第71話 火霊鳥王の警告
【祀花という名】
硫黄烏の大群が黒雲のように空の彼方へ消えていくと、先ほどまで火山一帯を覆っていた張り詰めた殺気も、ゆっくりと霧が晴れるように薄らいでいった。
熱風だけが、黒き火山灰を巻き上げながら、荒涼たる山肌を吹き抜けていく。
「きゅいっ!」
その静寂を破ったのは、小さな火霊――朱音だった。得意満面に胸を張り、真紅の炎をふわりと揺らしながら、勝利を誇るように高らかに鳴く。
「きゅい、きゅいっ♪」
まるで、――見ただろう?――朱音はすごかっただろう?
そう自慢しているかのように、正雪の肩の周りをくるりと一回転する。その無邪気な姿に、先ほどまで死地をくぐり抜けてきた三人の頬にも、自然と笑みが浮かんだ。
朱音は満足そうに何度も頷くと、ふわりと宙を舞い、そのまま河童の壺の口へ飛び込む。
ぽすん。小さな音が響き、壺の奥から機嫌の良い声が聞こえてきた。
「きゅい~♪」
どうやら朱音は、すっかりこの河童の壺を自分の住処と決めてしまったらしい。
壺の奥では、仙蛙・翠夏が呆れたように鼻を鳴らす。
「……まったく。勝手に居候が増えおったわ。」
そうぼやく口調とは裏腹に、その声音にはどこか親しみが滲んでいる。
壺の中では狸の千蔵と徳姫、梨花も何やら楽しげに騒ぎ、以前にも増して賑やかな空間となっていた。
正雪は思わず苦笑すると、河童の壺を背負い直し、二人に視線を向ける。
「さて、先へ進もう。」
「はい。」「うん。」
月依と斎姫も静かに頷き、再び歩き始めた。目指すは北岳。その先に待つのは南岳火口――結界異変の真相である。
黒き火山灰を踏み締める足音だけが、静まり返った山道に規則正しく響き渡っていた。
しばらく歩いた頃。月依が何気ない様子で口を開く。
「ねえ、正雪。一つ、お聞きしてもいいですか?」
穏やかな声だった。しかし、その澄み切った瞳には、どこか悪戯めいた光が宿っている。
「祀花って……どんな方なんですか?」
「…………は?」
正雪の足が、ぴたりと止まった。頭の中が、一瞬で真っ白になる。まるで雷に打たれたかのような衝撃だった。
月依は口元を隠し、小さく微笑む。
「火毒の幻に囚われていた時、何度もそのお名前を呼んでいましたよ。『祀花……』って。」
「えっ……。」
正雪の顔から、みるみる血の気が引いていく。
その反応を見逃すはずもなく、斎姫が待っていましたと言わんばかりに身を乗り出した。
「そうそう!正雪さんって、巫女袴姿の女の子が好きなんですか?」
「その祀花さんって、どんな巫女さんなんです?」
さらに目を細め、楽しそうに追い打ちをかける。
「月依姉ちゃんより可愛いんですか?」
「ほら、月依姉ちゃんも巫女袴ですよ?なっ……!」
月依の白い頬が、ほんのり桜色へと染まる。
「ちょ、ちょっと斎姫!どうして私と比べるの!」
そう言いながら、小さな拳を振り上げる。
「もうっ!」
ぽかっ。
軽い拳が斎姫の頭へ落ちた。
「いたっ!」
頭を押さえながらも、斎姫は楽しそうに笑う。
「だって、気になるじゃないですか。月依姉ちゃんだって、本当は知りたいんでしょう?」
「そ、それは……。」
月依は言葉を失い、慌てて視線を逸らす。しかし、耳まで赤く染まった様子が、彼女の本心を何より雄弁に物語っていた。
どうやら二人とも、正雪が火毒の幻境で呟いていた言葉を、しっかり聞いていたらしい。
「いや、その……。」
正雪は慌てて弁解しようとする。
「違うというか……。いや、違わないというか……。その……。あの……。えっと……。」
