第80話 桜、桜、桜、桜、桜
【桜、桜、桜、桜、桜】
「位置だ。文字の位置よ!」
月依は、何かを悟ったように声を上げた。四人の視線が、一斉に彼女へ集まる。
月依は池底に刻まれた五つの文字を見渡し、指先で空中に円を描いた。
「この五つの文字は、ただ歌の言葉を示しているだけではありません。それぞれの位置が、和歌の中でその言葉が現れる位置と対応しているのです。五つの花びらは、一首全体を秘めた術式なのかもしれません」
「位置と、歌の中の位置が対応している……?」
紬彦は眉をひそめ、池底を見下ろした。
「だが、文字は『見』『惜』『雨』『零』『花』の順に刻まれていたはずだ。歌の順序とは違うのではないか?」
「いいえ。刻まれた文字の位置を、目に入った順に読むのではありません。『雨』『零』『花』『見』『惜』――和歌の流れに沿って読み解くのです。それぞれの文字が、歌の中の特定の言葉を示しているのですから」
月依は首を横に振った。
「『春雨は、いたくな降りそ、桜花。未だ見ぬ人に、散りなましかば』。この歌の中で、それぞれの言葉がどこに置かれているか。それを池の上に写し取るのです」
彼女は一歩、池の中央へ近づいた。
「五つの花びらは、一つの輪を形作っています。文字の刻まれた位置も、中心からの距離も、それぞれ微妙に異なっている。これは偶然ではありません。歌の中で言葉が現れる位置を、池の上に写し取ったものなのです」
仁翔は目を細めた。
「つまり、文字の並びではなく、文字の位置そのものが暗号になっているということか」
「そうです」
月依は頷き、池の形を改めて見渡した。
「そして、この池が桜の花を模していることにも意味があるはずです。『桜』という字の位置が、その手掛かりなのかもしれません」
斎姫は池底に刻まれた五つの文字を見つめ、花びらの形と文字の配置を一つずつ確かめていった。
彼女の視線は、文字から花びらへ、花びらから池の中央へと移っていく。やがて、その瞳にひらめきの光が宿った。
「……分かりました」
斎姫は、池の中央から少し離れた一点を指し示した。
「桜の文字が示す場所は、ここです。この転送陣を起動するための要所に違いありません」
「桜の文字が示す場所?」
紬彦が聞き返した。
「ええ。五つの文字は、和歌の中の言葉と位置を対応させています。そして、その配置を正しく読み解くと、桜花を表す位置が浮かび上がる。この桜の花びらを模した転送陣において、そこは単なる文字の一つではありません」
斎姫は、指し示した場所から目を離さずに続けた。
「こここそ、転送陣を起動する場所です」
正雪は、その一点をじっと見つめた。
「なるほど……」
しかし、仁翔はすぐには納得しなかった。池の周囲を見渡し、低く唸る地鳴りに耳を澄ませる。
「起動する場所が分かっただけで、転送陣が動くとは限らない。何をすればよいのか、慎重に確かめる必要がある」
「その通りです」
斎姫は頷いた。
「古い転送陣なら、霊力を注ぐのかもしれません。あるいは、祭祀の作法が必要なのかも……」
「いや、まずは触れてみよう」
正雪は静かに言った。
「ここまでの手掛かりは、自然の変化と古い歌に結びついていた。ならば、力任せに霊力を流し込むより、仕掛けが何を求めているのか確かめるべきだ」
彼は一歩、前へ進んだ。
五人の視線が正雪の背に集まる。
池底を照らす赤い光は、なおも脈打ち続けていた。地下深くから響く地鳴りは、まるで眠れる巨獣が息をするように、低く、重く、絶え間なく続いている。
正雪は斎姫が示した場所の前に立ち、ゆっくりと膝を折った。
そして、指先をそっと石面へ近づけた。
石面から伝わってくるのは、熱でも冷気でもなかった。それは、遥かな昔に封じられた何かが、彼の存在を確かめているかのような、不思議な感覚だった。
仁翔は警戒を強め、紬彦はいつでも動けるように身構えた。斎姫もまた、いつでも印を結べるよう、静かに両手を構える。月依も防御の印を結び、万一の事態に備えて正雪を助けられるよう、神経を研ぎ澄ました。
正雪は呼吸を整えた。
ここまでの道のりで、幾度となく危険に直面してきた。だが、目の前にあるのは、単なる罠ではない。何百年、あるいは何千年もの時を超えて、なお機能し続ける古の術式だ。
