第72話 火霊狼との激闘
【北岳への試練 ――炎狼との激闘】
火鳥王が紅蓮の空へと飛び去ると、その場には三体の火霊だけが残された。
火狼。火蛇。火鴉。
いずれも濃密な火霊気を纏い、その身から放たれる霊圧は、これまで正雪たちが相対してきた妖とは比べ物にならない。まるで灼熱そのものが意思を持ち、目の前に立ちはだかっているかのようだった。
正雪は静かに剣を抜く。
鞘を離れた白刃は、陽炎の揺らめきに照らされ、澄み切った剣鳴を響かせた。
「対戦相手を決めよう」
その視線は真っ直ぐ火狼を捉える。
「俺は火狼を引き受ける。」
月依は神札を指先に挟み、静かに頷いた。
「承知しました。私は火蛇を。」
斎姫も霊力を全身へ巡らせ、明るく笑みを浮かべる。
「では、火鴉は私ですね!」
言葉が終わると同時に、三人はそれぞれの敵へ向かって駆け出した。
その刹那――。
「ガアアアァァァッ!!」
火狼が天地を震わせる咆哮を放つ。轟音は山肌を揺るがし、周囲の火山岩を細かく震わせた。
二丈を超える巨躯。全身を包む紅蓮の炎は絶えることなく燃え盛り、その黄金の双眸には、獣の凶暴さだけではなく、幾度もの死闘を潜り抜けてきた武人のような鋭い眼光が宿っている。
次の瞬間。轟ッ――!!火狼は岩盤を砕きながら一直線に突進した。
巨体とは思えぬ速度。まるで燃え盛る隕石が大地を駆け抜けるかのようだった。
「速い!」
正雪は咄嗟に身体を捻る。牙が鼻先を掠めるほどの距離を通り抜けた。
直後――。ズバァンッ!!背後の巨大な岩壁が、まるで名刀で断たれたように滑らかに切り裂かれる。切断面は赤く焼け焦げ、溶岩のように溶け始めていた。
「牙だけで、この威力か……!」
冷や汗が頬を伝う。まともに受ければ、一撃で命はない。
火狼は振り向きざま、巨大な前脚を振り下ろした。轟!!炎を纏った鉤爪が地面へ叩きつけられると、幾筋もの火柱が噴き上がり、周囲を一瞬で炎の海へと変える。
正雪は高く跳躍し、その火柱を飛び越えた。
しかし――。
「っ!」
炎の壁を突き破り、火狼が再び襲いかかる。予想よりも一歩速い。
正雪は咄嗟に剣を構えた。
ガァァァン!!
牙と刀身が正面から激突し、凄まじい火花が夜空へ散る。衝撃は腕から全身へ突き抜け、骨という骨が軋みを上げた。
「ぐっ……!」
押し返せない。火狼の膂力は、人間の限界を遥かに超えている。正雪はそのまま数丈先まで吹き飛ばされ、岩肌へ激しく叩きつけられた。
砕けた岩片が宙へ舞う。それでも、正雪はすぐに立ち上がった。
「まだだ!」
岩を蹴り、一気に間合いを詰める。火狼も容赦なく追撃する。巨大な尾が鞭のように唸りを上げ、空気そのものを引き裂いた。
正雪は身を低くして辛うじてかわす。だが、尾が肩を掠めただけで衣は焼き裂かれ、肌には焼けるような痛みが走った。
「これが……火霊王配下の力か。」
息が荒くなる。強い。これまで倒してきた妖とは、まるで格が違う。
だが――。正雪は素早く呼吸を整えた。脳裏に蘇るのは、火霊池で味わった地獄のような修業。全身が焼ける痛みに耐え、肉体を極限まで鍛え整えた。
あの苦しみは、この瞬間のためにあった。正雪は剣を構え直し、静かに言い放つ。
「来い!」
火狼が再び跳躍する。正雪は、もう退かなかった。真正面から踏み込む。炎を纏った鉤爪が振り下ろされる、その刹那。
身体を紙一枚分だけ横へ滑らせる。鉤爪は空を裂き、正雪は火狼の懐へ飛び込んだ。
「はあああっ!!」
全霊を込めた一閃。白銀の剣光が紅蓮の炎を真っ二つに裂く。
ザシュッ!!
