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日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―  作者: 紅連山


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第79話 桜池の秘文

【桜池の秘文】


 五人は、どれほど深く地下へ降りてきたのか、もはや見当もつかなかった。


 降り始めてから、かなりの時が過ぎている。足元から伝わる熱気は次第に弱まり、あの耐え難い高熱に包まれた階段も、ようやく越えたようだった。


 意外なことに、地下の世界は暗闇に閉ざされてはいなかった。岩壁の隙間から赤い光が漏れ、地下の通路や岩肌をぼんやりと照らしている。赤黒い鉱石は呼吸するかのように明滅し、その光が岩壁に奇怪な影を浮かび上がらせていた。


 それでも、安らぎを覚えることはできなかった。


 地の底から響く低い轟音が、一刻たりとも途絶えないのだ。まるで、地下深くに眠る巨大な獣が、今もなお寝息を立てているかのようだった。


 やがて、長く続いた地下通路が途切れた。五人の目の前に、想像を超える広大な空間が広がった。


 天井は遥か高く、赤い光の届かぬ暗闇の彼方に消えている。岩壁のあちこちには赤黒い鉱石が埋まり、それらは脈打つように明滅していた。地面には古代の紋様が刻まれ、幾千年もの時を経てもなお、かすかな霊気を放っている。


 「ここが……桜島の地下なのか」


 紬彦が思わず呟いた。


 斎姫は周囲を見渡し、静かに頷いた。


 「ええ。ここが地下第一層です。月詠神宮に伝わる古い記録にも、そう記されています」


 彼女の声には、わずかな緊張が滲んでいた。


 「歴代の桜島の巫女たちが立ち入ることを許されたのは、この第一層まで。これより下へ進んだ者の記録は、残されていません」


 「つまり、ここから先は誰も知らないということか」


 仁翔が尋ねた。


 「少なくとも、私が知る限りでは」


 斎姫はそう答えると、空間の奥へと視線を向けた。


 「焔天槍はどこにある?」


 紬彦が尋ねた。


 「この下でしょう。少なくとも、この第一層にはありません」


 斎姫は慎重に言葉を選んだ。


 五人がここへ来た真の目的は、それぞれ異なっていた。しかし、今は互いの思惑を胸の内に秘め、地下深くで生じた異変の原因を突き止めるという目的で一致している。


 そして、何よりも先に確かめなければならないのは、桜島を鎮めてきた焔天槍の状態だった。


 焔天槍のもとへ辿り着くには、まず、この地下第一層を突破しなければならない。だが、周囲を見渡しても、下へ続く階段も、洞窟も見当たらなかった。


 そのとき、月依が小さく声を上げた。


 「皆さん、あれを見てください」


 彼女が指差した先には、一つの池があった。いや、正確には、五つの小さな池が集まって形作られた池である。


 それぞれの池は細長く、中央から外側へ向かって広がっていた。五つを合わせると、まるで満開の桜の花を水面に浮かべたような形になる。


 池の縁には精緻な彫刻が施され、五つの花びらを模した区画には、それぞれ異なる古代の紋様が刻まれていた。水面は鏡のように静まり返り、地下に満ちる赤い光を映し出している。


 「桜の花……」


 月依は池のそばへ歩み寄り、そっと水面を覗き込んだ。


 「月詠神宮の紋様にも似ています。けれど、こんな池が地下にあるなんて……」


 「ここには、さらに地下へ降りる道が見当たりません。この池が、その手掛かりなのでしょうか」


 斎姫は池の周囲を慎重に調べながら言った。


 「古い記録には、地下へ通じる転送陣の存在が記されています。ただし、それがどのようなものなのか、起動するには何が必要なのか、そこまでは伝わっていません。そもそも、次の層へ進むこと自体が、古来より禁じられていたのです」


 「転送陣だと?」


 紬彦が眉をひそめた。


 「ならば、この池を起動すれば、先へ進めるということか」


 「そう簡単にはいかないでしょう」


 仁翔は池の縁に刻まれた紋様を見つめた。


 「転送陣であるなら、何らかの起動条件があるはずだ。無理に霊力を流し込めば、逆に術式を壊してしまうかもしれない」


 五人は池を取り囲み、それぞれの方法で調べ始めた。


 紬彦は霊力の流れを探り、斎姫は古代の紋様を読み解こうとした。月依は神宮に伝わる祭祀の知識を思い起こし、仁翔は転送陣の構造を見定めようとする。


 しかし、いくら調べても、決定的な手掛かりは得られなかった。


 そのとき、正雪が池の縁にしゃがみ込んだ。彼の目は、水面ではなく、池の内壁に残された幾重もの痕跡を捉えていた。


 「……これは」


 正雪は池の壁面を指差した。


 「ここを見てくれ。水の跡が残っている」


 池の内壁には、いくつもの水位の跡が刻まれていた。古いものは岩肌に薄く染み込み、新しいものは黒々とした筋を残している。最も高い水位の跡は、現在の水面よりも遥か上にあった。


