5 気づきません
翌日、宰相室に財務課課長が駆け込んできた。
「どうされましたか。」
書記官のベルナールが声をかける。ベテランの財務課課長は運動不足が祟っているのか、肩で息をしていた。腰痛持ち以外にもあのトレーニングは行うべきかもしれない。それにしても財務課がここまで取り乱す緊急事態とは何があっただろうか。現在、課が抱えている主な業務をリストアップしていく。
「アルノー、アルノーが辞表を提出しました。」
私は思わず、立ち上がっていた。何百回と彼の言葉を精査する。しかし、それが意味することは、ひとつしかない。
「どういうことだ。理由は聞いているのか。」
「分かりません。私たちも寝耳に水で。」
「今、ソフィは?」
「荷物をまとめております。」
「どうして、止めないんだ。」
気づけば私は走り出していた。鍛錬以外で走ったのはいつぶりだろうか。階段を降りると、目的の財務課があった。
「ソフィ、ソフィ・アルノー!」
入り口には、身支度が済んだソフィが部屋を出ようとしていた。
「どうしたんです、宰相様?」
「それはこっちが聞きたい。理由を説明しろ。」
「理由がお分かりでないんですか。」
「……」
「よくお考え下さい。私は自宅へと戻りますので。」
そうして、私の横をすり抜けていった。彼女の予想外の返答に、反応が遅れ、後ろを振り向いた頃には、彼女はもう手の届かない場所にいた。
しばらく、財務課の前で佇んでいると、私の大きな声を聞いたのか、様々な部署から何人もの人が廊下に出てきた。財務課課長が恐る恐る私に声をかけてくる。
「宰相様の方で、心当たりはございませんか?」
「特にない。そちらこそ、どうだ。彼女の勤務態度に変わったところは……」
「宰相様、本当に分かっていないのですか。」
後から駆けつけたベルナールが、驚いたように、私の言葉を遮った。
「宰相様、不躾ながら進言いたします。ソフィの決断は、私たちにとって、少なくとも僕には理解できるものです。しかし、あなたにとっては分からない。でも、いつもは違います。あなたにとっては当然の結論も、他のものにとってはそうではないのです。」
その場にいる全員がうなずいている。そこでやっと自分を取り巻く職員たちが、自分とは同じ考えでないことに気がついた。彼らは皆、ソフィが辞表を出した理由が分かるというのか…。
「そうだったのか。でも、どうして誰もいってくれなかったのだ?」
「それは……」
輪の中の誰かが口を開いた。
「なぜって、ソフィがいたからです。」
他の誰かが言葉を継いでゆく。
「今だって、みんな宰相室を出た後、ソフィに聞きに行っていたのです。」
「だから、ソフィがいなくなったら……」
最後にベルナールが、そのバトンを受け取った。
「宰相様、これは国家の危機です。早く事態を収拾して下さい。」
「でも、ソフィはもう出ていってしまった。」
「何言っているんですか。家にいるんでしょ。このまま追いかけていって、ソフィと話すんですよ。」
「エリオット、夫婦喧嘩は、早く謝るに限るぞ。」
気づけば、職員たちは左右に分かれ、国王陛下が立っていた。
「陛下!」
「国家の危機と聞こえたから、来てみれば。ほら、急いで帰れ。」
「承知いたしました。」
一礼してから、私はソフィの待つ自宅へと駆け出した。それを職員たちが静かに見送った。
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自宅に到着し、ソフィのいる彼女の部屋に向かった。扉を叩くと、返事があった。
「どうぞ。」
彼女はソファに座っていた。いつもと変わらぬ様子の彼女にほっとしつつ、私は彼女の前に跪き、彼女に許しを乞うた。
「ソフィ、すまない。」
「どうされましたか。」
「辞表を出したと聞いた。」
「はい。王宮に私の仕事はもうないみたいなので。」
すごく冷たい声だった。突き離すような言い方から、自分がどれほど彼女を理解していなかったかを思い知った。
「そんなことはない。」
「あります。」
「ソフィ、お願いだ。私の話を聞いてほしい」
そして、彼女の隣に腰掛けた。
「私は間違っていた。言葉が足りなかった。私には君が必要なんだ。」
「でも、あなたは私を首にしたじゃないですか。」
「それは、君に危険が及んだから……。」
報告を受けた時の衝撃が頭をよぎる。近衛兵は事件性はないと言っていたが、事件性になる可能性があったことは否めない。
「あれは事故ですよ。」
「でも、多くの人が君にアプローチをかけていた。いつの日か、君に危害を加える奴が現れるかもしれない。それが起こってからじゃ遅すぎる。」
「でも、私を解任するほどのリスクですか?」
「それほどのリスクだ。君の代わりはいないんだよ。」
「でも、そのせいで王宮が。」
「そのことを先ほどベルナールから聞いて、知った。」
「......」
「財務課に移ってから、君がやってくれていたことも。」
「......」
「王宮にとって、君は必要な存在なんだ。」
「でも、あなたにとってはそうじゃなかった。」
「仕事上ではそうじゃない、と思っていた。でも、それは間違いだったらしい。私が思っていた以上に、君に依存していたようだ。今の私は、君ありきで仕事をしてしまっていたらしい。」
先ほど知った事実が重くのしかかる。気づかぬうちに、私は彼女に依存していたことになる。
「そんなことはないですが。でも、頼りにされるのなら、私は嬉しいです。」
「そうなのか。知らなかった。もっと、君が思っていることを教えてくれ。」
「どうして、私を解任したのですか。」
「それは、……。」
言葉に詰まった。それは自分勝手な理由だった。また公私混同だと叱られてもおかしくはない。
「それは、君を危険から遠ざけたかった。」
「だったら、護衛を増やせばすむ話ではないですか。」
「いや、君をその危険な状態になるまで放置していた私から遠ざけたかったんだ。未だに私は自分を許せない。」
「そんな。」
「君は自分を過小評価しすぎだ。宰相補佐官は誰でもなれる。でも、私の隣に立てるのは君しかいない。」
「エリオット様……。」
ソフィの声はいつの間にか、いつもの優しいものに戻っていたが、私の声は小さく、わずかに震えていた。
「君は、宰相ではなく“エリオット・グランディエ”を見てくれる、たった一人の人間だから。」
次回、最終話になります