火狼の胸元に深々と傷が刻まれた。しかし。傷口から溢れ出たのは血ではなかった。
紅蓮の炎。燃え盛る霊炎が傷を包み込み、裂けた身体は瞬く間に元通りへと戻っていく。
「何っ!?」
正雪は目を見開く。火狼は低く唸った。
「霊体だから……斬っても融合するのか。」
普通の斬撃では意味がない。ならば――。霊核を断つしかない。
正雪は火狼の動きをじっと見据えた。咆哮するたび、その胸の奥で赤い光が脈動している。全身を巡る炎は、すべてその一点を中心として流れていた。
「あそこだ……。」
あれこそ霊核。あれを砕かなければ、この火狼は何度でも再生する。
しかし。火狼もまた、自らの弱点を理解していた。正雪の視線に気付いた瞬間、胸元を巧みに前脚と肩で庇い、決して霊核を晒そうとはしない。
黄金の瞳に宿る光は、もはや獲物を狩る獣のものではなかった。己と渡り合う、一人の戦士を見る眼差しである。
「グ……。グ……」
低い唸りとともに、火狼の全身から噴き上がる炎がさらに激しさを増した。
轟――!!紅蓮の炎は巨大な火炎竜巻となって火狼を包み込み、その霊圧は先ほどとは比べものにならないほど膨れ上がる。
放たれる熱気だけで周囲の岩石は赤く溶け始め、大地には蜘蛛の巣のような亀裂が走った。
正雪は剣を握り直す。額から汗が一筋流れ落ちた。
「本気……ということか。」
火狼はゆっくりと前脚を踏み出す。たった一歩。それだけで山肌が震え、熱風が吹き荒れた。
正雪も腰を深く落とし、静かに剣先を火狼へ向ける。勝負は、次の一撃。互いの命を懸けた、本当の決戦が、今まさに幕を開けようとしていた。
【弄海印、破れたり】
火狼が全身を紅蓮の炎に包み込み、その霊圧をさらに高めた瞬間――。正雪は静かに両手を掲げ、素早く印を結んだ。
十指が流れるように組み替わり、丹田より湧き上がる霊力が経脈を奔流のごとく駆け巡る。
「――**弄海印**!」
低く響く詠唱とともに、背負った河童の壺が蒼白い霊光を放った。
ごおおおおおっ――!
次の瞬間、壺の口から濁流が天を衝く勢いで噴き上がる。滝にも等しい激流は虚空で幾重にも渦を巻き、やがて一頭の巨大な蒼龍へと姿を変えた。
龍は長大な身をうねらせ、鋭い牙を剥きながら火狼へ襲い掛かる。
「行け!」
正雪が右手を振るう。蒼龍は天地を裂く咆哮を響かせ、一気に火狼との距離を詰め、その巨大な顎で呑み込もうとした。
火は水に剋される。火霊である以上、この術こそ最大の天敵。正雪はそう確信していた。
しかし――。火狼の黄金の双眸が、静かに細められる。その瞬間、巨躯は炎の残像だけを残して横へ跳躍した。
轟ッ!!蒼龍は岩盤へ激突し、黒き火山岩を粉々に砕き散らす。だが、その一撃は空を切った。
「避けた……!」
正雪は即座に印を変える。
「まだ終わらない!」
蒼龍は空中で大きく身を翻し、本物の龍さながら自在に空を泳ぎながら、再び火狼を追撃する。
右へ逃げれば右へ。左へ跳べば左へ。獲物を逃すまいと、執拗に喰らいつく。
だが――。火狼は、あまりにも速かった。
二丈を超える巨体とは思えぬ軽やかな身のこなしで岩壁を蹴り、噴き上がる火柱を足場に変え、灼熱の大地を縦横無尽に疾駆する。