 かつて池の水が、壁を越えんばかりに増水したことを示しているようだった。


 「地下水の増減かもしれませんね」


 月依が言った。


 「いや……」


 正雪は首を横に振った。


 「この高さまで水が上がるのなら、単なる地下水の変化では説明がつかない。それに、見てくれ。この痕跡は古いものばかりではない。比較的新しい跡も混じっている。つまり、水位は今も頻繁に変化しているんだ」


 正雪はしばらく考え込んだ後、池の水面へ視線を戻した。


 「海の潮のように……。もしかすると、この池は海と繋がっているのではないか?」


 五人の視線が、一斉に正雪へ集まった。


 正雪は人差し指を水に浸し、指先についた水を軽く舐めた。


 「正雪、何をしているのですか!」


 斎姫が驚いて声を上げた。


 「大丈夫だ。毒の気配はない」


 正雪は指先を拭い、確信を込めて言った。


 「やはり、海水だ。塩の味がする」


 「海水だと?」


 仁翔の目が細くなった。


 正雪は立ち上がり、池全体を見渡した。


 「もし海と繋がっているのなら、潮の満ち引きに合わせて水位が変わるはずだ。満潮には水が増え、干潮には水が引く。その変化に、転送陣を起動する手掛かりが隠されているのかもしれない」


 「なるほど……」


 紬彦は腕を組み、池を見下ろした。


 「水が引いたときに、池底に何かが現れるということか」


 「確かめてみる価値はありますね」


 仁翔も同意した。


 五人は池のそばで、しばらく様子を見ることにした。やがて、水面に変化が生じた。最初は、ほんのわずかな揺らぎだった。だが、次第に水位が下がり始め、池の縁に新たな水跡が残されていく。


 「本当に水が引いている……!」


 月依が息を呑んだ。


 正雪は水面を見つめながら、静かに頷いた。


 「やはり、潮の満ち引きだ」


 しかし、しばらくすると水位の低下は止まった。池底は、依然として深い水の下に沈んでいる。


 「これ以上は引かないのか?」


 紬彦が尋ねた。


 正雪は首を横に振った。


 「今日は若潮だ。潮の干満の差が小さい。これでは、池底を露出させるほど水は引かないのだろう」


 「ならば、強引に水を抜けばよいのではありませんか?」


 斎姫の言葉に、紬彦が頷いた。


 「やってみよう」


 紬彦は池の縁に立ち、両手を胸の前で組み合わせた。指先が素早く動き、幾つもの印を結ぶ。


 「吸水印!」


 彼の掌から霊力が放たれ、池の水面が激しく波立った。水が渦を巻き、中央へ向かって吸い寄せられていく。水位は目に見えて下がり、池底の輪郭が浮かび上がった。


 しかし、次の瞬間だった。


 ゴオオオオッ!


 池の底から、轟音とともに大量の水が噴き上がった。まるで地の底に巨大な水脈が開いたかのようだった。吸い上げられた水が消え切る前に、さらに新たな水が湧き出し、池は瞬く間に元の水位へ戻ってしまった。


 「くっ……!」


 紬彦は術を解き、後ずさった。


 「いくら吸い上げても、底から補充される。これでは埒が明かない」


 正雪は顎に手を当てた。


 「やはり、普通の池ではないな」


 彼は懐から河童の壺を取り出した。


 正雪はこの宝具の力をよく知っていた。河童の壺は、外見からは想像もつかないほどの容量を持つ。川の水どころか、海の水さえも収められるのではないか――そう考えたのだ。


 「翠夏、準備はいいか?」


 「いつでもいいぞ」


 壺の中から、仙蛙の声が響いた。


 正雪は壺の口を池へ向けた。


 「吸水!」


 壺が淡い光を放ち、池の水が勢いよく吸い込まれていく。一刻、また一刻。水面は渦を巻き、壺の中へと流れ込んでいった。だが、いくら吸い込んでも水は尽きなかった。


 河童の壺がいくら大きな容量を持っていようと、底から湧き続ける水には追いつけない。池はまるで海そのものと繋がっているかのように、絶え間なく水を供給し続けていた。


 やがて正雪は壺を下ろした。


 「……駄目だ。これでは、いくら吸ってもきりがない」


 正雪は池を見つめ、ゆっくりと続けた。


 「だが、一つ分かったことがある。この池こそが転送陣だ」


 「なぜ、そう思うのですか?」


 斎姫が池の縁に刻まれた紋様を見つめながら尋ねた。


 「地下水が自然に補給されているだけなら、吸い上げる速度が補給の速度を上回れば、水位は下がるはずだ。だが、俺たちが水を吸い上げると、間を置かずに大量の水が補充された。自然な湧水とは考えにくい」