その仕組みを知るには、まず自ら触れてみるしかない。正雪は指先から、ごくわずかな霊力を石面へと流し込んだ。
次の瞬間――。
**ゴゴゴゴゴッ!**
大地が、突如として震えた。
池底から轟音が響き渡り、まるで地下の海そのものが目を覚ましたかのように、膨大な水が一気に噴き上がった。
「危ない!」
仁翔が叫んだ。
五人は反射的に池から飛び退いた。
轟音は途切れることなく続き、池底から湧き出した水は、あっという間に五つの花びらを満たしていった。水面がせり上がり、赤い鉱脈の光を激しく揺らしながら、池はみるみるうちに元の姿を取り戻す。
水は、なおも勢いよく流れ込んでいた。まるで池の底に、海へと通じる巨大な水門が開いたかのようだった。やがて、轟音が弱まった。
最後の水しぶきが水面に落ち、波紋が幾重にも広がっていく。水の噴出は、ようやく収まった。
しかし――。
転送陣が起動する気配はなかった。
水面には、何事もなかったかのように地下の赤い光が映っている。先ほどまで池底に露わになっていた文字も、今では深い水の底に沈み、揺らめく光の向こうにぼんやりと見えるだけだった。
「……どういうことだ?」
紬彦が呆然と呟いた。
正雪は自分の指先を見つめた。
確かに霊力を流した。それも、ごくわずかな量にすぎない。それなのに、池はまるで何かに逆らうように大量の水を吐き出した。
起動に失敗したのか。それとも、何かを間違えたのか。五人は池を取り囲み、しばらく考え込んだ。
「霊力を流した途端に、水が噴き上がった……」
斎姫は眉を寄せた。
「もしこれが起動の反応なら、なぜ転送陣は動かないのでしょう。何か別の条件を満たしていないのかもしれません」
「あるいは、霊力の流し方が違ったのか……」
正雪は池底を見つめた。しかし、どれだけ考えても、答えは出なかった。
彼らは池の周囲を調べ、石面に異常がないか、霊力の流れに変化がないかを確かめた。だが、先ほどの水の噴出を説明できる手掛かりは見つからなかった。
やがて時が過ぎ、地下の赤い光も、絶え間ない地鳴りも、何事もなかったかのように続いていった。池の水位は再び自然の潮の満ち引きに従い、ゆっくりと上下を繰り返した。
満ちては引き、引いては満ちる。彼らは水位の変化を何度も見届けたが、新たな手掛かりは得られなかった。
「……次の大潮を待つしかないか」
仁翔が重々しく言った。
一同は、ひとまず次の大潮の干潮を待つことにした。だが、彼らの胸には、疑問が残っていた。そもそも、この転送陣は何をすれば起動するのか。
大潮の干潮が必要なのは分かった。池底の文字の位置も読み解いた。起動点らしき場所も見つけた。それでも、転送陣は彼らを先へ進ませようとしない。
まるで、古の術者が後世の者を試すために、最後の謎だけを巧妙に隠しているかのようだった。
そのとき――。
「……分かったかもしれません」
沈黙を破ったのは、月依だった。四人が一斉に振り向く。
月依は足元の平らな岩に手をかざし、霊力を静かに巡らせた。
すると、赤い光が岩の表面に集まり、池の輪郭が浮かび上がった。五つの花びらが一つずつ描き出され、その内部に刻まれた文字まで、実物と寸分違わぬ形で再現されていく。
「文字の位置も重要です。でも、それだけではありません」
月依は再現された池を見下ろし、五つの文字を指し示した。
「文字の**向き**も重要なのです」
「向きだと?」
正雪が聞き返した。
月依は頷いた。
「よく見てください。この五つの文字は、同じ方向を向いていません。それぞれ、微妙に刻まれた向きが違うのです」
紬彦は身をかがめ、再現された文字を凝視した。
確かに、五つの文字は、すべて同じ向きに刻まれているわけではなかった。文字の傾きはわずかな違いにすぎない。だが、これまで意味と位置ばかりに気を取られていた彼らは、その違いを見落としていたのだ。
月依は静かに言葉を続けた。
「つまり、これは一つの和歌を示しているのではありません。五つの文字が、それぞれ別の和歌を示しているのです」
「五つの和歌……?」
斎姫が息を呑んだ。
「ええ。『雨』『零』『花』『見』『惜』――それぞれの文字を手掛かりに、五つの花びらに隠された術式を読み解くのです」