言葉がまったく出てこない。額を掻きながら必死に説明を探すものの、口から漏れるのは曖昧な言葉ばかりだった。
祀花――。火毒の幻境で出会った彼女は、あまりにも美しかった。
しかし、あれは正雪の知る祀花ではない。
彼が知る祀花は、真面目で厳しく、それでいて誰よりも仲間を想う巫女だった。
幻の中で見た祀花は、その面影を残しながらも、どこか可愛く、艶やかで、まるで心の奥底に眠る願望が形を得た存在のようだった。
だからこそ、どう説明しても誤解を招くだけだと、正雪自身が一番よく分かっていた。
困り果てる正雪を見て、月依と斎姫は顔を見合わせる。そして、くすりと笑みをこぼした。
「ふふっ。正雪さん、本当に分かりやすいですね。」
月依も堪え切れず、小さく笑う。
その笑顔には、からかう楽しさだけではなく、どこか胸を撫で下ろしたような安堵も滲んでいた。
正雪はついに観念し、大きく息を吐く。
「……頼むから、もう勘弁してくれ。」
情けないその一言に、二人はとうとう耐え切れなくなった。
「あはははっ!」
澄み切った笑い声が、黒き火山岩に囲まれた荒涼たる山道へ、鈴の音のように響き渡る。
つい先ほどまで命を懸け、硫黄烏の大群と死闘を繰り広げていたとは思えないほど、穏やかな時間だった。
火毒はなお大地に満ち、深淵では火霊三王が密議を重ね、そのさらに地下では、数万年の眠りにつく鬼王・鬼八が静かに目覚めようとしている。
世界は確実に、大きな災厄へ向かって動き始めていた。
それでも今だけは――。
仲間と笑い合える、この何気ないひとときこそが、何ものにも代え難い宝物だった。
灼熱の火山を吹き抜ける一陣の風は、三人の笑顔を優しく包み込み、その背を静かに北岳へと押していく。
【火霊鳥王の警告】
「あ、そうだ」
斎姫が何かを思い出したように正雪を見つめた。
「真面目な話なんですけど……」
先ほどまでの悪戯っぽい笑みは少しだけ影を潜め、その瞳には純粋な興味が宿っている。
「正雪さんって……彼女はいるんですか?」
突然の問いに、正雪は思わず足を止めた。
「……いないよ」
少し考え込むように空を見上げ、小さく肩をすくめる。
「祀花は仲間だ。それ以上でも、それ以下でもない」
その言葉を聞いた瞬間、斎姫の瞳がぱっと輝いた。
「やった!」
両拳を握り締めると、勢いよく月依へ振り返る。
「月依姉ちゃん、チャンスだよ!なっ!?」
月依の白い頬が、一瞬で赤く染まる。
「な、何を言っているの!」
慌てて斎姫の肩を掴み、小声でたしなめる。
「そんなこと、本人の前で言うものではありません!」
「えー?」
斎姫は悪戯っぽく笑った。
「でも、本当は嬉しいんでしょう?」
「も、もうっ!」
恥ずかしさのあまり月依は小さな拳を振り上げる。斎姫は手で頭を隠しながらも、くすくすと笑い続けていた。
そんな二人を見て、正雪は苦笑しながら頭を掻くしかない。
火毒が漂う危険な火山とは思えぬほど、三人の間には穏やかな空気が流れていた。
しかし――。
その笑い声は、不意に止まる。
いつの間にか。三人の進む道を塞ぐように、一羽の巨大な霊鳥が静かに佇んでいた。
誰一人、その気配を察知できなかった。
まるで天地と一体となり、最初からそこに存在していたかのように。
全身を覆う羽毛は紅蓮の霊炎に包まれ、背には天空を覆わんばかりの巨大な双翼が広がっている。翼がわずかに揺れるだけで、灼熱の霊風が吹き荒れ、黒き火山灰が渦を巻いて舞い上がる。
鋭く湾曲した嘴は神兵の刃のように輝き、猫を思わせる黄金の双眸は、静かに三人を見下ろしていた。
威圧する素振りは一切ない。しかし、その身から自然に溢れる霊圧だけで天地は震え、大気は鉛のように重く沈み込む。