 正雪は、池底の奥を見通すように目を細めた。


 「これは単なる補給ではない。どこかから水そのものが転送されているんだ。おそらく、海とこの池を結ぶ術式がある」


 「つまり、この池は海と繋がる転送陣であり、その仕組みが地下へ進むための転送陣にも関係している……ということか」


 仁翔が言葉を継いだ。


 「そうだ。だが、どうすれば起動するのかは、まだ分からない」


 正雪は池の水面を見つめた。


 「今、俺たちにできることは一つだ。大潮の日を待とう。海の干満の差が最も大きくなるときなら、この池もまた、底を見せるかもしれない」


 五人に異論はなかった。彼らは池のそばで交代しながら休息を取り、潮の変化を待ち続けた。


 そして、幾日かが過ぎた。ついに、大潮の日が訪れた。地上では、海が大きく潮を引く時刻。桜池にも、明らかな変化が現れ始めた。


 水面がゆっくりと下降していく。昨日まで水を湛えていた五つの花びらが、次々とその姿を現した。水位はなおも下がり続け、ついには池底が完全に露出した。


 「本当に……引いた」


 月依は息を呑んだ。


 そこには、五つの花びらに分かれた池底があった。それぞれの底面には、岩肌に刻まれた古代文字が浮かび上がっている。


 『見』『惜』『雨』『零』『花』


 五つの文字は、赤い光を受けて淡く輝いていた。


 「見、惜、雨、零、花……」


 紬彦が一字ずつ読み上げた。


 「何かの暗号でしょうか?」


 月依が首を傾げた。


 斎姫は膝をつき、文字の周囲を注意深く調べた。だが、文字のほかに目立った仕掛けは見当たらない。


 仁翔は腕を組み、五つの花びらを順番に見渡した。


 「文字の並びに意味があるのか。それとも、並べ替える必要があるのか……」


 正雪は五つの文字を見つめていた。


 「この五つの文字は、花びらの中央には刻まれていない。わざと位置をずらしているのか……?」


 彼は五つの花びらを順に見渡した。文字はどれも、池の中心から少し離れた場所に刻まれている。単なる装飾にしては不自然だった。


 そのとき、月依がふと顔を上げた。


 「……この文字、どこかで見たような気がします」


 彼女は五つの文字を、もう一度、静かに読み上げた。


 「雨、零、花、見、惜……」


 そして、何かを思い出したように目を見開いた。


 「そうです。古い和歌です!」


 月依は胸の内に眠る記憶をたどるように、ゆっくりと詠み始めた。


 「春雨は、いたくな降りそ、桜花……」


 彼女の声が、広大な地下空間に響いた。


 「未だ見ぬ人に、散りなましかば……」


 それは、古くから伝わる歌だった。


 春雨は いたくな降りそ 桜花 未だ見ぬ人に 散りなましかば


 春雨よ、どうか激しく降らないでおくれ。まだ逢ったことのない人に見てもらう前に、桜の花が散ってしまったら、あまりにも惜しいではないか――。


 月依は歌を詠み終えると、五つの花びらを見つめた。


 「この五つの文字は、歌の中にある言葉を示しているのかもしれません。『見』『惜』『雨』『零』『花』ではなく、『雨』『零』『花』『見』『惜』の順番です。そして、文字そのものを読むのではなく、和歌を思い出すための手掛かりだったのです」


 「なるほど……」


 斎姫は、はっとしたように池底を見つめ直した。


 「桜の形をした転送陣に、桜の歌。偶然とは思えませんね」


 「しかし、歌を詠むだけでよいのか?」


 紬彦が問いかけた。


 その疑問に答えるように、正雪は池の中央へと歩み寄った。


 「いや、まだ何かあるはずだ。文字が花びらの中央からずらして刻まれているのなら、その位置にも意味がある。歌を詠むだけでなく、五つの花びらを正しい順番で巡る必要があるのかもしれない」


 仁翔は黙って頷いた。


 「和歌の順序に従って五つの文字を辿る……。それが、この転送陣の起動条件か」


 五人は池底を見つめた。海の潮が引くときだけ姿を現す、五つの文字。


 桜の花を象った池。そして、古い和歌に秘められた言葉。それらが偶然であるはずはなかった。


 だが、正しい順番で文字を辿るべきなのか。それとも、歌に込められた別の意味を読み解かなければならないのか。


 答えは、見えていない。


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