヘラヘラと頬を差し出してくれている。

 その代わりに、今日も子宝饅頭を存分に奢らせていただいた。

 これほどまでに幸せな一日はいままでになかった。フッカといるだけで幸せなんだと感じることができた一日だった。



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