紅蓮の軌跡が幾重にも重なり、その姿は蜃気楼のように揺らめく。蒼龍ですら、その動きを完全には捕らえられない。
「くっ……!」
正雪の額から汗が滴り落ちる。弄海印は水行仙術。威力は絶大だが、それと引き換えに消費する霊力もまた尋常ではない。
蒼龍を維持するだけで、体内の霊力は濁流のような勢いで流れ出していく。
一方、火狼には疲弊の色がまるで見えない。何度跳び、何度炎を放ち、何度水龍をかわしても、その霊炎は衰えるどころか、ますます勢いを増していた。
「……そういうことか。」
正雪は火狼の足元へ目を向けた。黒く焼けた大地。その地下からは、濃密な火霊気が絶え間なく湧き上がっている。
火狼が大地を蹴るたび、その身体は周囲の火霊気を貪るように吸収し、消耗した霊力を瞬く間に回復していた。まるで、この北岳そのものが火狼の霊力炉となっているかのようだった。
「この地では……火狼の霊力は尽きない。」
正雪は静かに唇を噛み締める。弄海印そのものは決して劣っていない。真正面から命中させることができれば、火狼を押し切るだけの威力はある。
だが、その前に尽きるのは――。
火狼ではない。自分自身の霊力だった。このままでは勝つ前に倒れる。その結末だけは、あまりにも明白だった。
正雪はゆっくりと息を吐き、決断する。
「……これでは勝てない。」
右手を静かに下ろした。
「散れ。」
その一言とともに、蒼龍は咆哮を残して崩れ始める。巨大な龍身は無数の水滴となって砕け散り、灼熱の大地へ雨のように降り注いだ。
ジュウウウウ――。
水滴は地面へ触れた瞬間、白煙となって立ち昇り、一帯は濃密な水蒸気に包まれる。白き霧が視界を覆い尽くす。
正雪は静かに剣を握り直した。
「術では押し切れない……。」
ならば勝機は一つ。火狼の霊核を、一撃で断つ。そのための機会を、自らの剣で切り開くしかない。
そう覚悟を固めた、その刹那だった。火狼は、その一瞬の隙を見逃さなかった。
「ガアアアアァァッ!!」
咆哮とともに、紅蓮の巨体が白煙を切り裂いて飛び出す。速い――いや、速すぎる。視認した時には、すでに眼前まで迫っていた。
「しまっ――!」
正雪は咄嗟に剣を横へ構える。轟ッ!!火狼の右前脚が、山を砕く勢いで振り下ろされた。
炎を纏った鋭い爪と剣身が正面から激突する。凄まじい衝撃波が爆発し、周囲の火山岩が一斉に吹き飛んだ。
「ぐっ……!」
正雪は歯を食いしばり、全身の筋肉を総動員してその一撃を受け止める。火霊池で鍛え上げた肉体が悲鳴を上げながらも、なお踏みとどまる。
しかし――。限界だった。甲高い金属音が山中へ響き渡る。
キィン――。
長年、正雪と幾多の死地を共に潜り抜けてきた霊剣の刀身に、一本の亀裂が走る。そして次の瞬間――。
パァンッ!!
刀身は耐え切れず、無数の破片となって砕け散った。銀色の欠片が炎の中で星屑のように舞い、虚空へ飛び散る。
「……なっ!」
正雪の瞳が大きく見開かれる。愛剣は、折れた。いや――。完全に砕け散ったのである。
火狼は低く唸りながら、黄金の双眸で武器を失った正雪を静かに見据えていた。その眼差しは勝者の嘲笑ではない。なお立ち向かおうとする一人の戦士へ向ける、冷厳なる試練の眼差しであった。
武器を失った修仙者。なお霊力も大きく消耗している。
絶体絶命。