月依は、再現された五つの花びらを順に指でなぞった。
「一つの花びらが一首の和歌を示しているとすれば、池全体には五首の和歌が隠されていることになります。そして……」
彼女の視線が、池の中央へと移った。
「『桜』を示す場所も、一つではないはずです。五つの花びらのそれぞれに、桜を示す位置が隠されている。もしそうなら、起動点は一か所ではありません」
「五か所、ということか……」
仁翔の表情が変わった。
月依は強く頷いた。
「そうです。私たちは、桜花を示す一つの場所だけに霊力を流し込んでしまった。だから転送陣は正しく起動せず、池の水だけが反応したのかもしれません」
正雪は、再現された池底の模様を見つめた。
五つの花びら。五つの文字。そして、五つの和歌。それらは別々の謎ではなく、互いに結びついた一つの大きな術式なのだろう。
「ならば、五つの『桜』を示す場所を探し出し、そこへ同時に霊力を流せばいいのだな」
正雪が言うと、月依は静かに頷いた。
「ただし、まだ確証はありません。それに、桜を示す位置を特定するには、ほかの文字との関係も調べなければなりません。一つの文字だけでは、一首の和歌におけるほかの言葉の位置までは分からないのです」
仁翔は腕を組み、池の形をじっと見つめた。
「……ならば、この池そのものに手掛かりがあるのではないか」
「池そのものに?」
紬彦が尋ねた。
仁翔は五つの花びらを順に見渡した。
「五つの文字は、それぞれ五つの小さな池に刻まれている。ならば、文字の向きや位置だけでなく、各々の池の大きさも関係しているのではないか。五つの池を同じ縮尺で捉え、文字の位置と向きを和歌に照らし合わせてみるのだ。そうすれば、隠された『桜』の位置を割り出せるかもしれない」
月依の目が、はっと見開かれた。
「……なるほど。五つの池を、それぞれ独立した術式として調べるのですね。そして、同じ基準で位置と向きを写し取れば、五首の和歌に隠された共通点が見つかるかもしれません」
「そういうことだ」
仁翔は頷いた。
「池の形も、文字の配置も、刻まれた向きも、すべて古の術者が意図して定めたものだろう。ならば、そこに無意味な違いがあるはずはない。例えば、こういうことだ」
仁翔は再現された池に手をかざした。
彼の掌から青白い霊光が流れ出し、月依が描いた池の輪郭を包み込む。五つの花びらが淡く輝き、それぞれの内部に細かな線が走り始めた。
線は花びらの縁をなぞり、文字の位置を結び、やがて複雑な図形へと変わっていった。
「これは……」
紬彦が息を呑む。
仁翔は答えず、さらに霊力を注いだ。
次の瞬間、池の上に五つの和歌が浮かび上がった。
一首、また一首。
それぞれ異なる花びらの上に、古い言葉が淡い光をまとって現れる。文字は空中に浮かんでいるだけではなかった。句ごとに位置を変え、文字の向きに従って回転し、花びらの輪郭に沿って整然と並んでいく。
まるで、見えない筆が虚空に和歌を書き記しているかのようだった。
**五つの花びらに、五つの和歌。**
その光景を前に、五人はしばし言葉を失った。月依は、再現された和歌を一首ずつ見つめた。五つの花びら。五つの和歌。そして、五つの『桜』。
「……見えてきました」
斎姫は再現された図形に目を凝らした。
「五つの和歌を別々に解くではない。五つすべてを重ね合わせることで、初めて転送陣の全体像が見えるということですね」
「ええ」
月依は頷いた。
「一つの和歌だけでは、桜を示す位置を確定できません。けれど、五つの花びらを同じ基準で照らし合わせれば、互いの位置関係から答えを導き出せたのです」
仁翔は再現された池を見つめ、静かに言った。
「古の術者は、一つの手掛かりだけで答えにたどり着けないようにしていたのだろう。次の大潮で水が引いたら、確かめましょう」
月依は決意を込めて言った。その言葉に、四人も頷いた。
地下深く、桜の花びらを模した池は、再び静寂に包まれた。
水面の下では、古の転送陣が何事もなかったかのように沈黙している。だが、その奥底には、今なお失われぬ術式の力が息づいていた。
起動には至らなかった。それでも、彼らは確かな一歩を踏み出していた。