正雪は無意識に息を呑んだ。
――強い。これまで遭遇した妖や火霊とは、まるで次元が違う。
その存在はまさに天地へ君臨する王。
三人は直感する。
目の前にいるのは――火霊三王、その一柱。火霊鳥王。
鳥王は静かに口を開いた。
「若き者たちよ。」
低く重厚な声が山々へ響き渡る。
「引き返せ。ここより先は、人の踏み入るべき場所ではない。」
黄金の双眸が正雪たちを見据えた。
「進めば――死ぬ。」
脅しではない。長き時を生きた王が告げる、揺るぎない事実だった。
月依は静かに一歩前へ進み、深々と一礼する。
「火霊鳥王様。私たちは桜島結界の異変を察知し、その原因を調べるため参りました。どうか、お通しください。」
鳥王は月依を静かに見つめる。やがて、小さく鼻で笑った。
「結界だと。人の子が、何を知る。」
その声に怒りはない。あるのは、長き年月を生きた者だけが抱く深い諦念だった。
鳥王はゆっくりと天を仰ぐ。
「あのお方は……目覚めようとしている。」
その瞬間。空気が凍りついた。
「あのお方……?」
斎姫が思わず呟く。
鳥王は答えない。ただ遥か地下深くを見透かすように目を細めた。
「目覚めれば、すべては終わる。人も。妖も。そして、この桜島さえも。」
その言葉は大地そのものを震わせるほど重かった。
正雪は拳を固く握る。
「だからこそ止める。封印を守るために、俺たちは来た。」
鳥王は静かに首を横へ振った。
「無駄だ。再封印など、不可能だ。」
その一言には、数え切れぬ時代を見届けてきた王だけが知る確信が宿っていた。
しかし、斎姫は一歩も退かない。
「試さなければ分かりません!それに封印の地には焔天槍があります。その力を借りれば、まだ希望はあります!」
焔天槍。その名が耳に入った瞬間、鳥王の黄金の瞳が初めてわずかに揺れた。
「……ほう。焔天槍の存在まで知っているか。」
しばし三人を見つめる。やがて静かに息を吐いた。
「ならば。死ぬ覚悟があるのなら、進むがよい。」
その声音は依然として冷たい。だが、先ほどまでの拒絶とはどこか違っていた。
「だが――。儂は、お前たちと問答を続ける暇はない。」
巨大な双翼がゆっくりと広がる。轟――。熱風が吹き荒れ、火山灰が天高く巻き上がった。
「この先へ進みたければ、その資格を示せ。」
鳥王が翼を軽く振る。その瞬間、周囲の火山岩の裂け目から三つの灼熱の霊影がゆっくりと姿を現した。
一体は、紅蓮の炎を纏う火狼。牙を剥き、黄金の瞳をぎらつかせながら低く唸る。
一体は、溶岩のような鱗を持つ火蛇。巨体をうねらせるたび、地面は赤く焼け焦げ、熱気が立ち昇る。
そして最後の一体は、黒紅の霊炎に包まれた火鴉。鋭い嘴を鳴らし、翼を広げると、不吉な鳴き声が火山へ響き渡った。
三体の火霊はいずれも尋常ならざる霊圧を放ち、正雪たちの前へゆっくりと歩み出る。
鳥王は三体を一瞥すると、静かに翼を広げた。
「これらを退けられるならば――。その先へ進むがよい。」
言い終えるや否や、その巨大な姿は紅蓮の炎へと溶け込み、轟音とともに天空へ舞い上がる。一瞬のうちに、その威容は黒煙の彼方へ消え去った。
後に残されたのは、三体の火霊。そして、その奥に続く北岳への険しい道。
正雪は静かに剣の柄へ手を添える。月依は神札を指先に挟み、斎姫も全身へ霊力を巡らせた。
灼熱の山風が吹き抜ける。火狼は低く唸り、火蛇は鎌首をもたげ、火鴉は空高く舞い上がる。
三体の視線が、同時に正雪たちへ注がれた。
火霊鳥王が課した試練。その第一戦が、今まさに幕を開けようとしていた。




